THE RAMPAGE 浦川翔平が見つめる長崎原爆
- 2023年08月04日
長崎に原爆が投下されてから、ことしで78年。
被爆地では被爆者の高齢化が進み、いかに若い世代に被爆体験を伝えていくのか、
記憶の継承が課題となっています。
こうした中、人気ダンスボーカルグループ
「THE RAMPAGE」のメンバーで
長崎市出身の浦川翔平さんが地元・長崎で原爆と向き合う姿を取材しました。
(記者 小島萌衣)
原爆との距離感
長崎市出身の浦川翔平さん、26歳。
人気ダンスボーカルグループ「THE RAMPAGE」のパフォーマーとして活躍し、長崎市の観光大使も務めています。
長崎市で生まれ育った浦川さんは被爆地の平和教育を受けて育ちました。
原爆は身近なトピックだったといいます。
自分が生活していたのが本当に爆心地の近くだったんですけど、福岡に毎週ダンスで通うときも松山の電停から乗ってましたし。その電停の向こうは爆心地。
本当にスローガンのように言ってたのが、原爆を風化させないって。『風化』っていうことばって、余りなじみがない、たぶん、原爆の勉強をしてなかったら、自分は知らないことばだったと思う。でも、それがこんなに焼き付いてるってことは、何回も被爆者の方だったり、学習ですり込んでいただいたので。
その後、高校の時に芸能活動のため上京した浦川さん。
東京では、長崎では当たり前だった光景が見られず、驚いたといいます。
東京に行ってびっくりしたのは、誰も黙とうしてないって。8月9日11時2分に、いつも長崎だったら登校日を設けられて、そこで学校に行ってみんなで集会で被爆者の亡くなられた方々に黙とうするっていうのが毎年のルーティーンだったので。東京ではテレビで放送はしてるけど、周りの人たちは何も、やっぱり違う世界の話だってくらい関心がない感じは、こんなに違うんだっていうギャップは感じました。
浦川さん自身も、長崎を離れて10年もたつ中で、「当たり前」のできごとがない生活が日常になりました。そして今回、浦川さんはあらためて原爆の歴史に向き合いたいと、長崎を訪れました。
91歳の被爆者から聞く生々しい被爆体験
浦川さんがまず、訪れたのは、被爆者の丸田和男さん、91歳。
丸田さんは13歳の時に爆心地から1点3キロの銭座町にあった自宅で被爆。
倒れてきた家の下敷きになり、大けがを負いましたが一命を取り留めました。
しかし、避難した先で丸田さんが見た光景は地獄だったといいます。
僕みたいにガラスでけがをした人、それから原爆特有の熱線によるやけどを負った。それから、すでに息絶えた人。それにすがって泣き叫ぶ家族の悲鳴ですね。
本当にこの世の地獄の様相を呈していた。
浦川さんは質問を重ねました。
当時の傷は今も残っているんですか?
見せようかね。当時はパカッと口が開いてたくさん血が出てたんですな。
このような傷痕が背中に50か所くらいあるわけですな。
腕に残る傷を見せてくれた丸田さん。
生々しく残る傷跡に、浦川さんは息を飲みました。
丸田さんから対面で話を聞いた浦川さんは、子どもの頃と、26歳になった今とでは、被爆体験の受け止め方に違いを感じたと言います。
子どもの時はあまり現実味を帯びてなかったと言いますか、こんなことあったんだ、みたいな漠然としたイメージしかなかったので。改めて今、26歳になって丸田さんの話を聞いたときに、より具現化されてリアルに聞こえたと言いますか。
さらに、浦川さんは、丸田さんが被爆した場所の近くを案内してもらいました。
そこは、長崎市内の大型商業施設の近く。
浦川さんにとっては、子どもの頃にゲームをやりに来たり、フードコートにご飯を食べに来たりした、なじみ深い場所の1つです。
当時、この場所にあったのは「三菱長崎製鋼所第4工場」。いわゆる軍需工場です。
この地域には当時、こうした軍需工場が集まっていて、丸田さんが通っていた中学校の先輩たちが動員され、多くの人が命を失いました。
戦争は、人類の愚かな行為だとしか言えないですな。
『長崎を最後の被爆地に』これを原爆に遭った人間として訴え続けることは、これは生き残った者の義務であり、全人類に対する義務だと思っています。
丸田さんの話を聞いた浦川さんは、身近な場所に軍需現場があったことに驚きつつ、うなずきながら、その話を聞いていました。
自分の当たり前の日常の場所だったんですけど、それが、軍需工場という場所が昔あったという、この情報を知らずにいたので、すごく恥ずかしい気持ちになりつつ、昔と違って復興して今、こうやってココウォークのような建物ができていってる、ポジティブな状況ではありつつも、やっぱり昔にそういうことがあったっていう知識を踏まえているだけで、全然違うのかなっていう意識の在り方が全然違うのかなと思った。
「伝え方」の新しい視点
次に浦川さんが尋ねたのは被爆者の小川忠義さん。
小川さんは写真を使って平和について考える活動を続けています。
小川さんの部屋の1室に一面に展示されていたのは、
「8月9日の午前11時2分」、
長崎の上空で原爆がさく裂した時間に合わせて撮られた写真です。
うわ、すげえ!こんなにいっぱい撮ったんですか?去年?
これらの写真は、原爆が奪った日常の大切さについて考えて欲しいという小川さんの呼びかけに応えて、送られてきたものです。
写真を食い入るように見つめる浦川さんに対して
小川さんは、この日の「午前11時2分」の写真を撮ってみないかと提案しました。
11時2分です。
どんな写真を撮ったらいいかとかありますか?
本当に、その日、その時ですね、自分がいるところで撮ってもらっていいんですよ。
日常が一瞬にして1945年8月9日にはなくなってしまったっていう思いをはせて撮ってくださいって。写真を撮ることは黙とうと同じと考えて皆さんにお願いしています。
浦川さんが撮ったのは、小川さんの窓から爆心地の方向を撮った写真。
長崎特有の、坂に連なっている家って、これを見ただけで、あ、長崎かなってなりますし、やっぱりキーは爆心地に向かって写真を撮ってるっていうのと、11時2分の空、この1枚だけで意味がありますよね。
“11時2分を撮る”というアイデアは、浦川さんにとっては新たな発見になったといいます。
原爆というトピックがすごい重いにも関わらず、写真っていうライトな、いつでも日常に溶け込んでいるようなもので、数分あれば撮ってそれを世界に届けられるっていうその方法というのが今まで知らなかったので、現代にあってる広め方だとすごく感じました。
この日、2人の被爆者と出会った浦川さん。原爆への思いを新たにする時間となりました。
風化させないっていうこの思いというのを後世につないでいかなきゃっていう気持ちはすごく強いかもしれないですね。アーティストとしても、そこから発信していくことが長崎人として生まれた使命かなと思いますね。
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