長崎発 被爆者合唱団「ひまわり」最後の合唱とその後
- 2022年10月14日

被爆者だけでつくる合唱団「被爆者歌う会『ひまわり』」。
合唱団の一番の舞台は長崎原爆の日の平和祈念式典。
平和への思いを「歌」に乗せて世界に向けて訴えてきました。
しかし、メンバーの高齢化が進む中、合唱団はことしが最後の参加と決めました。
そして、8月9日。
メンバーたちはそれぞれの思いを胸に、最後の舞台に臨みました。
NHK長崎放送局 記者 小島萌衣
ひまわりの花のように上を向こう

2004年。
合唱団「被爆者歌う会『ひまわり』」は設立。
太陽に向いて咲くひまわりのように「上を向いてゆこう」。
さまざまな困難を生き抜いた被爆者たちの思いから名付けられました。
そして、6年後の2010年。会は大きな転機を迎えます。
「平和祈念式典で歌いたい」。
その願いが叶えられ、市から式典での合唱が認められたのです。
それ以降、毎年、式典で歌が披露されてきました。
メンバーは全員が被爆者。
1人1人がそれぞれの思いを抱えて参加していました。
最高齢の歌い手の被爆体験
最高齢のメンバーの宇木和美さん、(当時)89歳です。

宇木和美さん
「精いっぱい大きな声を出して、みんなと一緒に頑張って私たちの気持ちを伝えたい」
宇木さんは12歳の時、爆心地から4点2キロ離れた、現在の長崎市下町の自宅で被爆しました。

当時、県立高等女学校の1年生だった宇木さんは、夏休みにあわせて家族の疎開先の島原にいました。
しかし、1945年8月9日は夏休みの登校日。
どうしても友達に会いたかった宇木さんは、家族が止めるのも聞かず、反対を振り切って、登校日前日の8月8日に長崎に戻りました。
宇木和美さん
「私はどうしても帰りたくて、『絶対帰る』って。それで、もう母が『勝手にしなさい』と言ってしまいには投げ出しちゃって。母はお金もくれなかったから、お小遣いの入った貯金箱から切符代を出して。当時は1日に6、7枚しか切符が出なかったから、買うためには朝一番に駅に行かないといけなくて。だから、朝5時ごろかな、夜明けとともに起きて駅に行って、1人で黙って座って待って。そして、一番先に切符を買って、意気揚々として長崎に帰ったんですね」

そして、8月9日。
せっかくの登校日でしたが、2時間目に空襲警報が鳴り、宇木さんたちは急いで帰宅しました。
ようやく家について、2階で着替えを済ませると、突然、窓の外が真っ白くなり、ものすごい風が家の中に入ってきたといいます。
宇木和美さん
「家に爆弾が落ちたんだと思ったんですね。あまりにガラスの割れ方がひどくて、風圧がひどかったから、もう逃げることに精いっぱいで。家はガラスの破片とか、欄間なんかもおちて、家具もなんか、もう、家の中はめちゃくちゃですよね」
幸いけがのなかった宇木さんは、その晩は防空ごうで過ごし、翌日、迎えに来た父とともに、電車に乗ろうと道ノ尾駅に向かいました。

