5月23日放送「宮城県 名取市」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
 緊急事態宣言により、極力、外出や人との接触を避けるよう求められ、この番組も取材を中断してアンコール放送を続けてきました。緊急事態宣言の解除とともに取材を再開していますが、今なお仙台から県をまたいだ移動は避け、9年以上続けてきた岩手や福島の取材を見合わせています。当面は宮城県内の取材が続きますが、状況が変わり次第すぐ、岩手と福島にもうかがいます。今後は、新型コロナウイルスで深刻な影響が出ている被災地の現状を、毎回お伝えすることになると思います。宮城だけでなく、岩手、福島にも共通の問題として、出演する方々の話を聞いていただきたいと思います。

 今回は、宮城県名取(なとり)市の声です。仙台市の隣にあり、人口は約7万9千です。震災では、沿岸部の閖上(ゆりあげ)地区や下増田(しもますだ)地区で甚大な被害が出て、特に閖上地区では、十数人に一人の住民が犠牲になりました。閖上地区の土地区画整理事業が始まったのは震災の3年後で、“復興は周回遅れ”と言われましたが、今では災害公営住宅、小中学校に保育所、児童センター、体育館、公民館、郵便局がそろい、年内には食品スーパーや温泉付きのサイクルスポーツセンターも開業します。新たに造成した産業団地にも25社が進出し、名取市は今年3月末、住まいの再建やインフラ整備、公共施設の復旧などがほぼ終ったとして、『復興達成宣言』を出しました。

 はじめに、5年前に取材した60代の男性を訪ねました。閖上地区で水産加工業を営む社長で、震災翌年から仮設工業団地で営業を再開し、従業員や原料の確保に奔走していました。当時はこう言いました。

 「来年春には閖上に新しい工場ができます。皆さんも自分も期待していますが、その中でまだ不安がある…人が集まるか、原料が本当に集まるか、まさに今の気持ちは期待と不安です」

 あれから5年…。取材の翌年に新工場が完成し、シラスの加工品は、“北限のシラス”としてブランド化にも成功しました。

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シラスは地域の新たな収入源として震災後に始まった漁で、以前はシラスの北限は福島でした。今の時期は、春を告げる魚・コウナゴの加工が主力ですが、環境異変のためか、宮城県では記録が残る1960年以降で初めて、水揚げゼロでコウナゴの漁期を終えました。その上、新型コロナウイルスによる飲食店の休業や外出自粛で、売り上げは激減しています。

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被災企業の多くは、補助金の他に金融機関の融資を受けて再建しており、男性も借金を返済中です。

 「去年のサンマの漁期も全然だめ、1月、2月のオキアミも全然だめ、そこにきてコロナの問題とコウナゴも取れない、もう何もかも重なっちゃったのが今ですね。みんな四苦八苦、うちだけじゃなく水産関係の方々は、船も含めて大変だと思います。ローンの支払いも始まっているし、何とかつないできたものが、コロナでものすごい大打撃ですね。本当に、 本当に国の支援がないと破綻しちゃう感じです。本当に悔しい、悔しい…。でもやっぱり頑張らないと、どうしようもないんだよね」


 次に、閖上地区の写真館に行き、震災の2年後に取材した60代の男性店主を訪ねました。昭和7年から88年も続く写真館で、当時は津波で自宅兼店舗が全壊し、内陸部の仮設商店街で営業していました。ともに働いていた息子は別の仕事に就き、こう言っていました。

 「一歩ずつ一歩ずつ、前に進もうという気持ちがあるんですよ。また息子と一緒にやりたいです」

あれから7年…。男性は今年1月、閖上地区に真新しい写真館を再建し、息子も家業に戻りました。

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しかし直後、新型コロナウイルスで入学式が延期され、予約は全てキャンセル。スタジオが3密になるため、県から休業要請も出されました。4月、5月の売り上げは前年から8~9割も減り、国の給付金や県の協力金を申請中です。今後も学校行事等がどれほど行われるか不安ですが、男性はこう語りました。

 「最初は全然、閖上に戻る気もなかったし、写真館を新しく開業する気もなかったんだけど、お客さんが1人来て、2人来て、昔の閖上のお客さんも来てくれて、やっぱり人と人が写真でつながってくれるんだなと…。じゃあやっぱり、閖上に戻って頑張ろうという気になりましたね。閖上は5千~6千人ぐらいの町だったので、どこに行っても知り合いの人に声をかけてもらったり、人と人のつながりが一番大切だと思ったし、これからもそういうものを大事にしながら、撮影していきたいと思っています」

