未来への証言 野球ができることへの感謝

(初回放送日:2024年3月13日)
※NHK仙台放送局では震災伝承のため被災者の証言の音源を保存・公開しています。

女川町出身の鈴木聖歩さんの証言です。2023年、社会人野球日本代表に選ばれた野球選手です。
震災当時はクラブチームで野球に取り組む中学2年生。野球のできる環境は奪われましたが、地域の大人たちの尽力で震災の1か月半後には野球ができるようになりました。

▽証言はこちらから(音声が再生されます)▽

小野)2011年の3月11日、震災が起きて、最初大きい地震が来ましたが、そのとき鈴木さんはどちらにいらっしゃったんですか?

鈴木さん)中学校の卒業式の準備をしているときに地震が起こりました。最初は「地震かな」という感じだったんですけど、徐々に大きくなっていくにつれて体育館の天井とかが落ちてきて、それが逃げるときに自分の逃げる方向の前に落ちてきたのはすごい覚えていて、何人か後ろの人も当たった人もいたみたいなんで、今でも考えられないと思うんですけど、すごい状況でした。

小野)その後の生活は?

鈴木さん)今まで暮らしてきたというか今まで生活してきたのとは全く違う生活というか、寝るのも不安ですし、テレビもなくて携帯の電波も通っていなくてみたいな感じだったので、もうただ時間が過ぎるのを待つというか、明日は大丈夫かなとかそういう不安を抱えながら毎日過ごしたなという記憶があります。

小野)そんな中、ご自身、当時も野球をされていて、正直、震災が来て津波が来てというときから野球って頭の中にどのぐらいありましたか?

鈴木さん)いや、全くなかったですね。相当ダメージを受けていたというか、本当に野球って言葉が頭からなくなっていたなって、今すごく思います。

小野)野球やる施設とか津波でだめになってしまったと思うんですけど。

鈴木さん)監督、コーチだったりがいろいろ知り合いを通じたりして、日本製紙石巻さんの室内練習場だったり、あとは石巻市民球場だったりを借りて、毎日ではないですけど、週に1回2回とかは出来ていたなっていうふうには覚えています。

小野)周りに支えられて野球をするという状況だったのかなと思うんですけど、そういうことに対してはどういうふうに思いながら野球をしていましたか?

鈴木さん)当時はまだ子どもだったんで、野球が楽しいだったり、野球ができる喜びをすごい感じていたのを覚えていて、今になって感じると、監督、コーチだったり、会長さんだったり、父母会の人たちだったりの力がなかったら絶対野球をスタートできていなかったんで、すごい感謝というか、あのような状況で、つらいのは大人たちも同じ状況だったと思うんですけど、子どものためにできるってすごいなと今は思いますね。

小野)その後の野球への取り組み方は、震災の経験を経てですね…。

鈴木さん)震災を経験して地元に帰ってきてっていう形でいろんな、求められているものは野球だけじゃなくて、そういう地域に対する貢献だったり、自分であれば地元の人たちに対しての、小さい子の目標であったり、元気を与えるっていうのは大切なんじゃないかって1年目から思ったので、そこから、大学時代とかだったら自分が結果出なかったら悔しいとか一喜一憂していた部分があったんですけど、野球の結果で一喜一憂している場合じゃないなっていうふうにはすごく感じていたので、打てなくても打っても、元気だったり明るさを与えられる選手になりたいなというふうには思ってやっています。