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対馬丸事件の追体験研修 参加した児童が感じた平和への思い

  • 2024年04月22日

太平洋戦争中、アメリカ軍によって撃沈された「対馬丸」で疎開した子どもたちの身に起きたことを、県外の疎開先まで足取りをたどって追体験しようという研修が、去年12月からおよそ2か月間行われました。

「当時の子どもたちも県外に行けるのが楽しみだったと思う。私も楽しみだし。

だから、当時の子どもたちの気持ちをしっかり感じたい。」

参加した理由をこう話していた12歳の女子児童は何を学んでいったのか。2か月間の取材を通じて、気持ちの変化を見つめました。

(NHK沖縄放送局記者 上地依理子)

対馬丸では何が起きた

対馬丸記念館に集まる児童たち

去年12月、那覇市の対馬丸記念館に県内の小学5年生と6年生10人が集まりました。対馬丸に乗った人たちの身に何が起きたのか。そして学童疎開とは何だったのか知るためです。

語りかける髙良さん

この日、自身も対馬丸に乗り合わせて両親ときょうだいあわせて9人を亡くした髙良政勝さんの姿がありました。「どうして対馬丸が沈んだか知っているかい」と静かに語りかける髙良さん。児童たちは真剣な表情で話を聞いていました。

疎開船「対馬丸」

疎開船だった対馬丸は、太平洋戦争末期の1944年、1700人近くを乗せて九州へ向かいました。午後10時すぎ、鹿児島の悪石島周辺を進んでいた時、アメリカ軍の攻撃を受け撃沈。

784人の子どもを含む1484人が犠牲になりました。そして救助された子どもたちは宮崎などに疎開しました。

犠牲になった子どもたちの写真

児童たちは対馬丸についての理解を深めるための研修を繰り返しながら、当時何が起きたのか学んでいきます。

スクリーンに映る暗い海を見ながら

部屋を暗くして、レプリカのいかだに乗ってみたり…

当時の救命胴衣のレプリカを着用してみたり…

10人の参加者のひとり髙橋永(はるか)さんは、不思議そうな表情でレプリカを見ていました。

髙橋
永さん

泳げないから、強い揺れがあったら不安に感じると思う。助かったとしても、いかだはぎゅうぎゅう詰めで、それがずっと続くと思ったらメンタルがやられると思う。耐えられないだろうなって。

“子どもたちの気持ちを知りたい”

永さんはこのとき、那覇市の小学校に通う小学6年生。琉球舞踊を習っていて、もともと沖縄の文化や歴史に興味があったといいます。

小学校では沖縄戦について学んだり、平和について考えたりしてきました。ただ、対馬丸についてはそれほど詳しくありませんでした。

参加した動機を聞いてみると…

髙橋
永さん

沖縄から抜けて勉強するのは初めてだし。無料で県外へ行けるので行ってみたいなと思って。そんな気持ちで応募してみました。

12歳らしいことば!ただもう少し聞いてみると…

髙橋
永さん

私も楽しみだけど、当時の子どもたちも県外に行けるのが楽しみだったと思うし興味津々だったと思う。だから、その子たちの気持ちをしっかり感じたいと思った。

“子どもたちの気持ちを知りたい”。その思いがありました。

当時のできごとを追体験する旅へ…

12月下旬。児童たちの姿は那覇空港にありました。

当時の子どもたちの身に起きたことを追体験するため、2泊3日の日程で宮崎で過ごすのです。

永さんと母親

見送りに来た保護者に髪を結ってもらったり出発前に写真を撮ったり。それぞれ数日間の別れを惜しんでいました。永さんもお母さんと話をしたり、チケットを確認したりしていました。

家族とはここでお別れ。永さんが家族と離れて県外へ行くのは初めてです。

子どもたちの暮らしは…

「白い息が出る~」 「風が冷たい~」

まず鹿児島空港に到着した児童たち。慣れない寒さに驚いている様子でした。

バスに乗り換えて、宮崎のえびの市へ向かいます。太平洋戦争中、対馬丸で生存した児童を含めて沖縄からおよそ360人が疎開した場所です。

えびの市歴史民俗資料館で学ぶ

児童たちは資料館で疎開中の生活について話を聞きました。

地元の
語り部

学童疎開の子どもたちが来たころもですね、冬は寒くて。着るものも貧しいし、暮らしが大変な時代で食べ物がね、なかなかない時代ですよ。

初めて食べる「やーさん飯」

当時の生活について話を聞いた後は、実際に食べて体験します。この研修では2泊3日の期間中、当時の子どもたちが「やーさん(※ひもじいという意味)飯」と呼んでいた食事をイメージした、質素な料理を食べて過ごします。

