【キャスター津田より】10月30日放送「岩手県 大船渡市」

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 今回は、岩手県沿岸の漁業のまち、大船渡(おおふなと)市です。人口は34000あまりで、震災前より15%減っています。震災では400人以上が犠牲になり、2700棟を超える住宅が全壊しました。

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 5年前、災害公営住宅(全801戸)の整備が完了し、JR大船渡駅前には交通広場やホテルがオープンしました。4年前には集団移転の宅地造成(全21地区)が完了し、あわせて50以上の飲食店や小売店が集まる新たな商店街「キャッセン大船渡」と「おおふなと夢商店街」もオープンしました。おととしは、JR大船渡駅周辺で区画整理事業の基盤整備が完了し、一時1800世帯が暮らしたプレハブ仮設住宅の入居者も全て退去しました。市の復興計画にある257の事業は、ほとんど終わっています。
 一方、集団移転後の跡地利用や、中心部で用途未定の土地が目立つなど、課題も残ります。
 
 はじめに、大船渡町(ちょう)に行きました。JR大船渡駅を中心に商店街や多くの住宅がありましたが、最大10m近い津波に襲われ、市全体の犠牲者の4割をこの大船渡町が占めています。ここでは、50代の夫婦と20代の息子が営むラーメン店を訪ねました。津波で店を流され、ご主人は廃業を覚悟しましたが、息子のために再建に踏み切ったそうです。

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 「まだ息子が大学2年生だったので、あと2年、どうしても卒業させたいと…。それ以上に、野球をやってたから何とか続けさせたいなという気持ちがあってね」

 息子は隣町の高田(たかた)高校を卒業し、東京にある大学野球の強豪・帝京大学に進学しました。一時はドラフト候補にも挙げられた有力選手で、卒業後は社会人野球の門をたたき、大手ホテルチェーンに就職しました。しかし店を再建した翌年の2014年、両親を助けたいと地元に戻ったそうです。

 「大学をちゃんと出してもらって、少しでも早く店を継いで、親の助けになるというか、一緒にやっていけたらと考えていましたし…。お世話になっていた地元に帰って、恩返しをしていけたらという思いがありました。両親の味をくずさず受け継いで、地元の人から愛される店にできたらいいかな。うちのラーメンがうまいって口コミで広がって、1人でも大船渡に足を運んでくれたらと思います」

 彼は今年から、地元のためになればと、母校・高田高校の野球部で指導を始めています。

 

 続いて、この道50年という、電気工事業の70代の男性を訪ねました。冷凍倉庫などの制御盤を作る会社を長く経営し、現在は会社を畳んで一人で仕事を請け負っています。自宅は津波で床上浸水し、工場は1階天井まで浸水しましたが、震災10日後には冷蔵施設の修理に駆けつけ、その後1年間、ほとんど休まず修理のために働き続けたそうです。

 「冷蔵庫がだめになると、魚を獲っても、加工しても入れるところがありませんから、電気関係を1日も早く立ち上げなくちゃいけないという思いでした。つらかったですけど、音を上げたり、弱音を吐いたことは決してなかったですね。職人の使命感かな…。私は電気の職人です。個人の力は小さいけど、いろんな職人の方が集まれば、社会に貢献できるんじゃないかな。私も少し力になっているのかな」


 今の復興は、誰か一人の大きな力によるものではありません。一人一人の本物のプロが、自らも被災しながら誇りを持って仕事を成し遂げた結果です。ちなみに大船渡の漁業は今、危機的状況に陥っています。本州一のサンマの水揚げ量を誇ってきましたが、サンマは数年前から、全国的に前代未聞の不漁続きです。今後も三陸沖のサンマ来遊量は前年同様少なく、低い水準の見込みです。加工業者もサンマ以外の商品を作るには設備投資がかかり、震災10年で新たな壁が立ちふさがっています。
さらに、盛町(さかりちょう)にある、ネイルとエステのサロンに行きました。店主でネイリストの40代の女性は、震災後しばらく、仮設住宅などを回ってボランティアで爪のケアをしていた方です。津波で店舗は全壊し、自宅も大規模半壊しました。しかし仮設住宅に住みながら店舗再建を優先し、5ヶ月後には元の場所で営業を再開したそうです。

