6月6日放送「宮城県 亘理町」

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 今回は、宮城県亘理町(わたりちょう)です。人口は約3万4千で、震災では町の半分ほどが浸水し、300人あまりが犠牲になりました。集団移転先の宅地整備と災害公営住宅の建設(計677戸)は、5年前に完了しました。3年前にはプレハブの仮設住宅から全員が退去し、去年暮れには町役場の新庁舎が完成しました。今年は10年ぶりに海水浴場が再開する予定でしたが、新型コロナの影響で見送られました。

 

 はじめに、津波で大きな被害を受けた荒浜(あらはま)漁港に行きました。

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平均年齢が最も若い船は、ヒラメやカレイなどを狙う底引き網漁の船で、40代の兄弟3人と20歳の甥の4人で漁をしています。津波で母を亡くして自宅も失いましたが、船は奇跡的に損傷が少なく、震災の4か月後には漁を再開しました。ただ現在、漁獲量は震災後のピークに比べて半分ほどで、原因は海水温の上昇ではないかと言います。

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さらに、高級魚のヒラメは外食や観光での需要が多く、飲食店や宿泊施設に休業要請が出てから需要が激減し、価格は去年の半値以下になったそうです。漁師たちはこう言いました。

 「温暖化で去年あたりから取れない魚もあるし、今はコロナで買う人がいない…。せめて魚が取れればいいんですけどね。トントンでいいから、生活できる状態だったらいいですけどね。今は通帳(貯金)をくずしているから…。魚が取れないと甥もかわいそうです。お金をあげたくても、あげられないもんね。そこが申し訳ないですね。取れれば、いくらでも分けるんだけど…まあ、頑張ってみます」

 漁獲の減少と新型コロナが、漁業の未来を支える人材を打ちのめしています。他分野の和牛の生産現場でも、全国の市場で枝肉価格が前年より急落しています。福島県葛尾村(かつらおむら)では、避難指示の解除後に地元農家が法人を立ち上げてコチョウランの栽培を始め、出荷先も全国11の市場に広がりました。しかし今は贈答用の花の需要が激減して価格が暴落、泣く泣く花を切り落としています。

 次に、5年前に取材した陶芸家の男性を再び訪ねました。

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現在70歳で、江戸時代から亘理町に伝わる焼き物を再興させた方です。以前会ったのは震災の4年後、全壊した建物はリフォームしましたが、外壁にある津波の痕跡は残したままで、こう言いました。

 「焼き物をもう1回やり直す…この津波の跡を見て、“やろうか!”という、僕の心の目印ですね」

 あれから5年…。男性は地震で被害を受けた工房やギャラリーを、補助金や融資で再建していました。しかし最大の収入源だった展示販売会が、コロナ禍で相次いで中止となり、12日間の休業を経て再開したギャラリーも、開店休業の状態だそうです。陶芸教室も開くことができず、収入は半減しました。来年からは毎月10万円以上の融資の返済が発生します。

 「どうにかこうにか、完全復興へ向けて来ていたところ、今のほうが厳しいね。でも、作業が終わったら名前も告げずに帰っていく、震災の時のボランティアさんの顔が、このごろ特に浮かぶんですよ。何とか人を助けたいとやって来て、励まされたし、それを考えると絶対に、お客さんが買わなくなったとか、弱音を吐いて辞めたくはないですね。困難は、この先の光のためにあります。震災でも結局失われなかったのが、光であり希望…だから命尽きるまで光を求めて、人生を生きたいと思っています」

 そして、226人が暮らす下茨田南(しもばらだみなみ)災害公営住宅に行きました。

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70代から80代の4人の女性と話したところ、住民の半数は高齢者で、集会所もないそうです。数少ない住民交流の場は、徒歩10分にある町内会の集会所で開かれるイベントで、それすら新型コロナの影響で無くなりました。

 「誰も外に出てこないよ、本当に。集会所も何もないからだけどね。年がいった人ばかりだから、町内の集会所に歩いて行くのが容易じゃないのね。その辺の空いている所に、プレハブでもいいから、ちょこっと置いてくれればなあと…。集まる機会を待っている方も多いと思いますよ。まあ、津波で流されもしないで、せっかく助かった命だからさ、希望を持たないとだめだべ」

 

 その後、大畑浜南(おおはたはま・みなみ)という集落に行きました。住宅は9軒で、震災前の2割以下です。

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ここでは、7年前に取材した60代の男性を再び訪ねました。震災で自宅が全壊し、高齢の両親の希望もあって、いち早くリフォームを決断しました。震災の3か月後には元の場所に戻って暮らし始めたそうです。しかし翌年、大畑浜南は災害危険区域に指定され、家を修繕して住むのは問題ありませんが、新築や建て替えは禁じられました。当時はこう言いました。

