くは見た、国の消滅を

10歳だった。
その時ぼくは、まだ「ソビエト連邦」だったモスクワにいた。
そこで見たのは、「国」というものが劇的に変化する瞬間だった――

外務省が公開した6000ページにのぼる外交文書。外交官たちの生々しい報告が、私をあの時代に連れ戻した。そして私は、何が起きていたのかを初めて実感した。
(渡辺信)

「空回り」

その書き出しは、文学的だった。

BUKSOVAT(空転する)。2年1か月のモスクワ在勤を終え帰国する日、空港の暗い待合室で搭乗を待ちながら、ふと、この単語が頭に浮かんだ。ゴルバチョフの始めたペレストロイカを、ひと言で総括するとすれば、まさに「空回りしている」というのが適当ではなかろうか』

1987年11月の「ソ連在勤を終えて」という報告書の冒頭だ。書いたのは、モスクワの日本大使館の政務班長だった角崎利夫氏。これまで私が読んできた硬い外交文書とは異なる表現で、1985年に書記長に就任したゴルバチョフが進めていたペレストロイカに対する厳しい見立てをしていた。

角崎氏は「一部の党幹部、学者らは主体的にペレストロイカに参加し、真剣にゴルバチョフの言う改革を追求している」とする一方、「一般大衆と言葉を交わせば、ペレストロイカの熱意が、水が砂を通るがごとく消えている現実にぶち当たる」と指摘している。

ここまで読み進めて、私は1984年から1987年まで過ごしたモスクワでのことを、思い出さずにはいられなかった――

10歳が見た「あの時」

どうして、ぼくがモスクワにいたかって?

教師だったお父さんが、モスクワ日本人学校に転勤したんだ。

これは向こうに行ってまもなく、お母さんと弟2人とで一緒に写った写真。向かって右端がぼくだ。
ソビエトでは兵隊を写真で撮ると怒られちゃうので、兵隊たちが後ろを向いている間に、お父さんが急いで撮った。

移り住んで1年後の1985年、ぼくが10歳の時に、ゴルバチョフという人が、54歳で書記長になった。

これは「ソビエト国営放送」が、革命記念日に赤の広場での軍事パレードの様子を中継した番組。

ぼくは、お父さんのカメラで夢中になって撮った。この人に、何かとても新しいものを感じたんだ。

というのも、お父さんや学校の先生から、「ゴルバチョフは、ペレストロイカ=改革と、グラスノスチ=情報公開という2本柱を掲げている」と聞かされていたから。あっちを向いてもペレストロイカ、こっちを向いてもペレストロイカ。

世の中が変わっていくさまは、ぼくにもはっきりとした肌感覚で伝わってきた。

「店のパンがいつも焼きたてでおいしくなった」
「アイスクリームの包装がカラフルになった」
「テレビでエアロビクスを放送した」
「車体に広告を付けたバスが走り始めた」
そういうことだ。

なかでもぼくたち家族にとって、いちばん大きな変化は「ロシアの人たちが、外国人との家族ぐるみの交流をためらわなくなったこと」だった。

そのころのモスクワでは、ぼくたち外国人は、監視付きの決められたアパートに住まわされていた。この写真、3つ並んだ高層アパートのうち、向かって左、一番奥の棟がそれだ。

地元の人たちが訪れることは、ほとんどなかった。でも、ゴルバチョフによって、社会の雰囲気が開かれた感じになってくると、お父さんの職場のロシア人の同僚がやってくるようになった。

お母さんにも友だちができた。リューバさんだ。

ボルシチの材料をいっぱい抱えてやってきて、作り方を教えてくれた。

ある日の夕方、お父さんの同僚のセルゲイさんが、自宅にぼくたちを招いてくれた。一家が暮らすアパートのエレベーターを降りると、薄暗いフロアで妻のガリーナさんが待っていた。

ガリーナさんは、近所の人の目を気にするように、人さし指を口にあてて「静かに」というしぐさをした。外国人を家に招くのは、まだハードルが高いのかな。そんな感じだった。

でも家の中では、自家製のトマトやジャガイモを使ったロシアの家庭料理が出てきた。地元の人たちの暮らしを実感できたのは、初めてだった!

