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長崎 令和の被爆者証言 朝長万左男さん"ウィーンで訴えたい"

  • 2022年05月19日

令和の被爆者証言シリーズ、初回は被爆者で医師の朝長万左男さんです。ウクライナ情勢をめぐり核戦争の危機も叫ばれる中、ことし6月にウィーンで開かれる、核兵器禁止条約の初会議への参加に意欲を示す朝長さんに聞きました。

                長崎放送局 小島萌衣

朝長万左男さんの被爆体験

朝長さんは1943年6月、長崎市で生まれ、2歳2か月の時、爆心地から2点5キロ離れた中町の自宅で、被爆しました。幼かった朝長さんに被爆当時の記憶はありませんが、母親から聞かされた8月9日の被爆体験はしっかりと胸に刻んでいます。

朝長万左男さん
「2階建ての2階に住んでいて、そこが半壊というか。家がぐっちゃりなって、母親がそこから私を引っ張り出してね。幸い母親も顔にちょっとした軽いやけどをしたくらいで、私も梁(はり)にはさまれずに無傷だったので、ラッキーだったんですね」

朝長さんは前日の8日、40度の熱を出して、長崎大学病院を受診していました。長崎大学病院は原爆投下で壊滅的な被害を受けました。朝長さんは、発熱日が1日違っていたら、自分が重傷を負っていたのではないかと振り返ります。

 

浦上天主堂

朝長さんが強く覚えている記憶があります。
それは4~5歳のとき、医師だった父・正允さんの往診に一緒についていったときの記憶です。正允さんは、みずからも被爆しながら被爆者の救護にあたった永井隆博士の主治医でした。

朝長万左男さん
「永井隆先生が白血病にかかって如己堂で伏せっていたんですね。そこに、父が月に1回くらい往診に行っていたので、それに何回かついて行ったことがあって。そのときに浦上天主堂の前を歩いて、それから如己堂に行くんですよ。そのとき、浦上天主堂は被爆して崩れたままで、あれは子ども心に非常に恐ろしかったですね、その前を通る時は」

医学の道を志す

朝長さんは、父・正允さんの仕事の都合で、高校2年生からの2年間をもう一つの被爆地、広島で過ごします。その頃、白血病を発症する被爆者が増えていて、朝長さんの同世代でも白血病の患者が増えていったと言います。原爆の後遺症が見られなかったという朝長さんも、恐怖を覚えたといいます。

朝長万左男さん
「高校生になって、自分の世代から白血病が続いて出ていました。そのころは、放射線がどのくらい自分の体にあたったかについて全く知識はないんですけど、ひょっとしたら自分も白血病になるかもしれないということで恐怖が芽生えました

どうして原爆で白血病が起きるのか。

同世代の白血病患者が増える中、朝長さんは、強烈な疑問を抱いたと言います。被爆者の白血病の治療に当たっていた父の影響もあり、医学の道を志しました。

長崎に戻って大学に進学した朝長さんは、1968年に長崎大学の医学部を卒業します。医師の道を踏み出す中、研究のテーマに選んだのは、原爆が引き起こす白血病です。

それは、「終わりが見通せない研究」の始まりでした。

朝長万左男さん
「がんが生涯にわたって被爆者では発生し続けるんですね。そして、10年くらいたつと、白血病じゃなくて、普通のがんが出だしたんですね、被爆者にですね。いろんな臓器のがんが。原爆の研究をしようと思ってこの世界に入ってきたんだけどね。最初は、途中で研究は終わるんじゃないかと思っていましたけど、逆に、終わることができなくて。ずっと今も続いているわけですよ。これはやっぱり、原爆被爆者の方の体が、そういう風に運命づけられたことが根底にあると思うんですよね」

核兵器廃絶運動に参加

医師として白血病と向き合う中で、朝長さんは1980年代に核兵器廃絶運動に踏み出します。

右端が朝長さん

当時の世界情勢は、核大国のアメリカとソビエト連邦が冷戦を続いていました。朝長さんは、被爆者として、医師として、このまま人類が核兵器を持ち続けることに危機感を抱いたといいます。

2013年 核兵器の人道的影響に関する会議

朝長さんはおよそ40年にわたる研究で、原爆が引き起こす白血病の分野で世界的な権威になっていました。そして朝長さんは、外国政府が主催する核兵器に関する会議で発言を求められるなど、原爆が人体に与える深刻な影響などについて、国際舞台で訴えるようになりました。

国内でも、核兵器禁止条約の実現に向けて県内の被爆者団体とともに署名活動に乗り出します。

2016年 ヒバクシャ国際署名の活動

2017年には被爆者の切実な思いが実り、核兵器の開発や保有、使用を初めて法的に禁止する核兵器禁止条約が国連で採択されました。

条約が採択されたことについて、朝長さんは当時のNHKの取材に対して、核軍縮への期待を込めて次のように話していました。

朝長万左男
「感動しています。条約の成立によって、新しいステージに入ると思うんですね。相当、今後、核軍縮が、核兵器国側もしなければならないというプレッシャーですね、これは大きなものになっていくと思うんですね」

条約の初めての締約国会議を控えたことし2月。ロシアは突然ウクライナへの軍事侵攻を始め、世界は核戦争の危機が叫ばれる事態に直面しています。核軍縮への逆風が吹き荒れています。

朝長さんはことし6月、オーストリアの首都ウィーンで開かれる、核兵器禁止条約の初の締約国会議への参加に意欲を示しています。朝長さんは、今こそ、被爆者として、医師として、目の当たりにしてきた核兵器の非人道性と核兵器廃絶に向けた思いを国際社会に向けて訴えたい考えです。

朝長万左男さん
「我々被爆者が長年、核禁条約を成立させるのに、被爆体験を中心に世界の人たちに対してね、証言をしてきましたよね。これはもうずっと70年近くやられてきたことなんですよね。逆に言えば同じことをずっとくり返してるわけですよ。それはなぜかというと、次々に新しい世代が生まれてくるから、核兵器の被害はこういうものですよと繰り返し言わないといけないわけですよ。(核兵器国の)国民レベルに核兵器の非人道性をしっかり話していくようなことをやったらどうかと。もしウィーンで発言の機会があれば、やりたいと思っている」

取材後記

被爆者であり、医師として原爆がもたらす被爆者の苦しみを目の当たりにしてきた朝長さんの話はなぜ被爆者が核兵器廃絶を訴えるのかを改めて考えさせられました。
核兵器に対抗するには核の力が必要。そんな、核抑止論が高まっているように感じられる世界情勢です。一見合理的な考え方に見えるかもしれませんが、では、その核兵器は77年前、長崎と広島に何をもたらしたのでしょうか。
なぜ、核兵器は非人道的と言われるのか。核兵器が使われて77年たっても、まだ残るその傷痕に、被爆者の訴えに、改めて考えてみてはいかがでしょうか。

  • 小島萌衣

    NHK長崎放送局 記者

    小島萌衣

    平成27年入局 沖縄局、佐世保支局を経て
     現在は長崎局で 原爆・平和関連の取材担当

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