 人が家から出ない…個々の店、その店で売る製品の納入業者、製品の原料を供給する業者と、この9年余りでやっと商売を立て直した被災地の方々には、あまりに酷な状況です。
 その後、閖上卓球愛好会で会長を務める60代の男性を訪ねました。震災でメンバーの多くが被災し、 当時の会長など2人が亡くなりました。被災したメンバーが避難で散り散りになり、男性は避難所などに何度も顔を出しながら、活動再開に尽力したそうです。震災から3か月で活動を再開し、現在メンバーは25人です。しかし、新型コロナウイルスで施設の使用が制限され、活動自粛が続いています。

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 「震災直後、市役所に私の携帯の番号を貼り出して、メンバーから全部連絡をもらって、“また卓球がしたい”と言うので、また復活したんですけどね。今は我慢して、安全を第一に考えてから練習をやろうかなと思っているんです。年を取っても健康維持をするために、仲間と一緒にこれからも続けたいと思います。いつ復活してやれるか…コロナを封じて、 また一緒にやれればいいなと思っています」

 さらに、閖上地区から車で5分ほどの災害公営住宅に行きました。ロビーの掲示板には、集会所で行われるイベント中止のお知らせが、たくさん貼り出されていました。

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ここで民生委員を4年間務める60代の男性は、妻と2人暮らしで、住民の見守り活動を続けてきたそうです。

 「集会所は閉じたままです。イベントの参加者は高齢者が多いし、重症化しやすいという話ですから、町内会の役員会から何から、一切やっていないですね。影響はかなり大きいです。イベントに参加する方はもちろん元気だと分かりますし、その方が“隣りから何々をもらった”と言えば、じゃあイベントに来ないお隣さんも元気なんだなと、情報が得られますから。仮設住宅では、支援員さんが集会所に毎日いました。そういう方がこれからこそ必要だと思います。人と会えない、電話やメールしか手段がない中でどうやって表に出ない住民を見守るか、アイデアも出してくれるんじゃないかと思います」

 災害公営住宅はどの被災地でも高齢者が多く、孤立の問題がさんざん指摘されました。自治会などの努力で様々なイベントやサークル活動を続けてきましたが、今、その積み上げが水の泡になる寸前です。


 そして再び閖上地区に戻り、200世帯ほどが暮らす閖上西地区を訪ねました。

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閖上西地区は、自宅を現地再建した人と他の場所から公営住宅などに移り住んだ人が混在していて、つい先月、新たな町内会が発足しました。町内会長は70代の男性で、2年前に自宅を新築したそうです。

 「3・11の後は個人の状況もいろいろ違うから、考え方もやっぱり違うんですね。そういう人たちが融合して、混在している状態ですね。ここに住みやすさを加えるには、やっぱり地域のコミュニケーションの再構築が絶対に必要じゃないかな。芋煮会をやろう、流しそうめんをやろうとか、ただ仲良しクラブだけでは対応しきれない、ゴミ集積所の問題とかもありますから、組織だった町内会を作って、閖上の人っていい人が多いなと言われる地域になれば、人口はもっと増える、もっと発展すると思いますね」


 最後に、閖上地区に完成した名取市震災復興伝承館の駐車場に、今年3月、石碑を建てたという50代の男性を訪ねました(伝承館は先月予定していた開館式が延期されたまま)。

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黒光りする石碑の正面には、『東日本大震災犠牲者慰霊 両親感謝の碑』と刻んであります。石碑の場所は男性の実家の跡地で、代々金物店を営んでいました。震災の4年前に他界した父親は、“閖上風土記”の編さんに熱心に関わり、閖上を愛していました。息子思いの優しい母親も閖上にこだわり、1人で暮らしていたそうです。墓に入った父の遺骨は津波で流され、母親も津波に飲まれました。男性はいずれ閖上に戻り、母親の世話をするつもりだったそうです。両親に復興する閖上を見せようと、石碑は町の中心部を向いていました。

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 「ここに住みたいという両親の思いを、震災のせいで叶えられないのは嫌だったんです。だから石碑を建てるほかに、両親に応えるすべがなかった…。碑の文は私の両親のことですけど、ここに来た人が碑を見て、自分のご両親のことを思っていただければと思います。ここを1つのランドマークにして、在りし日の閖上の町を想像してほしいと思います。そういう思い出の場所が、閖上ではほぼ全部なくなってしまったので…。ここが、あの店の場所だと分かれば、石碑としての役目もあるかなと思います」

 実は震災後、実家の跡地は国の防災事業の用地に入りました。両親のため男性は国と粘り強く交渉し、自前で碑を建てて、国に管理を委ねたそうです。