初日の昼食

この日のメニューはご飯、味噌汁、そして梅干しなどです。

児童たちは「思ったより美味しかった」「味が薄かった」「結構いけるなって思った」などそれぞれ感想を話します。

「梅がすっぱい!」

永さんは「すっぱい!」と言わんばかりの、いつもとは違う表情です。感想を聞いてみると…

髙橋
永さん

味付けもあんまりなくて、梅干しも本当にすっぱかった。これをずっと食べるのかと思ったら心配で…。
これで嫌いなものとか出てきたら、どうしようって。食べるものも少ないし、食べないと生きていけないから。

沖縄の文化が残る地区 その理由は

児童たちは宮崎市内に移動します。到着したのは波島地区

見渡してみるとシーサー石敢當が置かれ、沖縄を感じる風景が。

地区の公民館に到着すると三線の音色の出迎えです。

語り部・常盤泰代さん

公民館では、地元の語り部・常盤泰代さんに話を聞きます。

常盤 
泰代さん

この後ろに書いてあるのは、この公民館を作ったときにお金を出してくれた人たちの名前です。みんなと同じ名字がいくつあるか見て見よう。

「あ!わたしと同じ名字だ」「沖縄の名字がたくさんある!」

「新垣」や「金城」など児童たちになじみのある名字。波島地区は沖縄から多くの人が疎開し“リトル沖縄”とも呼ばれた街なんです。

児童たちは常盤さんから沖縄と波島地区とのつながりの歴史について聞きました。

常盤 
泰代さん

ここ波島地区には一般疎開で全国のいろいろなところから移り住んで来ました。沖縄からは家族単位で来られたそうで、特に多かった。でも差別や偏見で仕事につけなかったりして、生活は大変だった。

戦後の苦労の話も聞きました。

常盤
泰代さん

大変厳しい疎開生活をへて沖縄に帰ることができた人もいました。でもね、帰ってみたら出発したときと全然違う沖縄になっていた。焼け野原になっていて、居たはずの家族も見つからない。なかには家族全員が死んでしまった人もいた。沖縄に帰っても迎えに来る家族がいなくて、ひとりぼっちになってしまった人もいた。

そうしたなかで受け継がれた沖縄の文化についても話を聞きました。

常盤 
泰代さん

波島に住み始めた沖縄の人たちは文化を忘れることはなかった。沖縄県人会の人たちは今も毎週月曜日に三線の練習をしている。さらにこの地域ではエイサーが踊り継がれている。

真剣にメモを取る永さん

琉球舞踊を学び、沖縄の歴史や文化に興味がある永さんも、真剣な表情で聞いています。

髙橋
永さん

もし自分が沖縄に帰ってお母さんたちがいなくなっていたらって思ったらすごく悲しいし、寂しくなるし、自分だけ生き残ったら罪悪感が残ると思う。でもここに残った人たちは文化を守ってきたのはすごいと思った。私も沖縄の文化を守っていけるように琉球舞踊を続けていきたいと思った。

学校や宿舎跡を巡る児童たち

研修では実際に疎開した子どもたちが暮らした場所もたどりました。

日向市の人里離れた場所で訪れたのは子どもたちが生活した宿舎の跡地です。

自分たちで野菜などを育てて生活していたことなどを学び、沖縄に住む家族に会えずに悲しい思いをしていた当時の子どもたちの姿を具体的に想像していました。

髙橋
永さん

木に囲まれていて人の気配も少なそうな場所だったから、近所のつきあいとかもないだろうし心細かったと思う。

“暗い海では何が起きたのか”

そして、宮崎での研修の最後の夜。児童たちは港に向かいました。撃沈された時と同じ夜の海を体験するのです。

沖縄の研修ではモニター越しに学んだ暗い海。小型の船に乗っていると…

港から海へ

「あ、暗い」「周りが見えない」「なんか揺れが強くなってきたよ」「あー、怖い怖い」

児童たちは、夜の海で当時の様子を想像していました。永さんに聞いてみると…

髙橋
永さん

なんか怖かったし、すごく寒かったから、もしここに投げ出されていたら、私死んでしまっているんじゃないかなって。これを生きた人たちってすごい人たちだなと思いました。

「生きた人たち」。

児童たちは、その当事者の話を沖縄で聞いていました。両親ときょうだいあわせて9人を亡くした髙良政勝さんです。

当時僕は4歳でした。ちょうど戦争が激しくなって、沖縄に敵が来るということで、女性や子どもたちは疎開することになりました。私はきょうだい9人と両親で対馬丸に乗りました。

