未来への証言  再起のきっかけは"綿花"

(初回放送日:2024年3月14日)
※NHK仙台放送局では震災伝承のため被災者の証言の音源を保存・公開しています。

仙台市若林区荒浜地区の農家・渡邉静男さんの証言です。
津波で田んぼや家などすべてを失いながらも、再起して今も荒浜で農業を続けています。

▽証言はこちらから(音声が再生されます)▽

岩野)最初の地震があったときに、渡邉さんはどちらにいらっしゃったんでしょうか?

渡邉さん)自宅です。私らは正直言って、津波来るっていうのはこれっぽっちも思っていなかったです。

岩野)思っていなかった?

渡邉さん)私自身はね。なぜかっていうとリアス式海岸じゃなくて太平洋に接してずーっと津波来ても散らばるような状態なんだよね。その1年前にチリ地震があったんだよね。あのときものすごく避難したんです。ところが津波の実態はなかった。やっぱり荒浜地区は津波が来ないんだと、インプットされたんじゃないですか。

岩野)荒浜小学校に避難されて、実際の黒い渦をご覧になった時はどのように最初思われました?

渡邉さん)私はもう「終わった」と思いました。人生そのものが終わりましたと。校庭に30cmぐらいだーっと入ってきて、慌てて非常口の校舎に入った。そしたら5分も経たないで濁流が来たわけですよ。慌てて2階に行って、2階に行ったら松の木がどんがら入ってきて。

岩野)松の木?

渡邉さん)どーんとぶち抜いてきた。そしたらこんど車も入ってきたんですよ。黒く渦巻いてこう、波じゃないですよね。私はそこをずっとテラスの所で見ていて。膝ががくがく、とにかく家から何から機械から全部やられたから、どうしようもないっていうのが本音だったですね。

そのおよそ3か月後、渡邉さんは、アパレルメーカーや紡績会社などが立ち上げた復興支援事業に参加しないかと誘いを受けました。被災した田んぼで、塩害に強いコットン・綿花を作ろうという取り組みです。これが渡邉さんが再び農地に立つきっかけとなり、今でも心の大きな支えとなっていますが、当初は乗り気になれなかったといいます。

岩野)東北で綿花をやろう。どうお感じになりましたか?

渡邉さん)いやあ、私は受け付けしなかったです。冗談じゃないと。もう排水堀、用水堀、水も何もできない状態で、それはないんじゃないかと。だから私、初めは「やりません」と。「やりたければ田んぼ貸しますから勝手にやってください」と。

岩野)気持ちの変わるといいますか、きっかけって何だったんですか?

渡邉さん)全国からみな集まってきて、わざわざ新幹線使って1500名ぐらい来た。入れ代わり立ち代わり。みんなボランティアで来て、そこに懇親会とかいろいろ励まし会とかやってくれて、徐々に傾いていったっていうのが本音ですね。やらざるを得ないのかなっていう気持ちと、やっぱり何もしないではいられない。残されたものは何かっていうと、自分の地べたがあるわけですから。そこで復活するしかないのかな、

岩野)今この荒浜の地で、もう1回この場所で出来ていることに関してはどう思われますか?

渡邉さん)かわいいもんじゃないですか。稲作の、黄金の稲が並べて米なんぼってあってさ、自分で作ったものを自分で食べる。こんないいものはない。私にとってはこの津波は非常に大変だったけど、この12年というのは生きている中で一番充実しているんじゃないかって気がする。こんな、家もない、何も流されてもこうやって復興して、その始まりというのはあくまでコットンなんで。たかが綿なんだけどされど綿なんです。それのつながり、絆っていうのは裏切ることは出来ないし、続けていきたいと。

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