一の希望かなわず
残酷” 横田早紀江さん

北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの母親の早紀江さん(84)が19日、NHKの単独インタビューに応じ、ことし6月に亡くなった夫の滋さんについて、「生きているうちに娘に会うという、たった1つの希望さえかなわず本当に残酷だ」と話し、政府に対し、すべての拉致被害者の一刻も早い帰国を実現するよう、改めて強く求めました。

横田めぐみさんの父親の滋さんは妻の早紀江さんとともに、「拉致被害者の救出運動のシンボル」として活動の先頭に立ってきましたが、ことし6月、87歳で亡くなりました。

早紀江さんはこのところ表立った活動は控えていましたが、拉致問題の解決のためにはみずから発信することが大切だと19日、NHKの単独インタビューに応じました。

この中で早紀江さんは、滋さんがおととし体調を崩して入院したあと、食事を取れなくなったため、「胃ろう」や点滴で栄養を取っていたことを明かし、「めぐみちゃんが帰ってくるまでは、一目会うまでは、頑張らせてあげたかった」と話しました。

また、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で面会できなくなった時には、短い手紙やみずから描いた花の絵を看護師に託し、滋さんに届けていたということです。

しかし、緊急事態宣言が解除され、再び面会できるようになってまもなく、滋さんは亡くなりました。

早紀江さんは「写真を見せながら『めぐみちゃんに会いたいよね』と声をかけると、夫は『そうだね、そうだね』と言っていました。生きているうちに娘に会えると信じていましたが、たった1つの希望さえかなわず本当に残酷です」と話しました。

政府が認定している拉致被害者のうち、安否が分かっていない12人の親では、ことし2月に有本恵子さんの母親の嘉代子さんが亡くなり、子どもとの再会を果たせずに亡くなった人は、平成14年の日朝首脳会談以降だけでも、滋さんを含めて8人に上ります。

今も健在なのは早紀江さんと、有本恵子さんの父親の明弘さん(92)の2人だけです。

早紀江さんは「私は倒れるまで頑張るが、いつまでも元気ではいられず、家族が世論に訴える時期はもう過ぎたと思う。子どもに会えないまま亡くなったすべての被害者の親のためにも、政府は責任を果たしてほしい」と述べ、政府に対し、すべての拉致被害者の一刻も早い帰国を実現するよう、改めて強く求めました。

横田滋さん 命つないだ日々

横田滋さんは3年前の平成29年以降、足腰が急速に衰え、会話にも詰まるようになりました。

公の場に姿を見せたのはその年の11月15日、めぐみさんの拉致から40年の節目に合わせて開かれた記者会見が最後となりました。

娘が拉致されたとき45歳だった滋さんは85歳になっていました。

翌年の4月に体調を崩して入院。食事がのどを通らなくなり、家族で話し合った結果、チューブで胃に直接、栄養を送る「胃ろう」の手術に踏み切りました。

滋さんは、食事が取れないことに時折さみしそうな表情を浮かべていたということで、早紀江さんは毎日、バスで病院へ向かい滋さんを見舞いました。

滋さんは自力で立つことも困難になり、早紀江さんが車いすを押して病院の敷地を散歩したり、滋さんの手足の関節が硬くならないようにと、マッサージをしてあげる日々だったということです。

2年余りにわたった入院生活。いつも病室に飾られていたのはめぐみさんが写った3枚の写真でした。

1枚は小学4年生の運動会の時に滋さんが撮影した、えくぼが印象的なめぐみさん。

2枚目は拉致される前の年、最後の家族旅行になった新潟県佐渡市での写真。

そして、平成16年に北朝鮮が出してきた成人しためぐみさんの写真。

めぐみさんの笑顔に囲まれた病床で早紀江さんが、「あと少しで会えるかもしれないからがんばろうね」と声をかけては、2人で再会を祈る毎日だったということです。

しかし、ことしに入ってから「胃ろう」でも栄養を取りにくくなった滋さん。

代わりに点滴で命をつなぐことになりましたが、意識が混濁する日もあるなど一進一退の状況だったということです。

さらに、新型コロナウイルスの感染拡大で早紀江さんも病院に見舞うことが困難に。

緊急事態宣言が解除された5月下旬以降、再び面会できるようになりましたが、それからまもなくして、滋さんは早紀江さんら家族、そして写真の中のめぐみさんに見守られながら静かに息を引き取りました。