5月30日放送「宮城県 南三陸町」

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 今回は、宮城県南三陸町(みなみさんりくちょう)です。津波は3階建ての建物の屋上を超え、約780人の町民が犠牲になり、3千棟以上の建物が全半壊しました。今年度は町の震災復興計画の最終年度で、仮設住宅は去年12月に解消され、災害公営住宅の整備や集団移転事業は3年前に完了しています。公民館や図書館などの公共施設の復旧も全て終わり、防潮堤の建設など、残る事業も今年度内に完了の予定です。一時は100人を超えた応援職員も震災10年で終える方針で、復興事業を担ってきた町の復興推進課は、今年3月で廃止されました。

 はじめに、3年前にオープンした“南三陸さんさん商店街”に行きました。

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被災地の名物商店街として知られ、開業から1年半足らずで来場者100万人を突破、その年の町の観光客数は、過去最多の年間144万人を達成しました。ところが新型コロナウイルスの影響で、4月の来客数は前年の15%ほどです。地元の海の幸が自慢の和食店は、最近になって昼の営業を再開し、それまではテイクアウトのみで営業していました。40代の男性店主は元々ホテルの板前で、震災翌年に独立し、仮設商店街で営業を始めました。6年前に津波で流された自宅を再建し、現在、店と自宅のローンを抱えています。

 「売り上げは例年の3分の1くらいですかね。2つのローンを払いながらも、何とか仮設商店街で5年やって、本設でまた借金をして、まさかこういう事態が起こるとは思っていなかったです。震災後よりも、今のほうが苦しいかな…。このぐらい売り上げが出るという予測をして借金しているので、売り上げが途切れて、固定費をどうやって払っていこうかと苦戦しています。今はもう、本当に耐えるだけです。震災も何とか耐えて乗り越えたので、コロナウイルスも何とか耐えて乗り切りたいと思います」

 次に、志津川(しづがわ)地区に再建された鮮魚店に行きました。

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70代の夫と60代の妻が営業しています。創業およそ70年で、亡き母から製法を引き継いだという主人自慢の煮ダコは、町内ではよく知られた逸品です。自宅と店舗が流されて登米(とめ)市に避難し、復興事業の遅れで故郷での再建を断念。登米市内に新居を構えました。震災後、町民が暮らす登米市内の仮設住宅などへ軽トラックで移動販売を続け、悩んだ末に、町内で店を再建しようと決めました。去年4月に店が完成し、今は片道30分かけて毎日通っています。新型コロナウイルスで町外からの客が激減し、奥様はこう言いました。

 「主人は志津川にこだわりがあって、“志津川に帰りたい”ってずっと泣いていたんです。どうやったらいいかと思っているうちに、何年もかかっちゃって…。最後は志津川に店を持ちたいという、こだわりでしたね。この浜で獲れたものを販売する、昔ながらの魚屋なんでね。今の世の中、何があるか分からないね。震災に遭って、今度はコロナ騒ぎでかなり大変な世の中になって…。でも、助け合って生きていかなきゃいけないと思います。本当にめげずに、皆で頑張りましょうという気持ちです」

 そして、海水浴場のある袖浜(そではま)集落に行き、高台の民宿を訪ねました。

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主人は40代の男性で、父の代から40年以上営業を続けています。高台の竹林を切り開いて新たな民宿を建て、集落内の民宿では最も早く、震災から11か月で営業を再開しました。客足も順調に回復しましたが、この3月と4月の予約はほぼゼロで、1か月以上休業しました。今月下旬にようやく再開したものの影響は甚大で、民宿の経営以外に続けてきたワカメやホタテの養殖で何とかしのいでいます。

 「震災直後、1階がつぶれている民宿を毎日目の前で見て、これはもう1回、民宿をやるしかないんじゃないかと…。10日後には家族で話しあって、民宿をやろうって決めましたね。オープンした日から電話が鳴りやまなくて、次の日から復興事業の業者さんなり、ボランティアさんで埋まる状態でした。9年前に自分が今までやってきた仕事がなくなって、再開してから8年、またこうやって休業しなきゃならないとはね…しょうがないことなんだろうけど、徐々にでいいので、みんなが自粛なく行ったり来たりできたり、早く元の生活に戻ってくれたらなと思います」

