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公害の原点の70年

水俣病 公式確認きっかけの少女はいま
  • 2023年05月22日

それは、3歳の誕生日を迎える直前のこと。 

突如、少女は体の自由と言葉を奪われた。

将来の夢を描くことも、友人をつくることも、子どもに恵まれることも。

みずからが公式確認のきっかけとなった水俣病によって。

(熊本放送局記者 西村雄介)

高台にある1室で

サイレンが、青空に響いた。

令和5年5月1日。天草諸島を臨む水俣市の水俣湾埋め立て地。

患者、遺族をはじめ、600人あまりが「水俣病犠牲者慰霊式」で、黙とうした。

水俣病の公式確認は、ちょうど67年前の昭和31年5月1日。

その日にあわせて毎年、式が実施され、祈りが捧げられている。

その会場から1.5キロ。
市内の高台にある住宅の1室で暮らす患者の女性にも、サイレンの音が届いた。

田中実子さん。

「公害の原点」と言われる水俣病が、公式確認されるきっかけとなった女性だ。

青春、水俣病に奪われて

体の自由はきかず、言葉は話せない。

67年前、2歳11か月で、水俣病にその力を奪われた。

食事をすること、服を着ること、お風呂に入ること。

生活全般を、24時間派遣されるヘルパーの手に託す。

多岐にわたる症状、程度がある患者のなかでも、最重症の部類の被害。

幼いころに背負わされ、生きてきた。

「初めて会ったのは、結婚する前だったかな。かわいかったけん、ほんと」

義理の兄、下田良雄さん。

実子さんのきょうだいのうち、長女の綾子さんと結婚した下田さんは、40年以上ともに生活し、介護を続ける。

(下田良雄さん)
「本人でないと、どういう気持ちでね、長年、こうやって生きているかわからないし、言葉が出れば、少しはわかるけれども、言葉がでないから、意思表示ができないから。本人にしてみると、1番きついのは、本人だからね。だいぶ、何をしたいか、何十年もやっていればでは少し、分かるような気もするけれども、そこまでわかるのが、大変だけん」

見つめる先に、実子さんが横たわる。

「患者というよりも、1人の家族」として、そばで接し続けてきた。

(下田良雄さん)
「青春を味わったことがないからね。2歳11か月で、人生をたたれたような気持ちじゃないかなと思う。恐ろしい病気だなって、それをみんなにわかってもらいたいなと思います」

海は「遊び場」

潮の香りをともなって、優しく寄せる不知火の波。

海まで歩いて1分もかからない水俣市の集落。

そこで実子さんは生まれた。

代々、船大工を営む一家で、6人きょうだいの末っ子。両親の愛情を一身に受けて健やかに育った。

海は「遊び場」。自宅から糸を垂らせば、魚釣り。

潮が引けば、3女の姉、静子さんについて浜辺におり、貝をとって食べることが楽しみだった。

チッソが流した水銀に海が汚染されていたことは、知るよしもなかった。

少女が発した最後のひと言

もうすぐ3歳の誕生日を迎えるころだった。

「靴が履けない」

これまでに発した最後の言葉。

歩くことも、ままならなくなった。

昭和31年5月1日。

「水俣地方に原因不明の疾患が発生している」。

医師による保健所への届け出をもって、水俣病が公式確認された。

実子さんと、静子さんの発症がきっかけだった。

当時5歳だった静子さんは、せき髄に注射を打たれる。

泣き叫ぶほどの痛みだった。

姉・静子さん

亡くなったのは、3年後。わずか8歳だった。

ランドセルを背負って、小学校に通うことはかなわなかった。

笑顔が象徴するもの

怒り。悲しみ。積年の思い。

昭和40年代、同じく発症した患者、その家族は、原因企業・チッソを相手に裁判で闘う。

ともに患者となった両親、実子さんも原告だった。

水俣病がなければ夢みた将来。

撮影 塩田武史

ささやかな日常。

撮影 塩田武史

法廷ではなく、家族、友人と過ごすひとときで浮かんだはずの笑顔。

撮影 塩田武史

そのまぶしさは、奪われたものの象徴だった。

撮影 塩田武史

裁判には勝訴した。

健康、家族の命、青春は、戻ってこなかった。

「水俣病事件の証人」

「実子さんと寝っころんで、子守歌をうたっていると、頭をたたきにきたりするんですよ」

半世紀以上、患者の支援を続けている伊東紀美代さん。

若き日の実子さんを写した写真を、慈しむようなまなざしで見つめていた。

昭和44年、初めて出会った実子さんは、こたつに座っていた。

差し出したみかんを食べる姿に、「人からのものは絶対食べない」という母のアサヲさんは喜んだ。

(伊東紀美代さん)
「お友達ができて、楽しく遊んだり、しゃべったりとか、そういう楽しみを奪われてしまった。姉の綾子さんが『実子は友達がひとりもいなくてかわいそう』と言っていて、友達がいない人生って、本当につらいことで、 言葉の世界がないということは、本当に悲惨。普通、つらい時に誰かに話すことで、慰められたり、気持ちをリセットしたりして、でも、彼女はそれができない」

実子さんを「水俣病事件の大切な証人」と語る。

行政にかけあい、24時間、介護ヘルパーを派遣する仕組みを整え、支えてきた。

(伊東紀美代さん)
「彼女が生きていてくれることは、声高に言うことはないけれども、水俣病の歴史を背負っているという意味では、すごく大きな存在だと思います。患者さんたちの体調に変化があったとき、すぐに気づくことができるよう、水俣病の症状、日々の生活について、医師の理解も、進めなければならない」

1日でも、1時間でも

その日、実子さんは花束に囲まれていた。

令和5年の公式確認の日から2日後、5月3日。

実子さんは70歳の誕生日を迎えた。

古希を祝う紫色のブラウス、カーディガンに身を包まれた実子さん。

そばで見守り続けてきた支援者も次々と訪れ、祝いの言葉をかける。

治らぬ病が横たわる人生に、思いをはせた。

(下田良雄さん)
「水俣病は終わったという人もいるけれども、終わってはいないと思う。患者がいる限りは終わらない。水俣病を世間の人に知ってもらうためには、本当に1日でも、1時間でも、長生きしてもらいたい。それが1番かな、いま」

公式確認から67年。

そのきっかけとなった少女は今も、理不尽に屈しないその強さで、命を刻んでいる。

  • 西村雄介

    熊本局記者

    西村雄介

    2014年入局 熊本局が初任地。公式確認60年となる2016年から水俣病を継続取材。熊本地震・令和2年7月豪雨を発生当初から取材。

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