“軍師”飯島勲 拉致問題「1週間で日朝会談セットする」

2002年9月17日。小泉総理大臣が初めて北朝鮮を訪問し、キム・ジョンイル(金正日)総書記が拉致問題を認めて謝罪した。
あれから20年。
拉致被害者5人の帰国は実現したが、その後、協議は暗礁に乗り上げ、ほかの被害者は祖国の土を踏めないままだ。解決への困難な道筋を、歴代の総理のもと水面下で模索する男に取材した。
(大場美歩、古垣弘人)

残念としか…

私たちが総理大臣官邸4階で向き合ったのは、飯島勲。

かつて小泉政権の政務担当の総理大臣秘書官として政権運営を支え、“軍師”とも呼ばれた。小泉訪朝にも同行し、拉致被害者5人の帰国にも貢献した飯島。
その後、第2次安倍政権、菅政権、そして今の岸田政権でも特命担当の内閣官房参与に任命され、拉致問題に関わり続けている。
インタビューの冒頭、問題が未解決のまま節目を迎える今の気持ちを聞くと、少し間を置いてこう答えた。

「残念だ…。そうとしか言いようがないですね…」

歴史を動かした水面下の交渉

20年前の9月17日。歴史は大きく動き出していた。

飯島は、その日に至る外交交渉の一端をこう明かした。

「長年、少なくとも『日本赤十字社』が、人道支援を含めて北朝鮮のパイプ役になっていた。そういった蓄積もあってのことなんです」

日朝の間には、外務省による交渉ルート以外にも、国会議員らの交流や赤十字会談などさまざまな交渉手段が存在してきたとされる。
飯島が言及した「日本赤十字社」は、国際的な人道支援なども担い、かねてから北朝鮮にも対話のチャンネルを持っているとされていた。
飯島自身が直接関わっていたかどうかは、明言しなかったが、外務省ルート以外の手段でも長い時間をかけて水面下の交渉が続けられてきたことを示唆した。

「本当にいろいろなことがありました… 表に出せない部分も」

“小泉の軍師”は、そう語るとともに、首脳会談が行われる直前、日本側から北朝鮮に対し、ある心理戦を仕掛けたことを明らかにした。

「私が訪朝時の対応で指示した重要なことは、警護の人数でした。あえて20人から30人以下に絞らせたんです。当時、政府要人らの海外訪問の際、警護は100人程度になることが多いんです。でも今回は、東京都内を歩くみたいな警備にしろと」

その意図を問うと、飯島はこう述べた。

「お互いに信じ合って、議論し合って答えに持っていくのが拉致問題ですから」

交渉決裂の可能性を少しでも残さないため、日本側から、いわば「丸腰」に近い姿勢を演出し、「信頼している」というメッセージを北朝鮮に伝えたのだ。
立場が大きく異なる相手と向き合うことも多い外交交渉。
あらゆる手段を使って、信頼関係を形づくることができるかが、結果を出せるかどうかのカギになるということか。
この初めての日朝首脳会談で、キム・ジョンイル総書記は、日本人の拉致を認め、謝罪。拉致被害者5人が帰国した。

幻の3回目の訪朝

その2年後の2004年5月。
ほかの拉致被害者に関する真相究明が進まないなかで、小泉総理大臣は、2度目の訪朝を断行。

首脳会談の結果、安否が分からない拉致被害者10人の再調査を行うことで合意した。
小泉総理は、記者会見で「お互いの信頼を醸成できた」と、意義を強調していた。

しかし、その“信頼醸成”は、砂上の楼閣のように崩れ始めていた。
当時、核開発問題をめぐって、北朝鮮とアメリカが激しく対立。
飯島が当時の内情を明かす。

「実は、私は、もう3回目の訪朝の準備を裏で始めていました。しかし、第2回訪朝で帰国した翌日でしたね。アメリカ国務省の幹部が『北朝鮮が核を保有している』という断定的な発言をしたんです。当時は、日朝関係が前に進むことで米朝関係も進むという状況を、私たちは作ろうとしてきた。ところが、核保有で、北朝鮮は枕を高くして寝られる状態になってしまったんです」

「枕を高くして寝られる」
北朝鮮が核という威嚇のカードを確保したことで、日本との外交交渉で譲歩する必要性が薄れ、強硬姿勢に転じられるようになったというのだ。

飯島は、こう続けた。
「率直に言って、もう拉致問題解決への動きは終わってしまうかもしれないと。小泉総理ともそう話しました」

懸念は的中した。
北朝鮮はその後、核・ミサイル開発を活発化。3回目の日朝首脳会談は実現しないまま、日朝の協議は暗礁に乗り上げた。

自らの訪朝

その後も拉致問題の解決に向けて取り組んでいた飯島が特命担当の内閣官房参与に任命されたのは、第2次安倍政権が発足した2012年だ。
小泉の日朝首脳会談にも立ち会った安倍晋三。
拉致問題を内閣の最重要課題と位置づけ、飯島を官邸に招き入れたのだ。