 被災地の事業者は、そもそも新型コロナウイルス以前から、被災による経営的なハンデがありました。緊急事態宣言の直前1週間に行われた町と商工会の調査では、回答した町内218の事業者のうち、“経営への影響が生じている”が45%、“今後の影響が懸念される”が40%でした。その40%が今なお無傷とはほとんど考えられず、現段階では回答した事業者の8割~9割に影響があると推測されます。皆さんはさしあたり、細かい申請書を準備して、国の給付金や助成金、県の休業要請に従った協力金、自治体独自の支援金、さらに税金の猶予や公共料金の減免に頼るしかありません。

その後、3年前に町の中心部に完成した役場に行きました。

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商工観光課で働く40代の男性職員は、2015年から4年間、長崎県の南島原(みなみしまばら)市役所から応援職員として派遣され、去年いったん帰ったものの、妻と2人の娘を連れて再び南三陸町に戻りました。今年4月、正式に町職員として採用され、商工業振興や企業誘致を担っています。応援職員の時は、休みの日にボランティアなどで多くの町民と交流したそうです。移住にあたり両親は猛反対だったそうですが、家族の理解が非常に大きく、中学3年だった娘さんは、受験する宮城県の高校の情報を自分で集めたそうです。

 「長崎に帰っても、ずっと南三陸町のことが気になっていて、私がいた4年のうちに災害公営住宅や病院ができたり、被災して無くなったものが目に見えてどんどん完成して、本当に復興まであと少しというところでしたので…。町民から被災の状況を聞きながら、一緒に頑張っていきたいという思いもずっとありました。ある女の子の言葉で、“海で家族や大切な財産をなくして、海が嫌いになった。でも時間がたって海に行った時、海は自分に力を与えてくれるものだと気づいた”いうのがあったんですね。住民の方たちに、そういった思いがあるのを忘れないことが大事なのかなと…。残りの人生をかけて南三陸を見届けたい、バックアップしていきたいと思います」

また、2年前に役場近くにオープンした、高齢者の生活支援施設“結(ゆい)の里”にも行きました。デイサービスなどを行うほか、建物の中心にカフェあり、災害公営住宅の高齢者や周辺に住む大人や子どもなど、様々な世代が集まります。

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これまで食事会や映画会なども開いてきました。“結の里”の運営や災害公営住宅の見守り活動を行う生活援助員の40代の女性は、こう言いました。

 「震災で各地から来たボランティアを見て、自分も町の役に立ちたいと思ったんです。震災がなかったら福祉に携わってないし、いろんな人に出会えて、町のことを知れたのは、すごく大きな変化なんです。住民の笑顔とか、訪問して“待ってたよ”と言われると、役に立っているのかな…とやりがいを感じています。今はコロナで、電話をしたり、何とかつながりを絶やさないようにしています。こういう時だから、心と心のつながりは大事だなと…震災の時もつながりはすごく大事だと改めて実感したので、これからもみなさんの心に寄り添い続けたいと思います」

“結の里”はひと月以上も一部閉鎖を余儀なくされ、住民とどう交流を保つか、頭を悩ませています。さらに、“結の里”の隣にある災害公営住宅に行きました。

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敷地内の公園では週に数回、高齢者がグラウンドゴルフを楽しんでいて、参加していた80代の男性が話を聞かせてくれました。登米市に避難した後、妻とともに町に戻り、災害公営住宅に暮らしています。知らない住民も多くて交流が少ないため、男性は高齢者も参加しやすい“走らないミニ運動会”を3年前から開催しています。現在は新型コロナウイルスの影響で様々なイベントが中止で、収束後の新たな交流の場を探っています。

 「昔から住んでいる方なら、ひと声かけて“ああ元気ですか”って言うんだけども、今はほとんど玄関の鍵はかかっているし、へたにノックしたりすると怪しまれるしね。今までの暮らしとは全然違いますね。運動会は年々盛り上がっている…ペットボトルに水を入れてボウリングとか、走らないんですから、皆さん喜んでやりますね。忘年会とか盆踊りとか、イベントがないから、なかなか出かけない高齢者は結構いたと思うんです。ただのお茶飲みでも、何か会があれば全然違いますね。あまり家にこもらないで、今までお会いしたことのない方でもお話ししたいですね」

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 災害公営住宅の住民が行うイベントには、前述の“結の里”のスタッフも積極的に手助けしています。“結の里”、そして近くにある災害公営住宅で行われる住民主体のイベントは、他の被災地でも大いに参考になるコミュニティーづくりの取り組みでした。今、そうした蓄積がほぼ台無しの状態で、あらゆる被災地で同じことが起こっています。事態の終息を祈るしかありません。