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豊かさとは何か

水俣病患者、遺影からの問いかけ
  • 2024年02月26日

公害の原点といわれる水俣病。公式確認から67年となる今も、補償をめぐる裁判が続くなど、解決への道筋が見えない状況が続いています。その歴史や被害を伝える展示会が、今秋、福岡市で開かれました。被害の実態を伝える展示と、水俣病で家族を亡くした水俣市の女性を取材しました。
(熊本放送局 記者 西村雄介)

水俣病の展示を見つめて

23年11月まで、福岡市の美術館で開かれた「水俣・福岡展」。

東京のNPO法人が全国を巡回して開いている展示会で、福岡での開催は10年ぶり、2回目となりました。

並ぶのは、水俣病の歴史や被害を伝える写真やパネルなど1200点。

繁栄を求めた末に起きた水俣病の苦難の歴史を、一からたどることができます。

これらの展示を特別な思いで見つめる人がいました。

水俣市の吉永理巳子さんです。

祖父母と両親が水俣病の患者でした。

(吉永理巳子さん)
「魚が原因と分かっていた。そして、海に廃水を流している。それも長い間止めなかった。裁判も続いてる現実は何だろうかということをしっかり読み取ってほしい」

水俣病患者遺影群

東京で27年前、展示会が初めて開催された時から来場し続けています。期間中、開かれる講演会にも、患者の家族として登壇しました。

その吉永さんが、会場で特に注目してほしいという展示がありました。

「水俣病患者遺影群『記憶と祈り』」。
水俣病で命を亡くした人たちの遺影、およそ500枚が展示されています。

(吉永さん)
「1人1人の人生があって、まだ小さい、本当に、まだ小さい、赤ちゃんもいる。その人たちが、今から先、大人になって、歩んでいく道っていうのがあったと思うんですけど、それも奪われてしまった。暮らしだとか、そして、楽しみだとかですよね、そんなのもう奪われてしまった。ここに出ておられる方の周りにもご家族がいる。私の家族は、こんな家族だったってね、私の楽しみはこんな楽しみだったっていうようなことをですね、1人1人の人たちが言いたいこともたくさんあられると思うんですよね。これだけ500枚の方、お写真が出ているんですけれども、ごく一部だからですね」

家族を隠した過去

(吉永さん)
「これが私の父です。チッソ、原因企業ですけど、昭和15年に入って、38歳で亡くなった。今から子どもを育てていく、家族を守っていくっていう時期だった。私が5歳の時です。自分が働いていたチッソが原因だったっていうのも知らずに、亡くなってますから、多分、もし生きてたならば、言いたいこととか、そういうこと、たくさんあるかな」。

祖父の安太さん。

祖母のチトさんもともに並んでいます。

吉永さんは、長年、患者だった家族の存在を隠し続けてきました。

(吉永さん)。
「身の周りに水俣病があるっていうことをずっと隠してたから、そして、もう恥ずかしい存在だっていうようなことでしか、私は思っていなかったんです。水俣病の人たちがおれば、水俣の町はだめになってしまうという、そんな大人の人たちのことを聞いて、育った私たち、子どもは、水俣病に対して、すごい引け目を感じてた」。

遺影に込めた思い

展示会が初めて開かれようとしていたころ、知人から借りた本で少しずつ学んだ水俣病の歴史。

家族の命は、社会が豊かさを求めた代償として、奪われたことに気づきました。

(吉永さん)
「じいちゃんは、私が、どんなことがあっても、からかわれたり、いじめられていたりしたら、もう一番真っ先になつてじいちゃんあの追いかけ回して怒ってくれて、でも、魚もあの小さないろりを、私用に作ってくれて、魚をそこで焼いて食べさせてくれたりしてたんです、そのじいちゃんを、私は、守ってあげなかったっていうか。申し訳ないなって。気付いたときにですね、あのまずは、もうおわび、わびたいなと思ったんですよ、水俣病の人たち、父たち、祖父や祖母たちにですね、今ここにおられる方たちに、おわびをしたいって、私が間違ってたって、っていうことで、おわびしたいっていう、ことを思ったんですよ」

(吉永さん)。
「じいちゃんはね、一番、私をかわいがってくれた、ほんとに。9年間、寝たきりになっていた時に、友達に姿を見られるのが嫌で、家に連れてこれなかったということを言ってたんです。なんで、そんなこと、私は思っていたんだろうとかね。魚に毒が入ってるっていうのを、食べさせるはずがないのに、知らずに食べただけなんですよ、それなのに、水俣病の原因だったっていう、なんで、それが恥ずかしいって、わたし思ったんだろうかって、そんな単純なことなのに、人にも隠してしまって、それこそ、父に、あんたが1番水俣病のことを差別しているんじゃないかって、言われた気がしたんですよ。本当は、自分たちは、もっと生きたかったって、そう、もっと魚も取りたかったって」

子どもの成長を願った父、二芳さんの無念を感じ取り、 遺影の展示を申し出ました。

(吉永さん)
「豊かな暮らしを追い求めてた結果がどうなんだって、チッソに対しても、父はやっぱり問いたいと思ったんですよね。自分のこととして、みんな考えてほしいということを父は言いたいんじゃないかな」。

豊かとは何か 水俣病から学んで

(吉永さん)
「1回なくしてしまうと、取り戻せないものというのはある。元の海にするって言うのも、すごい大変なことだと思う。これをなくしてしまっていいのかどうか、山を崩してしまっていいのか、海を崩してしまっていいのか。水俣病が起きた頃は本当に海にも小さな貝だとか、いろんなものが生まれただろうし、そしてまた、海辺で暮らす子どもたちも。小さな命を思えば。守らなきゃいけないことっていっぱいあると思う。見逃すなと。1人1人の声、思いが問われてくる時じゃないかな」

奪われたものの大きさを伝える遺影などの展示が、来場した人たちの人生にいきてほしい。

苦難と向き合ってきた患者家族の願いです。
 

(吉永さん)
「若い人たちに豊かさって、何を求めていくのか、もう1回、考えてもらいたい。今から先ですね、過去にあった水俣病のことから、じっくり考えて、自分たちが進む豊かさを求めてほしい。ただの水俣で起きたことを、ここの場所に持ってきて展示するということだけじゃない。このことが形を変えて起きることでもあるかもしれない、そのときに、じゃあ自分はどうするか、何ができるのかってことを考えられるチャンスと思う。自分のこととして、考えながら、水俣にも、足を運んでもらえたら、と思います」。

  • 西村雄介

    熊本局記者

    西村雄介

    2014年入局 熊本局が初任地。公式確認60年となる2016年から水俣病を継続取材。熊本地震・令和2年7月豪雨を発生当初から取材。

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