【キャスター津田より】9月2日放送「宮城県 南三陸町」

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 今回は宮城県南三陸町(みなみさんりくちょう)の声です。7月末現在の人口が11,834で、震災発生の前月と比べると33%減っています。津波で831人が犠牲になり、全住宅の6割近く、3100戸以上が全壊しました。町は、山を切り崩した高台に集団移転団地や災害公営住宅を整備して住宅地をつくり、津波で壊滅した低地部は、10m程度の盛り土で商店街や水産加工場が並ぶエリアにしました。2016年から17年にかけて、集団移転先の宅地造成(28団地827区画)、災害公営住宅の整備(738戸)、志津川(しづがわ)地区の土地区画整理事業など、基本的な復興事業は完了しています。モダンな役場庁舎や魚市場が新しく整備され、被災した保育施設や小中学校も全て復旧ないし新築されました。図書館が入った生涯学習センターや、公立の総合病院(10診療科・90床)も新たに整備され、大型スーパーやホームセンター、ドラックストアがそろったショッピングセンターも市街地に誕生しています。
町では震災後、仮設商店街が前身の“南三陸さんさん商店街”と“ハマーレ歌津(うたつ)”がオープンしました。特に“さんさん商店街”は、2020年に来場者200万人を達成しています。隣には、震災伝承施設“南三陸311メモリアル”が去年開館し、独自のプログラムで注目を集めています。

はじめに、“さんさん商店街”で行われていた“南三陸かがり火祭り”を訪ねました。会場の一角では、農家の大沼(おおぬま)ほのかさん(25)が、キッチンカーでクレープを販売していました。自ら栽培した果物をトッピングに使い、週末のイベント等で営業しているそうです。震災時は小学6年生で、自宅を津波で流され、家族で北海道に避難して2年間暮らしました。4年前に農業大学校を卒業し、故郷に土地を借りて果樹園を始めました。モモやクリを中心に、ブルーベリーやブドウも育てています。

「最初は本当に、がれきまみれの町を見て、この町はもう二度と住めないって思ったんですよ。でも、ちょっと大人になって町を見渡すと、この町を復興させようと頑張っている方々がいて、その熱に集まってくる方々がいる…それを見た時に、私もこの町で最後まで根を張ってやっていきたいと思いました。毎年、寡黙に土を耕し、種をまいて作物を育てているという農家さんがかっこいいと思って、こういう人たちと一緒に過ごしていきたいと農家になりました。直売所に卸すと、“ほのかさんの桃だ”って買って下さる方が増えてうれしいです。この町って、すごくチャレンジしやすい、人からのゆるい応援が多いと思っているので、他の人にもぜひやってほしいです」

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夕暮れになると、祭り会場では13年ぶりに灯籠流しが行われました。震災犠牲者を供養する約600個の灯籠が川の水面に浮かび、ステージでは地元の創作太鼓グループが演奏を披露しました。このグループは津波で太鼓や道具を全て失いましたが、半年後に再開したそうです。メンバーの一人、奈良県出身の阿部希望(あべ・のぞみ)さん(41)は、長男の優之介(ゆうのすけ)さん(17)、次男の輝里丸(きりまる)さん(11)とともに演奏に参加していて、震災ボランティアを機に町民との絆が深まり、町に移住しました。当時、長男は6歳。すぐに友達ができたそうで、移住後は次男も誕生しました。

「太鼓を初めて聞いた時、いろんな人の思いや亡くなった人の気持ちが全部入っている気がして、涙が出てきました。子どもたちの成長と一緒に、町も本当に変わってきたし、被災してないから皆さんの本当の気持ちは理解できないけど、復興の歩みは一緒に肌で感じてこられたと思っています。学校で楽しく過ごしている姿を見ていると、地域の人にも支えられながら、子どもたちが立派になって良かったと思います。子どもにはどこに住んでいても、それぞれが活躍できる場所で頑張ってほしいです」

 長男の優之介さんは、来年、関西で就職する予定です。同じ舞台に立って3人で演奏する機会もあと数回で、優之介さんは、“こっちに来なかったら会えなかった友達や、関われなかった人と関わることができて、南三陸に来て正解だったと思います”と言いました。