その途中、焼け野原と化した爆心地周辺を通ったところ、黒焦げになった女性が子どもを抱いて横たわっていました。
そうした凄惨な光景は今でも忘れられないといいます。
宇木和美さん
「寝るとね、焼け跡の亡くなった人とかが夢の中に出てくるんですよ。浦上駅を通り過ぎると亡骸がね、それも、黒く焼けた亡骸が地面に転がって、横たわっていましたね。大橋の橋のたもとの所に、線路のすぐそばに、小さい子どもを抱いたお母さんが横たわっていて。もう、それを見たらかわいそうで、もう2度と戦争はしてはいけないと、その時に心から思ったんですね」
被爆後、宇木さんは夢にまで出てきたものを思い出したくないと、意識して被爆体験を忘れようとしていたといいます。
結婚して夫の転勤とともに県外に移り住んだ宇木さん。
夫の定年退職に合わせて長崎に戻ってきたときには60歳を過ぎていました。
きっかけは新聞広告
そのころの宇木さんは被爆者運動は知っていたものの、自分とは縁がないもののように感じていました。
そんな宇木さんが「ひまわり」に参加したきっかけはたまたま目にした新聞広告でした。70代を迎えて「自分は被爆者として大切なことをやり残している」という思いが強まったという宇木さん。広告を見て「ひまわり」への参加を決意しました。
宇木和美さん
「みんなが亡くなっていったのをしっかり見ているのに、(私は自分の被爆体験を)ひと言もみんなにお話ししたことがない。これはやっぱり無責任じゃないかと思ったんですね。自分が本当に核兵器反対とか、二度と戦争をしたらいけないって思うのは、人に伝えてこそ初めて、思ってることになるんじゃないかなって、そのときに思ったんです」
コロナ禍でメンバー激減
順調に活動していた「ひまわり」。
しかし、大きな転機を迎えます。新型コロナウイルスの感染拡大です。
メンバーは全員が高齢者。活動は2年にわたって休止に追い込まれました。

そして、去年、おととしの平和祈念式典への参加は辞退。
その間、メンバーは3分の1の11人にまで減り、機運はしぼんでいきました。
宇木和美さん
「2年間のブランクがあって、声の声量が落ちている。やっぱりみんなと歌いたいと思いましたね。だけど、こればっかりはどうしようもない。みんなどうしてるのかなと思っていました」
平和祈念式典での合唱はことしが最後
ことしの春。
今後のことを話し合ったメンバーたちが出した結論は「会としての式典への参加はことしで最後にする」でした。

そして、迎えたことしの長崎原爆の日。
メンバーたちはひまわりの花を胸に、核兵器廃絶や平和への願いを込めた歌声を披露しました。77年前の悲劇を絶対に繰り返してはならない。
最後の式典での舞台を終えたメンバーたちは、晴れやかな顔をしていました。

田崎禎子会長
田崎禎子さん
「歌詞が届くようにという一心で、亡くなってこの場所で歌えなかった仲間たちの分も
頑張って歌いました。今日で最後だと思うと寂しいです」

宇木和美さん
「長い間歌ってきたので最後に式典で歌うことができて嬉しい。
戦争は絶対にいけない。戦争や核兵器は繰り返してはいけないと、これからも若い人に伝えていかなければならない」
ことし90歳となる宇木さんは、この舞台を最後に「ひまわり」の活動を引退しました。
『ひまわり』のその後
原爆の日の式典を歌いきったメンバーたち。
式典のあとの最初の練習に集まったのは7人。
メンバーたちは、今後の活動について話し合いました。
そして出した結論は、「被爆者以外の人たちも加えて再出発」。
平和を歌い継ぐ取り組みは、新たな形で続くことになりました。
田崎禎子さん
「メンバーがだんだんと少なくなって心細くなっていますので、若い方にたくさん
入っていただいて、平和・核兵器廃絶というそういう目的を若い人たちにも
引き継いでもらいたいですし、被爆者としてもその中で頑張っていきたいと
思っています。平和に対する気持ちを引き継いでいって欲しいという願いを込めて
若い人たちと一緒に歌っていきたいです」
平和への思いを受け継いでいこうと、メンバーは絶賛募集中です。
(取材後記)
幕を閉じる「被爆者歌う会『ひまわり』」は被爆者だけで作る合唱団としてメディアに注目されてきました。
ですが、メンバーたちは、もともと被爆者として平和活動をしてきた経歴がある人ばかりではなく、どこにでもいそうな『普通』の人たちでした。
新聞広告をきっかけに参加した宇木さんのように、きっかけは案外すぐ近くにあるのかもしれません。
平和への思いを胸の内にとどめず、一歩踏み出してみてはいかがでしょうか?