ぼくの友達になったオレグ。セルゲイさんの息子だ。アコーディオンの腕前を披露してくれた。
年齢も近かったので、それ以来、お互いに行き来するようになった。
セルゲイさんは「ペレストロイカの時代なのだから、誰もとがめはしないよ」と言った。

不可能だったはずのことが

外交文書の話に戻る。
日本の外交官たちが、ソビエト社会の変化を記録した「ソ連内政ペーパー」という文書も公開された。

ファイルを読み進めていると、1988年1月の報告書が目にとまった。

濃霧でモスクワの空港が閉鎖され、多くの旅客機がレニングラード、現在のサンクトペテルブルクに目的地を変更した時のことだ。大勢の日本人乗客が、空港で一晩を過ごさざるを得なくなり、現地の日本総領事館が邦人保護の対応を行った。

『本官以下、全員が走り回って、邦人の世話に努力した。おなじみのソ連式非能率と無責任と手間のかかる折衝の中で、ペレストロイカの御利益を痛感したのは、アエロフロート(注:ソビエトの国営航空)側が(結果的には)我が方の要求に応じる形で、レニングラード・東京間の直行便を出してくれたことと、

オスロの女子レスリング世界大会に参加する日本選手チームのために骨を折ってくれて、結局、エントリーに間に合うよう計らってくれたことの2つであり、以前には不可能に近い注文をこなしてくれた』

こうした緊急時の対応にも、ペレストロイカによるソビエト社会の変化を見いだしていたことがわかる。

「原発がたいへんなことに!」

ゴルバチョフ時代の最大の悲劇は、1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故ではないだろうか。

11歳になっていたぼくは、あの時のことを鮮明に覚えている。

「原発が大変なことになっている!」と教えてくれたのは、モスクワ日本人学校の同級生だった。新聞社の特派員である彼のお父さんから聞いたらしい。「はだしのゲン」を読んでいたぼくは、「大丈夫なのかな」と怖くなった。もちろん、原爆と原発事故は違うものだが、当時のぼくにはよく分からなかったし、とにかく大量の放射性物質が飛び散るなどすれば、体への影響が起こり得ることだけは大人からも聞いて分かっていた。

でも…ソビエト国営放送のニュース番組では、いつまでたっても十分な情報は放送されなかった。

そんな時、モスクワに住んでいる日本人に、日本から空輸された牛乳が配られた。ぼくは、何だかありがたい気持ちで飲んだことを覚えている。

この国は嫌いじゃなかったけど、翌年、日本に帰国した時には、心底ほっとした。

ミルクが配られた理由と、情報公開の限界

なぜ、日本人に牛乳が配られたのか。
今回、私はその理由になったかも知れない外交文書に接することができた。

事故からおよそ2週間後の5月9日付で、外務省ソ連課が作成した報告書だ。この事故に関するソビエト政府の情報公開の姿勢を分析している。

『ゴルバチョフ書記長が強力に推進してきた「情報公開」とは、停滞したソ連の経済社会を活性化するための、現状に対する率直な批判の過程で、人々に言いたいことを言わせ、やる気を起こさせるのが狙いであって、国内での事故を対象としたものではない』

『ソ連の対応の遅れは、少なくとも外交スタイルの面だけでも、従来と異なった“新鮮さ”と“柔軟さ”を印象づけてきたゴルバチョフ政権にとって、大きなイメージダウンだ』

『大きな影響を被るのは、ミルク、畜産である。特に牛は、いずれ汚染された牧草を食べることとなるであろうから、汚染地域の程度や広さ如何によっては深刻な問題となろう』

この報告書が功を奏し、牛乳が配られることになったのではないか。

事故直後の1986年5月1日、ソビエト各地で、市民によるメーデーのパレードが行われた。

ニュース番組でも放送され、事故が起きたチェルノブイリ原発があるウクライナ共和国のキエフも映し出された。そこでは、ほかの街と同じように市民が行進していた。

外交文書には「ソ連の巨大な国家官僚機構においては、“事故”のたぐいの出来事の責任は局部的に処理されるのが通例である。直後のメーデーの行事が、あたかも事故がなかったかの如くに行われたのもその一例である」と書かれていた。

