涙の責任 裾野からの訴え
- 2023年04月26日
国が被害の実態の調査を実施しない中で、水俣では民間の地道な聞き取り調査が続けられています。調査に同行するなかで見えてきたのは、今、ようやく声をあげられるようになった人たちの存在でした。
(熊本放送局記者 西村雄介 ディレクター 吉田渉)
被害の記録を続ける女性
水俣で介護福祉士をしている永野いつ香さんです。20年前、大学の研究の一環で住民への聞き取り調査を始め、今も続けています。
この日、永野さんが訪ねたのは、水俣病の患者の男性のもとです。これまで周りの人に病気のことをほとんど話したことはなかった男性ですが、永野さんが何度も通う中で、少しずつ自らの症状について語ってくれるようになりました。
(男性)
「感覚が分からんから」
(永野いつ香さん)
「冷たいですね」
(男性)
「動かせんようになった。指、動かない。両手両足を切断してもらって、義足はめた方が楽じゃなかろうかな」
(永野いつ香さん)
「水俣病のことを尋ねるのに年単位で必要だったので。話をしてもいいかなと思われた方には少しでも、ひとつでも多くの歴史を尋ねて、それを繋いでいく。
被害を訴え始めた親娘 決意の裏にある思い
時間をかけて水俣病について聞き取る永野さん。その背景には、この地域で被害について語ることの難しさがあるといいます。
永野さん自身も、水俣市で生まれ育つなかで、水俣病への差別や偏見を恐れ、口をつぐむ人たちを多く目にしてきました。被害を受けた住民同士で誹謗や中傷をし合うことが多く、被害の事実が埋もれてしまう要因だといいます。
(永野いつ香さん)
「同じ地域の中で同じ暮らしをしてきたはずなのに。認定されている人と認定されていない人、なんで自分が棄却になったんだろう、同じように暮らしてきたはずなのに。そうなるとその矛先っていうのは環境省とか熊本県とかではなくて、身近な存在に行ってしまうんですよね。その矛先というのが。そこで分断が起きてしまったりして」
この日、永野さんが訪ねた親子も長年、声をあげられずにいました。
80代の治子さん(仮名)と、60代の娘、すみれさん(仮名)です。
治子さんは不知火海で獲れた魚を仕入れ、山あいの集落まで売り歩いていました。
(治子さん)
「魚はね。タチウオとかイワシ、アジ」
「自分が水俣病の被害を広げてしまったのではないか」。そうした罪悪感から自身の症状を訴えることは、はばかられたといいます。
(治子さん)
「私たちが魚を持って行って、食べた人もおんなっとはおる。その人たちの体がそがんになった場合は私たちの責任じゃなかろうかと思うんですばってんが」
売れ残った魚は持ち帰り、毎日3食、家族で食べていた治子さん。30代の頃から、手のしびれなどを感じ始め、症状は年々ひどくなっていきました。
(永野いつ香さん)
「感覚障害があるから爪がはげたことにも気がつかない」
治子さんは2012年、行政に対し「自分には水俣病の症状がある」と思い切って訴えました。しかし、結果は非該当。60年近く前に魚を売ったり食べたりしたことを証明できなかったためです。
(治子さん)
「やっぱもうなんも関係のなかって書いてあって、言うですけん、ほんならもうダメばいなぁ」
水俣病と疑われる症状は、娘のすみれさんにも現れています。全身にまひがあるすみれさん。幼い頃、脳性小児まひと診断されました。
しかし、2018年、水俣病の支援団体を母と訪ねたとき、水銀が影響している可能性を指摘されました。
(すみれさん)
「私のことを聞かれて、脳性小児まひですよって言ったけど、もしかしたらお母さんも症状があられるけん、水俣病じゃないかなと」
翌年、医師の診察を受けたところ、胎児性水俣病の疑いがあると告げられました。
すみれさんが生まれる数年前から水俣周辺で首が据わらず、けいれんを起こす子どもが次々と生まれていました。母親の胎内で水銀の影響をうけたことが原因です。
母の治子さんは「自分が魚を食べたせいで娘が病気になった」と自分を責め続けてきました。
(すみれさん)
「大丈夫です。大丈夫ですよ。あなたの子どもでよかったと思ってますから。大丈夫ですよ」
(治子さん)
「ありがとう。ごめんね。ごめんなさい」
2人は今も行政から水俣病とは認められていません。
(すみれさん)
「泣かせたのは誰かってことをね、分かってもらいたい。というのが一番ありますけど。(申請が)棄却になったとしてもこの親子がいたことを世の中に知ってもらいたい。
(永野いつ香さん)
「事実は事実として残していかないと、この被害がなかったことになってしまうかもしれない。ひとつでもいいから、事実を聞いて、それを残していきたい」