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松山の精鋭部隊 “勇士”の素顔を追って

  • 2023年08月25日

太平洋戦争の終戦間際、四国の上空でアメリカ軍機と激しく交戦し、 墜落した旧日本軍の航空機がありました。

最後の通信は「ワレ突入ス」。 
アメリカ軍機に体当たりして20代の3人が犠牲になったと伝えられています。

 “勇士”として語り継がれてきた3人の若者。このうちの1人の遺族が、3人の生前の様子を調べています。知りたかったのは、若者としての等身大の姿でした。

(NHK松山放送局 清水 瑶平)

山中にたたずむ“三魂之塔”

四国カルストに近い、高知県津野町。 
県道沿いに山を少し登ると、「三魂之塔」と刻まれた慰霊碑が ひっそりとたたずんでいます。

熊本県出身・高田満。愛媛県出身・影浦博。長野県出身・遠藤稔。 

この周辺に墜落して亡くなった旧日本海軍航空隊の3人を悼んで、 地元の人が建てたものです。

8月、慰霊碑を訪ねた影浦弘司さん(50)。 
影浦博さんの「いとこの孫」にあたる、親族です。
博さんたちのことを詳しく知りたいと考えていました。

影浦弘司さん

「みんな20代で、故郷を守るために戦ったんでしょうけれど、すごく無念だったんじゃないか。自分の親族だったということもあって、その本当の気持ちを知りたいという部分があります」

精鋭部隊 “勇士”として伝えられる最期

3人が所属していたのは、松山市に基地があった第三四三海軍航空隊でした。
「本土防衛の切り札」と言われた精鋭部隊で、 全国から腕利きのパイロットが集められて結成されたといいます。

影浦博さん

偵察部隊の電信員として影浦さんが乗っていたのは、 当時の日本で最速といわれた偵察機、「彩雲」でした。

「彩雲」

78年前の昭和20年3月。 
3人が乗った「彩雲」は、四国上空で当時の軍港都市・呉に向かうアメリカ軍機を発見。
これを皮切りに、部隊から次々に航空機が飛び立ち、激しい戦闘となります。

旧日本軍の記録

旧日本軍の記録や元隊員らの手記によると、戦闘中、「彩雲」にエンジントラブルが起き、アメリカ軍機から激しい攻撃を受けたといいます。

最後の通信は「ワレ突入ス」。
アメリカ軍機に体当たりして墜落し、「壮絶な最期を遂げた」と伝えられています。

若者たちは何を夢見たのか

影浦弘司さんは7年前、この空中戦に興味を持って調べているとき、 偶然、親族が戦死していたことを知りました。 

国のために勇敢に戦った、“勇士”としての姿だけが伝えられていたことに 違和感を感じました。

博さんがどのような若者だったのか。そしてどのような夢を抱いていたのか。犠牲になった若者の等身大の姿を知りたいと思うようになりました。

影浦弘司さん
「平和が大事だとか、戦争が悲惨であるということ、それを自分の言葉として受け止めて捉えられるようになるためには、語れなかった彼らの声やどのような夢を見ていたのか、そういうものを知らなければならないと思います」

家族への愛があふれていた操縦士

関係者への聞き取りや記録の調査からは、 博さんの詳しい人となりはわかりませんでした。 手がかりを求め、影浦さんが訪れたのは長野県大町市です。

訪ねたのは遠藤久さん(63)。
博さんと一緒に「彩雲」に乗っていた遠藤稔さんの「おい」にあたります。
同乗者の遺族を探し出し、話を聞こうと考えたのです。

遠藤稔さん

稔さんは操縦士で、博さんと同じ21歳で亡くなりました。
家族あてのたくさんの手紙が残されていました。

「母上様、その後いかがですか。多忙を極めておられることと思います」 
「蚕も相当忙しくなってきたと思いますが、体に気をつけてお働きください」

4歳下の妹(久さんの母)とは特に仲がよかったことが伺えました。

「二学期、成績拝見したが見事だ。俺の小学校時代に比べたら恥ずかしい次第だよ」
「お金がほしかったらいつでも兄のところへ言ってよこしてくれ。 
 父にも母にもないしょで送ってやるから」

置き手紙は、検閲を受けていないため、こんな記述もありました。

「兄はただいま、日本でも世界でも一番速い彩雲という飛行機に乗っているよ。これは誰にも言うな」

影浦さんは手紙を読んだあと、遠藤さんにこう尋ねました。

「稔さんって、夢は何だったんでしょうね」

「何だったんだろうね。本当は故郷に帰って、家族と一緒に暮らしたい。それが夢だったんじゃないかな」

教員を目指していた機長

さらに影浦さんは、もう1人の同乗者の遺族のもとへも向かいました。
熊本県天草市の高田賢治さん(90)。
「彩雲」の機長だった、高田満さんのいとこにあたります。

高田満さん

高田さんは軍に入る前に師範学校に通っていて、教員になるのが夢でした。 
「戦争が終わったら東京へ行って教員になる」
 そう、家族にも伝えていたといいます。

南方の島で撮った写真には、 現地の子どもと仲がよさそうに写っていました。

高田賢治さん

満さんは亡くなる直前に一時里帰りをして、賢治さんにこう言い残したといいます。

「『ケン、あとは頼むぞ』って言ったんです。私は国民学校の6年生ぐらいで、何を言っているんだろうか、と思いました。その1週間後、亡くなりました」

記録だけでは見えなかった、犠牲になった若者たちの素顔。
影浦さんは、そこから博さんのことも少しずつイメージできるようになったと感じています。

影浦さん
「教員になりたかった機長さんであるとか、家族思いの操縦士の方であるとか、いろいろな夢、こういう世界で活躍したい、という思いがある人たちが、大きな時代の流れの中で亡くなっていった。そういうことを僕らが知るというのが、とても大切なのかなと思います」

伝え続けていく“責務”

影浦さんは、こうした聞き取りでわかったことについて、インターネットでの発信を行っています。

「戦争当事者に近い人たちがどんどん亡くなっていく中で、伝えていくことは難しくなってるかもしれないんですけれども、それを聞いた者として伝え続ける責務があるんじゃないかと思います。そういうことから平和の大切さというものに絶えずアプローチし続けていくという姿勢が大切なんだろうなと思います」

取材を終えて

影浦さんとともに全国各地を回るなかで、遺族の証言や手紙などの遺品から、若者たちの人となりが少しずつ、それでも確かな実感を伴って見えてきました。
国のために犠牲となった“勇士”としての姿だけを語り継ぐのではなく、彼らが抱いた夢や実像を知ることが、戦争の悲惨さや理不尽さを伝えることにつながると思います。
終戦から78年。
戦争の記憶が風化していく中、犠牲となった1人1人の姿を伝えていくことが大切だと強く感じました。

  • 清水瑶平

    清水瑶平

    2008年入局、初任地は熊本。その後社会部で災害報道、スポーツニュースで相撲・格闘技を中心に取材。2021年10月から松山局。学生時代はボクサーでした。

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