令和2年7月熊本豪雨 語り部が伝える被災の記憶
- 2023年06月07日
令和2年7月の記録的な豪雨。
球磨川が氾濫するなどして、熊本県内で67人が犠牲になり、2人が行方不明のままだ。
最も多い25人の尊い命が失われた球磨村では、2022年5月から、被災の記憶や教訓を語り継ぐ「語り部」の活動を行っている。
参加するのは、当時、避難所になった保育園の元職員や、防災行政無線で命を守る行動を呼びかけ続けた防災担当職員など、5人。
このうち2人に「語り部として伝えたいこと」を聞いた。
(2022年12月公開記事)
(熊本局記者 馬場健夫)
(2022年7月7日放送 動画)
「120メイヒナン」の保育園の元職員は
語り部の1人で、保育園の職員だった、岩崎ちふみさん(当時45)。
働いていた高台の保育園が避難所になり、住民たちと5日間の避難生活を送った。
当時、保育園にあった簡易プールで救助活動が行われる中、集落が水に飲み込まれる様子を高台から見ていた。
岩崎ちふみさん
「向こうの屋根から、こっちに向かって、手を振られて、助けを求めているのを見るので精いっぱいでした」
「何もしてやれなくてですね。本当に何もできない悔しさっていうのを感じていました」
「私の知り合いが3人亡くなっている。その事実があって、助けてあげられなかったつらさは、みんなの心の中に残っていて、ずっとそれを抱えながら生きていくのかなと思う」
集落が孤立するなか、岩崎さんは、ある行動に出た。
上空を飛ぶヘリコプターに大勢が避難していることを伝えたいと、子どもたちと一緒に、石灰で「120メイヒナン」と園庭に書いて、助けを求めた。
岩崎ちふみさん
「『120メイヒナン』。早く食料品や水を、ヘリコプターでもいいから、ここに落としてほしいなと思って書きました。なんとかここで過ごしていくために、食料と水を下さいという思いでした」
避難所となった保育園では、住民どうし、食事作りや水の確保、掃除など、役割分担をして支え合った。
地区では、近所の人が、どの部屋で寝ているのかも分かるほどの間柄だという。
そのつながりの強さを生かして、5日間の避難生活を乗り切った。
「今の方がいやなのかな」
しかし、被災後は、村を離れる決断をした住民も出ている。
この地区は、3.8メートル浸水した。
建物の解体でさら地が広がり、人の姿はまばらだ。
岩崎さんの家は高台にあり無事だったが、思い出のつまった祖母の家は解体された。
「去年はずっと、家が壊されていく音を聞きながら、過ごしていました。自分の中にある思い出が、重機で取り壊されていく感覚ですよね、音と、においと、見た目と」
「一瞬にして、日常が奪われて、そこからの生活が日常になるんですけれど、それは受け入れたくないというか、受け入れられない日々ですね」
「(記者:2年たちますが?)今のほうがいやなのかな・・・」
親が園長を務めていた、60年以上続く保育園。
住民が集落を離れたことで、子どもがいなくなり、閉園を余儀なくされた。
園の中には、子どもたちの作品や掲示物が、当時のままに残されていた。
岩崎ちふみさん
「本当だったら、この日々が今もあって、ずっと続けていたかったというのが、私の希望です。現実は違うんですけど、心の中ではこのまま」
「ここで一緒にいた時の思い出を、少なからず残しておきたいんでしょうかね」
「子どもたち自身が、今でも神瀬保育園に帰りたいっていう言葉を言っているのを聞くと、しっかり心に残ってくれているんだなって。嬉しかったのは嬉しかったですけれど、それを実現してやれない悔しさはあります」
語り部として伝える
日常がすべて奪われるつらさを伝えることで、災害への意識を高めてもらいたい。
岩崎さんは、こうした思いから、2022年6月に語り部として初めて語りかけた。
この日、訪れたのは、広島の建設業関係の団体。
保育園で避難した時の話や、近所の高齢夫婦が屋根を壊して逃げた話をした。
また参加者とバスに乗り込み、村の中を回りながら、被災の様子を伝えた。
岩崎ちふみさん
「鉄橋の線路が流されたけど、橋脚だけ残っています。レールも曲がっています」
「津波被害と言われています。ここは全部解体されてさら地になって、もう人が住んではいけない土地になってしまいました。道路はえぐられて、家も一緒に無くなってしまいました」
また、再び被災する恐れがある元の場所に戻るかどうか、住民たちが抱えている悩みも打ち明けた。
「国交省が示したのが(場所によってかさ上げ)30センチで出てきました。だから住民としてまたそこに住むのかっていうのも、今判断材料の一つで、悩んでいるところです。でもそれが現実です」
「災害は自分にも起こりうる」
岩崎さんに、「語り部として伝えたいこと」を聞いた。
岩崎ちふみさん
「他人事じゃない、自分にもありえることだと思って、今後の日常を過ごしてほしいなと思うんですよね」
「災害って、やって来たら生活は一変してしまいます。そこからの非日常が、日常になる。今でもその非日常を過ごしている人がいるんですね」
「集落のみんながバラバラになったのを経験しています。残っている人も、どこかに行かざるをえなくなった人も、みんなが、ありえない日々を過ごしています」
「ニュースや報道では、その時、放映されておしまいなんですけど、災害を経験した人は、そこで全然終わってないっていうことは知ってほしい」
「自分にも起こりえるから、早めの避難や、日頃からの準備を意識しておくことが必要なんだよというのを伝えたい」
防災無線で呼びかけ続けた、村の防災担当職員は