船がドカンとやられて、私は3日間、海に浮いていたのです。波が荒かったから波が目や鼻に入って非常に痛かった。そんな状況でも3日間よく耐えたなって、4歳ながら非常に辛抱強いなって思っていたのです。

ところが実際のところ、3日間の荒波を耐えられたのは、お父さんが僕を抱きかかえていたからだったんです。お父さんは僕を救命に駆けつけてきた人に預けると沈んでしまった。

今こうして命があるのも、お父さんが生かしてくれたからだと思っています。

強くなる"平和への思い”

1月。沖縄に戻ると、永さんたちは学んだことを壁新聞にまとめました。

髙橋
永さん

九州に行くのを楽しみにしていた子もいると思うから、つらい。生きようとしたけど、生きられなかった子どもたちがたくさんいる。自分の年よりも下の子とか、たくさん写真に写っている将来の夢とか、たくさんやりたいこともあったはず。
そして生き残った子たちも疎開先で寂しい思いをしたり、沖縄に戻っても家族が亡くなっていたりしてつらいことの重なりみたいに感じた。

そしてこの体験で考えさせられたことを振り返っていました。

髙橋
永さん

絶対忘れられない体験になると思う。当時の子どもたちの気持ちを考えていたけれども、もっとつらいものだっただろうから。私は宮崎に行ったのは3日間だったけれども、1年とか続いていたら、すごくつらくなっていくだろうし、自分がもしこうなっていたら耐えられなかったと思う。
自分はそれに近い気持ちを体験できたと思っているから、この気持ちをずっと持っていたい。

永さんたちは壁新聞にまとめたことを保護者などに向けて発表しました。

家族と離ればなれになって心細く感じたことや、2泊3日の研修期間で「やーさん飯」を食べてお母さんが作ったご飯が恋しくなったことなどを伝えていました。

“追体験”を同級生とも共有

2月。全ての研修を終えた永さんは学んだことを学校でも発表しました。

夜の海で船に乗る体験をした際に風が冷たくて、この海に投げ出されたらと考え怖く感じたこと。宮崎から沖縄の家族に手紙を書いた際、家族に会えない当時の子どもたちの気持ちを考えたこと。

そして最後に同級生に平和への思いを伝えました。

戦争って怖いしつらいから
もう二度と繰り返さないようにしたい。

今も残っているいじめや差別偏見。
それだって小さな戦争だ。

ダメと言い切れる勇気を持たないと行けない。

どんなに小さなことでも
今自分のできる最大限のことをしたい。

そのために私は次の世代にも戦争について
伝えていけるような人になりたい。

同級生は「対馬丸については詳しく知らなかったけど、発表を聞いてどんなことが起きたのか、知ることができました」とか「夜の海で乗船体験したことはびっくりしました」といった感想を永さんに伝えていました。

髙橋
永さん

みんなが自分の気持ちをくみ取ってくれて感想を言ってくれてうれしかったです。
私たちの世代は戦争についてあまり深く知らないから、宮崎に行って経験したことを今の世代に、もっとたくさんの世代の人に聞いてもらって、忘れないようにすることが一番大切だと思う。

取材後記

2か月間に及んだ取材の中で、参加した児童10人それぞれが学び、考え、成長していく姿が印象的でした。特に、素直な目線で心から感じたことを伝えている児童たちの言葉の数々が胸に響きました。一緒に過ごしていくなかで、「当時の子どもたちもこんな感じだったのかな」などと考えました。児童たちの様子をみることで、私も当時のことを想像する時間を過ごしていたと思います。

自分の小学校で、学んだことや対馬丸について発表したのは永さんだけではありません。こうやって伝えていくことが、記憶を風化させない活動にもつながるのではないかと感じました。

対馬丸で多くの人が犠牲になってからことし8月で80年です。今後も対馬丸についての取材を続けていきます。

  • 上地依理子

    NHK冲縄放送局 記者

    上地依理子

    2021年入局。
    沖縄は初任地。

    上地の読み方は「うえち」ではなく「かみじ」です。

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