9月19日放送「宮城県の若者たち」

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 今回は、宮城県の若い世代の声です。まず、津波で大きな被害を受けた気仙沼(けせんぬま)市と南三陸町(みなみさんりくちょう)、去年の台風19号で甚大な被害が出た県南部の丸森町(まるもりまち)で、10代の若者に聞きました。

 気仙沼市の階上(はしかみ)地区には、震災遺構の“気仙沼向洋(こうよう)高校・旧校舎”があります。地区では住宅の半数近くが被災し、津波は校舎の4階まで達しました。

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校舎は被災したままの状態で公開されていて、3階に車が流れ込み、教科書なども散乱したままです。

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今年7月、気仙沼向洋高校の生徒たちは、ここで語り部活動を始めました。旧校舎の中を案内し、震災当時ここで何が起きたのか、さらに自身の被災体験も語ります。メンバーは32人で、全国から依頼を受け、土日に活動しています。リーダーの3年生の男子生徒は、震災時は小学2年生で、津波で家を失ったそうです。

 「自分の家がなくなると思っていませんでした。震災のとき経験したことは昨日のことのように鮮明に残っていて、それを経験者として伝えていきます。震災から10年も経って、被災者の方も高齢化して、あとは自分たちがやることで未来に語り継いでいく、その役割はすごい大きいんじゃないかと考えています。今の話題は連続テレビ小説の舞台に選ばれたことだと思うので、気仙沼は自分の地元でもありますし、すごく好きなので、語り部だけじゃなく気仙沼の良さも伝えていけたらと思います」

 県内では七ヶ浜町(しちがはままち)にも、震災遺児の双子を主人公にして紙芝居を作り、記憶を伝える高校生の団体があります。番組でも以前、津波を経験した高校生が被災地のツアーガイドをするという、東松島(ひがしまつしま)市の団体を紹介しました。どれも非常に意味のある活動です。


 次に南三陸町で、この春から役場職員になった18才の女性を訪ねました。

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町では住宅の約6割が津波で全壊し、役場も被害を受けました。彼女は今、高台に再建された役場で防災無線の放送を担当していて、普段は行政情報を一人で収録し、放送しています。

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彼女は少しはにかんで、“自分の声が町内に響くのが照れくさい”と言いました。震災時は小学3年生で、用水路でザリガニを獲ったり、みんなで駄菓子屋に行くなど当時の思い出は尽きませんが、津波が来て駄菓子屋さんも流されたそうです。

 「町に残りたいと思った魅力は、近所づきあいですね。近くの家の人々とか、助け合って生きている感じがして温かいんです。友だちと進路の話をした時、みんな町外に出払っちゃうから、自分は町から離れないで、生きてきた中でお世話になった地元に貢献したいと思いました。みんなが地元に帰ってくる時に、安心してもらえる場所にしたいです。地元は大好きです。生まれた場所って1つしかないので、そこにしかない空気とか、守っていけたらいいです」


 さらに丸森町では、去年10月の台風19号の被災地に行きました。台風では川の氾濫や土砂崩れが多発し、建物はもちろん道路や橋も大きな被害を受け、孤立した集落もありました。ほぼ1年経ちますが、被災したままの建物も残っており、復旧事業はまだ半ばです。

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住民の半数が家を失った住ヶ市(すみがいち)地区は、人々の絆が強い地区でしたが、避難のため住民が離ればなれになりました。台風後、初めて皆が集まった恒例のバーベキューでは、高齢者の中に一人だけ、地区出身の若者の姿もありました。仙台の大学に通う19歳の女性で、自宅は無事でしたが、家族が営む鉄工場が浸水したそうです。

 「自分が育った所が一番大事だと思うんですよ。自分が成長できたのがこの地域で、前の前の世代も年中行事をずっとやられていたので、引き継いでいく必要があるのかなって思います。やっぱり地元に貢献したいという意思が強いので、後悔のないように大学生活を過ごし、皆さんの役に立てるようにもっと挑戦していきたいと思います。自分は税理士が目標なんですけど、帳簿が流されて税理の手続きがうまくできない方とかいっぱい見たので、もっと手伝えることがあるんじゃないかって思いますね」

 番組にはこれまでも、地元を愛する10代がたくさん出てきました。これは被災地ならではのことで、地元よりも都会に出たいと思う若者が普通です。被災地で育った子どもたちは、全てを無くしながらも、その土地の暮らしや地域社会を守ろうとする大人を間近に見て育ちました。いま自分いる場所はとても尊いところなんだという感覚が、子どもたちの中で自然と培われてきたのでしょう。


