水俣病患者、原発被災地を見つめて
- 2023年12月14日
水俣病患者の女性が原発事故の被災地を訪れた。
環境汚染などさまざまな共通の課題が指摘される水俣病と原発事故。
被災地を見つめた女性の思いとは。
(熊本放送局 記者 西村雄介)
1000キロの道のりを経て
「もっと早めに来ればよかった。もっと早めに」
見つめる先に、クレーンがそびえ立つ。
福島県大熊町にある東京電力福島第一原子力発電所。
事故から12年がたつ今も、廃炉作業が進んでいる。
惨禍をもたらした施設を、2キロあまりの高台から見つめる女性がいた。
坂本しのぶさん。
母親の胎内で水銀の被害を受けた胎児性水俣病患者だ。
生まれ育った水俣市から1000キロ。
原発、福島への思いを言葉にできなかったもどかしさ、申し訳なさに突き動かされ、高台に立った。
理不尽を背負って
坂本さんが生まれたのは、水俣病が公式確認された1956年。
時は高度経済成長期。化学メーカー・チッソが海に流した水銀で、生まれたときから手足が不自由だった。
差別も受け、人前に立つことへの恐れもあったが、「逃げずに向き合う」覚悟を決め、みずからの被害を国内外で伝えてきた。
(坂本しのぶさん)
「私は何べんも何べんも言ってきた。水俣病は終わっていない」
もどかしさ、そして、申し訳なさ
ことしで67歳となったしのぶさん。
長い間、気にかかっていた場所が、福島県の原発事故の被災地だった。
社会が豊かさを求めた結果の被害として、水俣病とともに語られる原発事故。
しのぶさんも意見を求められてきたが、言葉にうまくできないもどかしさ、申し訳なさを抱えてきた。
高齢となり、大きな負担もかかる。
それでも、周囲の誘いをきっかけに福島行きを決めた。
(坂本しのぶさん)
「福島の人たちの話を聞いてみたいなとか思ったの。いろんな話を勉強したいなって思う」
翻弄される胸の内
福島を巡ったのは2日間。
初日は、原発から25キロの南相馬市で地元の人などと交流した。
集まったのは、原発事故でふるさとを追われた人、新たに移住してきた人など、思いを抱えた20人。
故郷に戻ることへの葛藤。
未来への不安。
語られたのは、今も原発に翻弄される胸の内だった。
(参加者)
「双葉郡に戻ってきた人が、誰も責めることが出来ず、自分を責めるしかできないという状況にしないためにどうすればいいのか。考えながら活動をしていきたい」
(参加者)
「いろんなことを背負って大変だったねと最初に伺って、来てよかったなというか、それだけで僕は救われた気持ちでいた。前向きな未来をここにつくるために人生の100%を投じている。一方で、どこかで納得がいかない」
(坂本しのぶさん)
「福島のこと、あまり知らなかったし、もっと聞きたいと思う」
学びやのあとに
翌日、津波で被災した小学校の跡に向かった。
児童と教員は避難して無事で、現在は震災遺構となっている。
(髙村美春さん・双葉町の「原子力災害伝承館」で語り部を務める)
「2年生から6年生が修了式と卒業式の準備をして、みんな残ってたんですね。そこに津波が来るよって言うて、地元の人たちがこられます」
かつて原発事故で立ち入りが規制されていた校舎。
津波の猛威を物語る爪痕。
放射性物質にさらされた学びやの跡に、被災地の現実を見た。
(髙村美春さん)
「着のみ着のまま逃げます。で、自分が住んでいたところ、学校に、戻ることは1回もなかった」
少女の命が眠る場所で
立ち入りが今も制限されている帰還困難区域にも(※国からの特別な許可を得て入域)。
原発事故でふるさとを追われた男性から、案内を受けた。
(大熊町出身の志賀秀陽さん)
「お金とかなんかでは、全然代えられないというか、そういう気持ちが強いですよね。原発ができた時点での失敗を考えながら、そういったものを考えながら、復興を進めていかないといけない」
窓から見つめた土地に、草木が生い茂る。
原発事故で行方不明者の捜索が許されなかった。
遺骨が今もすべて見つかっていない7歳の女の子がいるという。
4歳だった姉を水俣病で亡くしたしのぶさん。
女の子と家族の無念さを思った。
小さな体でめぐった広大な被災地。
「第3の悲劇を起こさないために。現実を目にした責任を果たしたい」。
高台から原発を見つめ、思いを強めた。
(坂本しのぶさん)
「いろんな人と会えてよかった。水俣の問題と一緒に話をしていければいいなと思う。福島の問題も」