「ゴの危うさ」指摘する首脳たち

ゴルバチョフの改革の行方には世界が注目していた。1988年6月、カナダのトロントでのサミットの際に行われた夕食会合でのやり取りが、公開された記録に含まれている。

アメリカ/レーガン大統領
『ゴルバチョフは経済改革を推進せんとしているが、官僚の抵抗は大きく、政治改革にも限界があろう。中央委が、いつでも「ゴ」をクビにする可能性があるような体制であることは、念頭に置いておくべき』

西ドイツ/コール首相
『「ゴ」としては、改革を進めるか失敗するかのいずれしかなく、成功のためには、いかにバランスをとりつつ段階的に進めるかがポイント』

日本/竹下首相
『残念ながら、実態としては、アジアに対してはペレストロイカもグラスノスチもない。日ソ間には両国関係の根幹に関わる北方領土問題があり、ソ連は北方領土への軍備強化を行っている』

フランス/ミッテラン大統領
『ゴルバチョフは国内で批判されていることを忘れてはならない。米欧が東欧に対しソ連から離反せよと求めても、それは無理であり、また、仮に強行すれば、「ゴ」の足元をすくい、軍部の介入、戦争へと発展しかねない』

ゴルバチョフの改革にほころびが見え始めたことを、当時の西側首脳は見抜いていた。

そしてこの3年後、首脳たちが懸念していた事態が、現実のものとなった。

クーデター未遂事件

1991年8月19日、ソビエト共産党保守派によるクーデター未遂事件が発生。ソビエトを構成する民族共和国が、それぞれ独立する動きを強めたことを受けて、ゴルバチョフの改革は行き過ぎだと、危機感を抱いた保守派が、彼を軟禁したのだ。

しかし、ロシア共和国のエリツィン大統領をはじめ、数万人の市民が抵抗のために立ち上がり、クーデターの試みは3日間で失敗に終わった。

ただ、解放されてモスクワの空港に降り立ったゴルバチョフの疲れた姿は、ソビエトが終焉に向かっていることを印象づけた。

17歳が見た「消滅」

この事件の4か月後、17歳の僕は、再びモスクワに降り立った。

高校の課題リポートを作成するため…というのは表向きの理由で、どうしてもこの国の「激動」を自分の目で見たかったからだ。「内戦が起きるかもしれない」と心配されたけど、10日間だけでいいからと、認めてもらった。

驚いたことに、「マクドナルド1号店」がそこにあった。ペレストロイカの産物だろう。

「いらっしゃいませ」
店員さんのほうからサービスしようなんて意識、以前のソビエトには全然なかったよ!

味は…日本で食べるのと同じだ。でもちょっとパンが、もさっとしてるかな。感動して、思わずトレーの上に敷かれた紙のシートを持って帰った。

マクドナルドのマークと一緒にソビエトのマークがついているシートなんて、もうどこでも手に入らないレアものじゃないだろうか。これは今でも大切に保管している。

そのあと、国営商店に行ってみた。すると…あのペレストロイカの活気はどこへやら。モノが全然無い!