 その後、県南部にある亘理町(わたりちょう)に行きました。津波で町の面積の約半分が浸水し、家屋の被害はもちろん、基幹産業のイチゴ栽培も壊滅的な打撃を受けました。

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創業150年の旅館を訪ねると、7代目の20代の男性が話をしてくれました。地震で旧本館は全壊し、取り壊したそうです。神奈川県で働いていましたが、去年9月に故郷に戻り、現在は家業の修業中です。

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高校生までは旅館が嫌で手伝いも一切やらず、継ぐ気はないと言い続けていましたが、震災直後の高校3年の時、避難者を無料で受け入れた際に出会った小学生がきっかけで、思いが180度変わりました。

 「一緒に館内をかけっこしたり、かくれんぼしたり、庭でバドミントンをしたり、いろいろ遊んでやっていまして、1週間後に出て行く時に、“お兄ちゃんありがとう”って、手紙をもらったんです。

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その時に、“この旅館は温かいコミュニティーができ上がる場所なので、潰してはいけない”という思いが沸き上がってきて、それで決心して、今に至ります。家族経営で温泉もないんですけど、150年やってきて、私の代でなくすのはすごく嫌だなって思います。日々新しいことを取り入れてチャレンジしてみる、そうして地域のコミュニケーションがはかれるような場所であり続けたいと思っています」

 亘理町の場合、災害公営住宅の整備などは5年も前に完了し、復興事業の進捗率は100%に近い数字です。復興需要が無くなって久しく、さらにコロナで旅館経営は追い込まれています。男性はSNSで情報発信し、ランチ営業では自ら厨房に入り、“はらこ飯”など地元の味を提供する努力をしています。

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 そして石巻市では、雄勝(おがつ)地区を訪ねました。ほとんどの建物が流され、震災前に約4000人いた住民も3分の1になりました。高台移転は終了し、現在は道路の整備などが進んでいます。

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今年5月には観光物産交流館がオープンし、地元の海産物の直売所や飲食店、観光案内所が入りました。この中に開店した喫茶店のマスターは30代の男性で、市内の別の地区で生まれ育ち、実家は津波で流されたそうです。

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震災の2年後にNPOの職員となり、縁のなかった雄勝に来て、住民の絆を保つカフェを運営したり、地元を離れた住民向けに新聞を作ったりしました。

 「雄勝には“地元が好きだ”という熱量がある住民が多かったんですね。それを新聞の取材を通して知っていくうちに、単純に自分が惚れ込んで、自分もその中に入って雄勝を元気にできる何かをやれないかな、コーヒーのお店はどうかなと考えまして…。町のことでも何でも、興味を持つか持たないかだと思うので、うちの店も皆さんが雄勝に興味を持つきっかけになるような場所にしていきたいと思います。こ雄勝の未来を語ったり、元気にするきっかけもこれからやっていこうと思っています」


 最後に、気仙沼市で去年12月にオープンした、ビールの醸造所を訪ねました。

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気仙沼市では災害公営住宅の整備などは終わり、醸造所がある中心部の整備などが残っています。この醸造所では、工場でつくる15種類のクラフトビールをその場で楽しむことも可能で、醸造を担当するのは東京出身の30代の男性です。

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元は自動車メーカーの設計担当で、震災の年、ボランティアで初めて気仙沼を訪れました。おととしビール醸造所の設立が決まり、男性は新たな挑戦をしようと、思い切って移住したそうです。

 「毎年大きな休みがあると、“気仙沼はどうなったんだろう”ってこちらに来て…。新聞とかテレビで見るより、自分の目で見ないと気が済まなかったんですね。よそから来た人をすんなり受け入れてくれて、飲みに誘ってもらったり、いろいろなことをしていただいて、楽しく気仙沼の生活をおう歌しています。ビールを通じていろんな人とつながれるし、何しろ作っていて楽しい…そういった力のある飲み物で、気仙沼を盛り上げていきたいです。次は気仙沼特産のフルーツを使ったビールを作りたいです。今はここ以上に魅力的な所はないかな…ここで骨をうずめる覚悟でやっていきたいと思っています」

 喫茶店の男性もビール醸造の男性も、地域の外から入って来た方々です。特にビール醸造の男性は、全国的に震災がすっかり過去の話になる中、8年以上も気仙沼を忘れず、移住を決意しました。被災地に移住した若者の声はこれまで何度もお伝えしましたが、皆さん、被災した人たちを助けたい一方で、震災とは無関係に、その地域の風土や人間が純粋に気に入って移住した側面も非常に大きいのです。被災地の側からすれば、とてもありがたく、うれしい話です。