翌2013年5月。
飯島は、北朝鮮を訪問する。相次いで会談したのは、北朝鮮の指導部の中枢にいる人物たち。代表的な立場で外国の賓客と会うキム・ヨンナム最高人民会議常任委員長や朝鮮労働党で国際関係を統括するキム・ヨンイル書記らだった。

極秘裏に現地入りする手はずだったというが、到着時にあてが外れたときの様子を笑いながら、こう振り返った。

「当時の安倍総理から『頼む』って言われ、訪朝したんです。大使館を通じて情報が漏れる懸念もあったので極秘のつもりで現地に入りました。でも到着したらCNNから何からテレビカメラが設置されていて、びっくりしましたよ」

会談の内容について、北朝鮮側の発表では、キム最高人民会議常任委員長が日朝関係をめぐる飯島の活動について、「努力を傾けていることをよく知っており、高く評価している」とした上で、「飯島先生が非常に重要な使命をもってピョンヤンを再び訪れた」と述べたとされる。この訪問を北朝鮮が重視していたことをうかがわせている。

では、拉致問題について、具体的に何が話し合われたのか。もう10年近くが経っている。そろそろ、“秘密コード”も解けたのではないかと、飯島に尋ねると、即答した。

「それは言えません。拉致問題が解決するまで、話すバカはいないですよ。話してはならない。それが最低限の立場と行動です」

一方で、飯島は「まあ、意味があったから行ったんだ」と口にし、この訪朝は拉致問題の解決に向けた一手だったことを強調した。

飯島が、いまも情報の取り扱いに細心の注意が求められるインテリジェンスに携わっていることを肌で感じるやりとりでもあった。

北は日本との対話を選択?

2018年、アメリカのトランプ大統領と北朝鮮のキム・ジョンウン(金正恩)総書記による初の米朝首脳会談を契機に、北朝鮮をめぐる緊張が緩和。
一時、拉致問題の進展を期待する声も高まったが、米朝の核・ミサイル問題をめぐる交渉は結局、暗礁に乗り上げ、北朝鮮は再びかたくなな姿勢に転じた。

ことしに入ってからは弾道ミサイルの発射を繰り返し、核実験を再開するのではないかという観測も飛び交い、再び緊張が高まる。

飯島に、拉致問題の解決はさらに遠のいたのではないかと聞くと、意外な見方を示した。

飯島は、いまでも北朝鮮から、日々、対外的に発信されるレポートなどをチェックする作業を怠らないとした上で、こう説明した。

「北朝鮮からの発信は、今までアメリカに対する批評が一番多かった。そして韓国が一部あって、そのさらにずっと下が日本だった。今はどうか。毎日、最低3回、4回と日本の問題を発信してきている。これは対話のサインです」

だからこそ、今、日本は、人道支援も交えながら、積極的に対話を促す方向に舵を切るべきだと、独自の見方を強調した。一方で、北朝鮮に対する制裁は緩める必要はないという。

「日朝交渉を進める時です。本当に対話が大事で、『日本赤十字社』の力も借りながら、日朝の関係をうまくやっていく。ただし、何があろうと、制裁措置を1ミリも緩めちゃダメです。そんな駆け引きをする必要はないです。制裁は緩めないで、日朝交渉をスタートさせるべきだ」

「1週間で日朝会談をセットする」

制裁を緩めずに、交渉を再開する。そんなことが簡単にできるのだろうか?
飯島は、拉致問題の現状についてこう例えた。

「広大な東京都の中に、まち針が1本落ちている。それを探せ。そんな感じでしょう。今の状況は」

その一方で、こうも強調した。

「それでもやらなきゃいけないんですよ。政治の世界に接していれば。私はやりきれると思っています」

1時間半ほどに及んだインタビュー。飯島はその最後にこう話した。

「私自身、本当に言えない人脈も何も含めて裏でやってきた。いろいろな資料もありますよ。きょうでも、いつでも、行けばスタートできるという気持ちです。岸田総理が『飯島やれ』って言ったら動きます。次の日朝首脳会談の日にちを決めることが私の仕事だと思っています。命令されたら1週間以内に日にちを取る。それぐらいの意気込みということです」

小泉訪朝から20年。拉致被害者の帰国を待ち望む家族の高齢化はいっそう進み、残された時間には限りがある。なんとか糸口を見いだしてほしい。
そう切に願いながら、今後も拉致問題の行方を取材し続けていきたい。
(文中一部敬称略 肩書きは当時)

政治部記者
大場 美歩
新聞社勤務の後、2010年に入局。長野局を経て2020年から政治部。厚生労働省で医療や年金を取材。2022年夏から官邸クラブ。飯島参与らを担当。
政治部記者
古垣 弘人
2010年入局。京都局を経て2015年に政治部へ。官邸クラブを経て、2018年から自民党の細田派、今の安倍派を担当。2021年から拉致問題を担当する「官房長官番」に。