愛〔かな〕しみを経験した君たちへ——若い人々への書簡
君たちは震災で、あるいはその後の日々で大切な人を喪った。ぼくは、君たちが別れを経験する一年ほど前に妻を喪った。
大震災の日から、君たちのことを考えている。ことさらに意識しないときでも、心のどこかで、会ったことのない君たちのことを思う自分に気が付くことがある。いつの日か、これを読む君に会うことができればと願っているけれど、なかなか希望通りにはいかないから、今日は手紙を書こうと思ってペンを執った。
大事な人が亡くなる。あるいは亡くなってみて、はじめて、かけがえのない人だったことが分かる。そんなこともあったかもしれない。今、君たちは、亡くなった人のことをどう感じているだろう。その人たちは、もう永遠に消え去ってしまったのだろうか。
もちろん、亡くなったんだから姿は見えない。互いにふれ合うことも、言葉を交わすこともできない。そうしたことは全部わかっていて、でも、君たちは亡くなった人のことを近くに感じることはないだろうか。
もっといえば、悲しいと思うとき、君たちはよりいっそう、亡くなったはずの人が、自分のそばにいる、そう思うことはないだろうか。むしろ、悲しいのは、その人が消えてしまったからではなく、姿をかえて、自分の近くにいるからだ、悲しみは、亡くなった人が訪れる合図だ、と感じたことはないだろうか。ぼくは、ある。
あるとき、亡くなった人は、生きているときよりも、いっそう近くにいる、そう感じられる。ぼくたちは、亡くなった人にむかって祈る。ときに話しかける。あるいは、無音の呼びかけとでもいいたくなるようなかたちで、あの人たちからの「声」を感じるときもある。つらいとき、助けてくれると感じるときもあるかもしれない。
見えないということと、存在しないことは違う。こうした経験を大事にしよう。ほかの人に言わなくていい。でも、ぼくらは自分でそれを打ち消す必要もないんだ。
君の大切な人も、ぼくの、また、ほかの人々の大切な人たちもいつか亡くなる。でも、亡くなるとは、おそらく別な世界に「生まれる」ことではないだろうか。
昔の人は、「かなしい」という言葉を、悲しい、とだけでなく、愛〔かな〕しい、と書いた。人を愛する、ということは、同時にいつか耐えなくてはならない悲しみを育てることを意味している。誰かを亡くして、心から悲しいと思うことほど、深い情愛はない、ということを、かつての日本人は知っていたのだと思う。
君たちは、人々が容易に経験できないほどに深い悲しみと愛〔かな〕しみを経験した。世界は悲しみに満ちている。悲しみを経験したことのない人なんかいない。悲しい、あるいは、愛〔かな〕しいと思うとき、君たちは、見えないかたちで深く世界とつながっているんだ。
君たちはこれからの人生でいろんな人々に出会う。そのなかで、どんな関係であれ、愛おしい人と共に生きることは、同時に悲しみを背負うことになんだ。このことから逃れることはできない。なぜなら、その人を喪うことが、もっとも耐えがたい悲しみの出来事になるからだ。
でも、それはけっして嘆かわしいことではない。喪って、その人に尽きることのない悲しみと愛しみを感じる人生が、どうして無意味なはずがあるだろう。悲しみは、悲惨な出来事ではない。むしろ、人生の意味を深く掘ることに似ている。その深みで、ぼくらは亡き人たちと再び出会うのではないだろうか。
最後に君たちにお礼を言いたい。今も、君たちが生きていてくれることが、ぼくらの光になっている。突然、そんなことを言われても分からないかもしれない。光源は、自分がどれほどの光を出しているかを知らない。でも、それをたくさん浴びているぼくらには分かる。今も、見えない涙を流しながら生きている君たちに、ぼくらは照らされている。本当にありがとう。
若松 英輔