未来への証言 「犠牲者ゼロの島」の消防団員

(初回放送日:2024年3月15日)
※NHK仙台放送局では震災伝承のため被災者の証言の音源を保存・公開しています。

塩釜市の離島・桂島に住む内海信吉さんの証言です。
桂島には震災当時およそ300人が住んでいましたが、津波による犠牲者を一人も出しませんでした。
当時51歳だった内海さんは、消防団員として住民の命を守るために尽力しました。

▽証言はこちらから(音声が再生されます)▽

丹沢)まず地震発生当時の状況から伺いたいんですが。

内海さん)私も消防団の一員でしたし、消防団の機材置き場が港の一角にあったので、揺れが収まってからそこに一番最初に向かいました。島の中にいた団員はすぐ詰所にみんな下りてきてくれて、そこでどういう作業をするかまずすぐ決めて、まずは避難道というか避難する場所を確保するために道路の確認と、それから家屋内にいる人たちの安否確認しなくちゃいけなかったので、もちろんその状況だったので避難誘導も合わせてやるんですけど、そういう手順でみなさん手分けしました。

丹沢)津波が来るというのはすぐに頭に浮かんだんですか?

内海さん)いや、それはもちろんすぐ「津波来るな」とは思ったんですけど「大津波警報」っていう言葉自体初めてでした。津波警報はちょくちょく発令されているのは聞いていましたけど、大津波っていうのは初めて、確か聞いたと思う。

丹沢)これまでにないような、経験したことがないような津波が来るというのは頭にあって。

内海さん)そういう想定ですよね。多分。来ればすごいだろうって。

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震災直後の桂島のようす

内海さん)私は避難した人の名簿作りをしていました。まあ顔と名前全部知っているんで。把握できるわけですよね。誰が来ていないか。回っていた団員さんたちが声がけして、それで連絡が来て「今誰々さんには拒否されて来ないんだ」とかそういう情報は入ったので、とにかく「もう1回行ってこい」と。「とにかく避難させろ」って。命令。自分の親世代で、チリ津波、宮城県沖地震とかそういうのを体験している人たちだったので「今回も地震はすごかったけど大丈夫だろう」って、そう思っていたみたいです。だから避難誘導にあたった若い団員には「とにかくいいから無理やり連れてこい」って。ほんで解除になれば戻ればいいだけのことだって。「無理やり連れてこい」は、車に積んで。乗せてじゃないんです。車に積んで連れてこいって。

丹沢)軽トラックとかで。

内海さん)でも結果的には、そのまま残っていればおそらく危なかったですね。全部家流されています。その人たち。

丹沢)津波が実際に来てからもそれぞれで勝手に動かないようにした?

内海さん)来るときに分かったんですよ。においがしてきたんです。海のにおいと音が聞こえてきたの。

丹沢)においっていうのはどういうにおいに近い?

内海さん)くさい。何ていうのかな。へどろっていうか。ただ、その音とにおいが来た瞬間にはみんなは全然表情変わったから。諦めついたっていうのかな。どうしようもないって。

丹沢)津波による犠牲者がいなかった桂島なんですが、何が決め手だったと考えていますか?

内海さん)いやあ。狭いコミュニティだからみんな知っているわけじゃないですか。「隣の家の人は今どこにいる」みたいなそんな感じで暮らしていたので、失いたくないでしょ。だからやっぱり気になるんですよね。「あれ?」って。それを知っている人たちの情報がみな集まるわけじゃないですか。ここにいた時点で。

丹沢)もう少し大きなコミュニティでもこういうことに気をつけたらいいということはありますか?

内海さん)やっぱりせっかくメディアで情報を流しているわけじゃないですか。津波注意報とか警報、大津波警報。それは絶対従うべきだと思います。「ああ出たんだー」じゃなくて、それはそのまま100%受け取って、ちゃんと指定された避難所に移動するべきです。って私は思っています。