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 「メールや電話は全て、“元気だったら早く再開してください”という内容だったので、お店の再開を急いだんです。最初は仮設での営業を考えていたんですけど、“仮設住宅にいる人が、また仮設の店に行って施術されるの嫌じゃない?”って言われて、“じゃあすぐ建てるのを頑張ろう”って…。お客さんが泣いているのを見るのは苦しかったし、泣くに泣けなかったです。私もやっと最近、震災のことを話せるようになった気がするし、それまでは苦しいとか、そんなことより“早く違う目標を”と言い聞かせて置き換えてしまっていたので…。今はあの時の自分を慰めながら、“この町と一緒に生きていく”っていうのはそういうことなんだって噛みしめながら、暮らしています」

 去年10月、若者に人気のアパレルブランドのコンテストで、この女性のネイルデザインが全国1位になりました。“この町から世界を目指す!”が今の目標だそうです。


 その後、末崎町(まっさきちょう)に行き、過去に出演した方を再び訪ねました。この地区には『虎舞(とらまい)』という獅子舞に似た伝統芸能があり、獅子ではなく虎をかたどっています。番組では震災の翌年、地域の祭り“五年祭(ごねんさい)”で、虎舞の様子を取材しました。津波で鉄骨だけが残された建物の横で勢いよく舞う姿を、生後10か月の赤ちゃんを抱いた30代の女性が見ていました。当時はこう言いました。

 「虎舞は元気の源じゃないでしょうか。みんなで元気になると思います。亡くなった方もいるし、さみしいですからね。どんどん復興が早くなって、次の五年祭はもっと華やかになればいいなと思います」

 あれから9年…。女性は高台に家を建て、引っ越していました。自宅は被害を免れたものの、津波の恐怖から高台に移ったそうです。就学前だった3人の子どもは、現在、長男が14歳、次男は12歳、三男は9歳です。震災時、女性は外出中で、大きなお腹で長男の手を引き、次男を背負ってがれきを乗り越え、自宅までたどり着きました。恐ろしい経験や震災後のつらかった日々を思い出し、今も涙をこぼすことがあるそうですが、元気な3人の息子の成長に支えられていると言いました。

 「仮設住宅が建って、校庭で運動会ができなくて子ども達もかわいそうだったし…あの震災は二度と味わいたくないですね。子ども達の学校も人数が少なくなって、統廃合の話があったりしますが、心のままに、子どもたちがのびのびできるような場があればいいのかなって思います。」


 最後に末崎町にある泊里(とまり)集落に行き、9年前に取材した70代の女性を訪ねました。震災前は40世帯ありましたが、今は4世帯しかありません。自治会も解散し、閑散とした集落の中で女性は静かに暮らしていました。夫と息子、義母の4人暮らしで、夫婦で営んでいたワカメ養殖はすでに引退したそうです。津波は自宅の床上1mまで押し寄せましたが、修理して今も住み続けています。階段には津波の跡が残っていました。今の暮らしについて尋ねると、こう答えました。

 「周りに家がなくなったから、電気もつかないし真っ暗で…。自分の家だけ残って集落がなくなったんだという思い、一抹の寂しさがありますね。でも、もう慣れたね」

 9年前の取材では、女性はこう言っています。

 「小さい集落だけど、小さいから協力的で、なおさらまとまるの。この集落にあった元の生活、そして津波のことと、原点を忘れたくないです。何か忘れていくのが恐ろしいような感じがします」

 あれから9年たった今回、女性は私たちに、大事に保管しているという品々を見せてくれました。部屋の片隅にきれいに並べてあり、震災前、小さかった3人の孫が使っていた茶碗や、津波で敷地に流れてきた野球ボール、中には、畑に流れ着いた未開封の酎ハイの缶までありました。

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缶に貼った紙には、“忘れもしません 3月11日 14時46分”と書いてあります。まさにどれも、震災前の生活や津波に関わるもので、女性が忘れたくない“原点”を示しています。この10年を振り返り、こう言いました。

 「仕事のこととか、津波のこととか、すごく頑張ってきたと思います。だから残りの人生は、ゆったりと、ほどほどにのんびりと、そんな感じだね。生活が豊かとかではなく、心豊かに、いつでも明るくね。あとは何かがあると、曲の歌詞が浮かんでくるのよ。それで元気になるのね」


 そう言って女性は、中島みゆきさんの『時代』の冒頭、“あんな時代もあったねと…”を口ずさみ、“この歌、好き"と言いました。“あんな時代もあったね”と話せる日がいつかは来る…本当にそう願います。