もう1人、特別な思いを持って、語り部として活動する人がいる。
球磨村役場の防災管理官で、陸上自衛隊出身の中渡徹さんだ(当時60)。
中渡徹さん
「我々の立っている足元のここまで、川の水が上がって来たんです」
「(以前)かさ上げをしたところに、さらに安全なように、球磨村の住民は、土盛りをして、高い家を作っている。それが球磨村では、今回の洪水で、ほぼやられている」
「まさかそこまで来るとは思っていなかった、というのが本音だということです。住民の方たちも、これだけかさ上げしたから安全だろうということで、逃げ遅れた方が多かった」
「1人の犠牲者も出したくなかった」
豪雨当時、中渡さんは自ら防災行政無線のマイクを握り、一晩中、命を守る行動を呼びかけ続けた。
しかし、雨が激しくなったのは夜中。
夜中に避難すると、かえって危険な事態も想定され、呼びかける内容も難しい判断を迫られた。
そして明け方、球磨川や支流が氾濫し、25人の命が奪われた。
当時のアナウンスの文章を読み返しながら、中渡さんはつぶやいた。
「命の危険が迫っています、、、あらゆる手段を尽くして、身の安全を、確保してください」
「だめだ、思い出しちゃうよこれ、思い出しちゃったよ」
「(当時、住民から)『今、水が来ている、屋根に避難している、なんとかしてくれ』というような電話があった。今でも、耳に残って離れないですね」
「当時はやっぱり、相当落ち込みましたし、自責の念にも駆られました」
「とにかく無事であってほしかった。1人の犠牲者も出したくなかったですよね」
「自分の命を守るのは、自分しかいない」
2022年5月に行われた語り部の活動で、中渡さんは、『明るいうちに避難する』など、1人1人の意識を変えたいと、参加者に語りかけた。
「つくづく思うのは、どれだけ準備しても、どれだけ備えても、それを飲み込むのが災害です」
「自然の脅威が迫っているときに、役場は無力です。役場は万能ではありません。村民の命を、村役場に委ねてはなりません。避難するかしないかは、最後は村民の判断です」
「役場が村民一人ひとりの状況に応じて、避難を助けることはできません。自分たちの命を守るためには、自分たちの手段で、早めに避難するしかない」
参加した人
「自分が今どういうとこに住んでいるのかとか、防災の袋を準備するとか、まずは自分の身の回りから意識を持っていこうという意識になりました」
「教訓を伝えることが、生かされた者の使命」
中渡さんに「語り部として伝えたいこと」を聞いた。
「痛恨の極みという言葉がありますが、立ち止まっているわけにはいかない。同じような悲劇で、犠牲者を出すわけにはいかない」
「残った者の使命として、やはり当時の教訓を生かして、防災減災につなげて、2度とあのような悲劇を起こさない。このことこそが、亡くなられた方への供養だと思うんですよね」
「伝えたいことは、自然災害の恐ろしさと脅威。そして自分たちの命は、最終的には自分たちで守るしかない。住んでいる地域の災害特性を理解して、早めに安全な場所に避難する、これしかない」
「当時の教訓をしっかり伝えていくことが、生かされた者の使命だと思っています」
取材のその後
2022年11月、神瀬保育園に岩崎さんを訪ねた。
閉園した保育園では解体工事が行われ、基礎部分だけになっていた。
長年、地区の子どもたちを育み、豪雨の時には避難所として命を守り、その後も交流の拠点となってきた場所だ。
岩崎さんにとってかけがえのないものが、また1つ、失われていた。
岩崎さんはこれまで、解体される保育園の様子は、あえて見てこなかったという。
私を案内するため、岩崎さんが保育園に近づいて思い出を話し始めた時、その目に涙がこぼれた。
「1人で見て涙するぐらいなら、他の人と、こういう思い出があったなと思って見る方が、私は精神的に楽かなと。だから多分、1人で見たくなかったんだと思う」
「無くなるのって早い。あの場所は未満児クラスで赤ちゃんを抱いていたなとか、お遊戯の練習をしていたなって思い出す。でも、もう鉄くずにしかならないんだなって」
一方で、岩崎さんは、「災害では失ったものだけではない」という。
住民の多くは仮設住宅などに移って神瀬を離れたが、祭りなどの行事には、再び集まってくる。
202年11月に開いた「復興まつり」には、多くの住民が参加し、盛り上がった。
この人のつながりの強さが、神瀬の良さだと、岩崎さんは言う。
「被災したことで、強くなった結びつきもある。そこは大切にしていきたい。祭りを開いたりできる仲間作りが続けられているのは、神瀬の強さかなと思います」
「別の場所で住むことになったとしても、心はきっとここに残してくれているだろうし、帰ってきた時は『ほっとする』って、皆さんが言われているので、そういう場を今後も作っていきたい」
「色んなことを、1人じゃなくて、助け合える仲間がいると思えるのが、球磨村の良さと思うんですよね。日頃から助け合っているし、お互い様で生きているからですね。それができる村を、今後も続けたいと思います」
そして、今後の語り部活動への思いを、こう表現した。
「災害があったあと、どうやって人々が復興に向かって立ち直っていくのかを伝えたい。ずっとつらいままじゃない。どういう思いがあって、どういう決心をして、どういう選択をしながら、その次を生きてきたかっていうのを知ってほしい」
球磨村は今後、地区ごとに被災体験を語り合い、共有する「語り場」を開いて、「語り部」を増やしていきたいという。
今後、村の人たちが何を語っていくのか、今後も耳を傾け、伝えていきたい。