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その後、志津川漁港に行き、アワビやワカメの養殖を行う阿部仁文(あべ・ひろふみ)さん(45)から話を聞きました。津波で自宅や船を失いましたが、7か月後には再開したそうです。阿部さんは高校を出て上京し、美大に進みました。卒業後も東京に残り、展覧会に出品するなど創作活動を続けましたが、震災の2年前、母親が病気になりUターンしたそうです。家業の養殖を継ぎ、絵筆とは決別。震災後は町外に避難し、片道1時間半かけて毎日通って養殖を続けました。6年前、自身の結婚を機に高台に自宅を新築し、町に戻ってきました。さらに阿部さんは、震災をきっかけに本格的に絵も再開しました。

「震災後、喜んでもらえるかなと思って、避難所に似顔絵を描きに行ったんですよ。描き上げると、みんな明るかったですね。何より私が描いていて楽しかったので、続けて描いていこうと思いました。自然にある風景を描きたくて、それが普通に魅力的だと思います。アワビの個人販売もしていますが、私が描いたポストカードをおまけで付けるとか、ちょっと面白い形にしていきたいと思っています」

阿部さんは震災後、個展を5回開催しています。何気なく目にしたアワビの殻を水彩で描くなど、南三陸でごく身近にあるものをテーマに描いています。

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そして、8年前に仮設住宅で取材した後藤貞男(ごとう・さだお)さん(77)に再び会うため、高台にある災害公営住宅を訪ねました。元建具職人で、津波で母親を亡くし、妻も震災後に病気で他界しました。震災前から娘2人は関西で暮らしており、仮設では1人暮らしでした。当時の仮設住宅では、天井が落ちたり釘がさびたり、建物の傷みも目立っていました。後藤さんは、こう言いました。

「復興に向かって前進あるのみです。仮設のみんなで 1日も早く、集合住宅とか高台移転に進みたいです。私、1人暮らしなんで、なおさらそう思って、自分に言い聞かせて進んでいきたいと思います」

 後藤さんは、2017年に災害公営住宅に入居しました。今の暮らしについて聞くと、こう答えました。

「まあ、ここに入れば前進なんだろうけど、仮設のほうがコミュニケーションがとれて、住みやすかったね。つながりだね…これが一番だね。仮設では、近所の人が気軽に“家入って”って言うし、“じゃあ、ごちそうになるか”って家に上がったし…。昔には戻れないから、この公営住宅で会った方と一緒に生活していくしかないんです。あの時のことを思い出すと今でも涙が流れそうになるんですが、大好きな南三陸の海を眺めながら、1人ですけど生きていこうと思っています」

半年前のデータでは、町内の災害公営住宅に住む約700世帯のうち、65歳以上の1人暮らしは223世帯、約3割です。夫婦の一方が亡くなるなど、それまでの4年間で50世帯以上増えています。役場近くの志津川東地区では、社会福祉協議会が「結(ゆい)の里」という拠点を整備し、カフェを設けて食事会や運動会も開くなど、公営住宅の高齢者や様々な世代の周辺住民が集まれるようにしています。

最後に、歌津地区へ行き、10年前に取材した酒井徳子(さかい・のりこ)さん(71)を再び訪ねました。昭和57年から地区で理容店と美容室を営んでいて、自宅は高台にあったものの浸水し、海沿いの店は跡形もなく流されました。以前会った時は、復興支援の御礼に配るため、地元の皆さんとコンブを干しながら、“2年半経ったけど、復興はあまり進んでないなあっていうのが現状です”と言いました。

 取材後まもなく、酒井さんは自宅の隣にプレハブで店を建て、理容業を再開したそうです。

「お店もみんな、無くなってしまったからね。“何とかやってくれないか”ってみんなに言われて、じゃあプレハブを買ってきて、何とかここでやるかと思って始めたんです。10年なんて、いっときだね。あんなにひどい目にあったのに、こんなに明るい人たち見たことないと言われたけど、前向きに進んでいく気持ちが大切だと思ってやってきました。歌津で元気に頑張って過ごしていきます」

酒井さんは4年前から民生委員も務め、津波で流失したカーブミラーや県道の段差を直すよう町に訴えて実現し、現在は新たな避難道路の必要性を訴えています。これまでも歌津地区では大半の方が、“役場のある志津川に比べて、こっちは常に復興が遅れてきた”と話します。歌津地区でも、商店街“ハマーレ歌津”では様々なイベントに力を入れ、向かいには、今年、大型遊具をそろえた“南三陸ハマーレ広場”も誕生しました。しかし、人の賑わいは志津川地区に比べて、大きな差があります。暮らしの上での課題は、町内各地にまだ残されています。