食べ物からメガネまで…深刻な物不足に陥っていると一目でわかった。店の人も、なんだか殺気だっているようだった。

僕は、友達のオレグにも会いに行った。

実はセルゲイさん一家も、クーデターに抵抗するデモに参加していたという。

オレグは、KGBの創設者ジェルジンスキーの像を引き倒すのに参加したと得意げに話し、その台座の破片を見せてくれた。

ソビエト共産党の少年団で、何度も表彰されていたエリートのオレグが、そんな行動をとったことに驚いた。

滞在中、セルゲイさんは、クーデターに反対する人たちがバリケードを築いて抵抗の拠点としたロシア最高会議ビルに案内してくれた。

そこには、バリケードの残骸が、まだ残されたままだった。

セルゲイさんは、外国メディアのインタビューで、クーデター反対の意見を堂々と述べていた。「自由がなかった時代に戻りたくない」その一心だったという。

学校に提出するためのレポートに、僕は「彼らは、自信に満ちあふれた表情をしていた。そのとき、今まで静まりかえっていた周囲に、あの時のテレビの中の市民の叫びが聞こえてくるような気がした」と書いた。

帰国を翌日に控えた12月21日、セルゲイさんの家で朝食をごちそうになっていた時、ラジオからニュースが流れてきた。

「ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3共和国に加えて、カザフやウズベクなど8つの共和国も加えて、CIS(独立国家共同体)を創設する協定が調印される」のだという。

セルゲイさんは「ソビエトは、これで完全に消滅する。ソビエトのシンボルが、どんどん取り外されていくだろう。記念写真を撮るために街を歩こう」と誘った。

そして、続けた。
「見てごらん。窓の外の景色はきのうと同じだが、国は消えてしまう」

僕は、不思議な気持ちがした。冬の朝は、まだ薄暗く、窓の外の街には雪が降っていた。バス停に並ぶ人々や黄色い連結バスが行き交う様子は、たしかにきのうと変わらなかった。

街に出ると、ソビエトの国旗を売っている人がいた。ひとつの国が、消える。そうか、この光景は、それを意味していたんだ。

日本に戻って3日後、クリスマスの12月25日。テレビには、クレムリンのソビエト国旗が引き降ろされる様子が流れていた――

ペレストロイカは、何をもたらしたのか

時は流れて2015年9月、私はNHK政治部の外務省担当記者となり、日ロ外相会談を取材した。

そのあと、母にボルシチの作り方を教えてくれたリューバさんに会った。彼女の娘も一緒だった。

赤の広場の石畳を踏みしめながら、リューバさんが話した。

「当時、外国人の家に行くのは、本当は、かなり勇気のいることだった。娯楽の少なかったソビエト時代だったから、まるでお祭りのような出来事だった。ペレストロイカのおかげだったと思う。社会の秩序があったソビエト時代の方が、今よりも良かったと思うことはあるけど」

音信が途絶えていたセルゲイさん一家の消息もわかった。

2018年1月のロシアの地方紙「ノーバヤ・ジーズニ(新しい暮らし)」の電子版に、地元のお年寄りに思い出話を聴くコーナーがあり、セルゲイさんのインタビューと、写真が掲載されていたのを見つけた。

向かって右がセルゲイさんだ。彼は記事の中で、ペレストロイカの時代について「マルボロ、コカコーラ、ドル紙幣、チューインガム、粗悪な輸入品の衣類がたくさん入ってきた。いたるところに億万長者や盗賊がいた」などと皮肉っぽく振り返っていた。

一方、セルゲイさんは、日本人との交流についても語っていた。

「彼らに、本当のロシア人の生活を見せてあげたんだ」とインタビューに答えていた。それは明らかに、私たちの家族との交流のことだった。

今回、公開された外交文書の中で、「空回りしている」と表現されたゴルバチョフのペレストロイカ。

しかし、空回りしながらも、歴史の大きな渦を作り出し、セルゲイさんやリューバさんたち市民を飲み込んでいった。人々は、その渦に巻き込まれながらも、やがて自由に発言し、自分たちの力で体制を転換させるところまで行き着いた。

ペレストロイカとは何だったのか。

それはヨーロッパを東西に分断していた「鉄のカーテン」を消滅させただけではない。
間違いなくロシアの人々の心の扉も開き、今につながっている。
10歳の、そして17歳の私は、あの時、確かにそれを見たのだ。

政治部記者
渡辺 信
2004年入局。釧路局、サハリン、仙台局、福島局でも勤務。現在は政治部で外務省担当。