 「住んではだめと言われるのは、俺にとってはもう、死んでもいいよと言われたのと同じだよな。将来、子どもや孫が帰ってきた時に、“ああ、家があってよかったな”と言えるような地域にしたい…」

 あれから7年…。男性は勤め先を辞めて農業に専念し、営農組合に参加してコメを作るほか、イモやウメも作っています。集落の住民があまりにも少なくなり、寂しさもあって犬を飼い始めたそうです。

 「息子は将来、戻って来るとは言っているんだけどな…ただ、その時に荒れ放題では、誰も戻って来たくないよな。梅の木は170本くらい。やっぱりこういうものがあると、人が住んでるんだなという感じになるよな。将来この地区に、子どもの笑顔と声が絶えないことを祈っています。まあ、ここに残る決断をしたことは、俺は正解だったなと思うけどな」

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 震災後、防潮堤の役目を兼ねたかさ上げ道路ができましたが、男性の集落はその内側から外れ、海のある側になりました。町から見放されたような思いがぬぐえません。被災地には、経済的に新たなローンを組めないため家を修繕し、その後から災害危険区域に指定された人もいます。災害危険区域の指定は、集団移転などで国から補助が出る前提になっており、自治体によっては現地に残る人と移転する人の支援に差をつけて、事実上、移転を誘導するケースも見られます。

 そして、荒浜地区に戻り、70代の女性を訪ねました。

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震災後に他界した夫は地区の元区長で、荒浜出身ではないものの、病を抱えながら地域の復興に尽力しました。夫の強い希望もあり、自宅を修繕して再び荒浜で暮らす道を選んだそうです。7年前、女性は語り部の会を立ち上げ、今も活動を続けています。

 「亘理町で306名が亡くなって、その半分、151名が荒浜で亡くなっているんです。家の片づけをしたり、薬を取りに戻った人が亡くなったので、それを絶対に伝えていかないと…。いったん逃げたら、もう絶対戻ってだめだよと。夫は自分の病気をおしてまで集会所の設立に加わったりして、それを助けてやれなかったことが、まだ心残り…今になって悔やまれますね。自分が亡くなって、夫の所に行って謝って、初めて復興になると思うんですね。それでも、笑顔を絶やさず生きて行こうと思っています」

 ちなみに、震災当時、中学1年の少年だった孫も、高校生の時に語り部活動に参加し、津波を見た経験などを伝えていました。現在23歳の彼は、4月からはガスの販売会社で働きはじめ、こう言いました。

 「就活でどの業界を選ぶかという時、必ず災害はあると思うので、ライフラインが大事だと思って…。仕事は基本プロパンガスで、炊き出しとか、震災の最前線で活躍したのがそれだったので…」

 この時、志望動機を初めて聞いた祖母は、震災を胸に刻む孫の姿を見て、目を潤ませました。

 最後に、全国各地に出向いて震災の教訓を伝える遺族を訪ねました。50代の女性で、5歳だった一人娘は通っていた幼稚園で津波に遭い、亡くなりました。部屋の壁には娘の日常を切り取った写真が、たくさん貼られています。震災の年の夏から、ヒマワリの種に防災メッセージを添えて配布する取り組みを始め、全国の保育園や幼稚園で、防災について考える講演を行っています(新型コロナの影響で、3月以降の講演等は延期や中止に)。

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9年間で配った種は、8万粒を超えました。

 「徳島の友だちが、私がすごく落ち込んでいる時に、娘みたいなかわいい花が咲くからと言って、ヒマワリの種をいっぱい送ってくれたんです。植えてみたら、本当にかわいい花が咲いたんですね。見ていてすごく元気をもらえたので、種の配布を始めました。添えるメッセージは単純で、小さな子ども達の命をいかに守っていくか、大人が考えましょうと…。私たちが一番震災で後悔したのは、幼稚園の防災がどうなっているかを全然考えないで、大事な娘を預けていたことです。私が一番、悪いような気がして、みんなに同じ後悔をさせたくない、繰り返してほしくないと思うんです。落ち込んで泣いて、暗く過ごして、この子は喜ぶかなと考えた時に、絶対喜ばないと思いました。一緒に生きて、一緒に笑える…娘が笑ってくれるように、私は生きたいのだと思っています」

 私にも娘がいます。もし自分だったら、この女性のように強く生きることはできるだろうか…到底無理かもしれません。