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こころフォトに寄せて

石牟礼道子さん(いしむれ・みちこ)

水俣病問題を問い続ける作家、詩人。1927年3月11日、熊本県生まれ。
1969年に刊行された代表作『苦海浄土』は、水俣病患者の悲しみと怒りを綴り、水俣病問題が社会的に注目される契機になったと言われる。
この他の著作に、『天の魚』、『椿の海の記』、『石牟礼道子全集・不知火』など。
現在はパーキンソン病を患いながら、絵入りの詩集(14年6月刊行予定)の執筆を続けている。

私に語る資格があるのかしら。ご連絡頂いてからも、よっぽどご辞退しようかと思ったのですけれど。
現代の日本は、近代化を目指して、この100年でずいぶん変わりました。日本人の性格も、風景としての日本列島の姿も、変わり果てました。特に、水俣病問題に関わっておりますと、人間が変わったと言いますか。風景がまず変わりました。
日本がどんな風に変わったかということを、まず考えます。この100年の間に何が変わって、地震と津波がやってきたのか。九州から見ておりますと、東北の方々は、どういう日常生活を送ってこられたんだろうかと思いますね。特に東北は、農業や漁業などで、東京を主とする都市を養うために働いてくださっていたと思うんですよね。テレビで時々、東北を拝見しますと、陸上も海岸もがれきになっています。それで呆然としておられるお顔が、とても印象的で。思いが深いお顔をしておられます。東北には、宮沢賢治の「寒さの夏はおろおろ歩き」という詩がありますけれども、あの詩は、東北だから生まれた詩だと思うんですね。寒さの夏はおろおろ歩くというような人情を持っていらっしゃったんだと思います。

私の家は、道を作る家でした。私の名前も「道子」と言いますけれど。道路工事を行う家でございました。我が家では、「この世を拓くために、道を作るのだ」というのが、朝晩の話題でした。水俣はチッソ工場が殿様でしたから、チッソ工場の製品を外国向けに積み出す港を作りに、天草から水俣にやってきたんです。工場の裏山は山になっていて、その裏側は海で、対岸に天草があります。それで、チッソ工場の築港工事を、今で言えば道路公団のような仕事を請け負っておりました。採算を度外視して、道を作ることを喜びにしておりました。「この世の拓ける始めになった」と思っておりました。そういう話題を朝晩、聞かされておりました。「あそこの山に道をいくつ食わせた、あそこの道はどこの山を食わせた(山を犠牲にして道を作った)」、それが我が家の喜びだったんです。しかし、食わせる山がだんだん無くなってきて。儲けるということを知らない家でした。
水俣で有名な湯出(ゆのつる)温泉というのが山の奥にありますけれども、チッソの積み出し港から、その湯出温泉まで道を作ったことがあります。港から温泉までは、いくつもの集落があります。まだ機械がない時代ですから、その集落の人たちの力で道を開くわけです。何里くらいあったでしょうか。道を作るときには、始めに神様を作るんです。道にも山にも神様がいらっしゃいますから、八幡様を作ります。そうして、山の斜面から切り出した石で道を作っていきます。もちろんコンクリートの道ではございません。長い時間がかかって、道が出来上がると、「あそこに道ができたそうだ」という話が近隣の村々に伝わりました。すると、村中こぞって道を見にいらしたそうです。しかし、中々、新しい道に足を付ける人はいませんでした。最初に思い切って道に足を付けた人は、一歩足をつけ、飛び上がって「こういう美しか道ははじめて見た。神様の道じゃなかろうか。神様をふんづけたんじゃなかろうか」と言ったそうです。そして、「道には神さんがおらす」(神様がいらっしゃる)、「まず神さんにお礼を申し上げなきゃならん」と言って、男の人たちは、花結びのたすきをかけて行列を作って踊り、婆様たちが三味線をひいて歌をうたいました。道を「花の道」と名付けて、お祝いをしてくださった。そうしてから、道を通るようにしていたんです。
なぜこのような話をするかと言いますと、道が近代化を運びます。それが道の意味です。その道が、次第にコンクリート化されていきました。石の道がなくなっていきました。「見かけがうつくしゅうなか(美しくない)」と思いますね。今は、道を「花の道」とは思わないでしょう。そんな風に感じる能力がなくなっていった。コンクリートで道を作るようになって、「花の道」と感じる能力がなくなっていきました。 その結果、私は、日本列島の地の底の脈といいますか、それが、大地が、窒息していったんじゃないかと思うんです。私は海辺に住んでいましたから、海と陸は呼吸しあってると思うんです。コンクリートにすると、波の音から違います。今は、さざ波の音というものを知らなくなっています。海と陸が切断されていますから。

私は、山の中の人たちが、道に一歩足を付けて飛び上がったという気持ちがよくわかります。何か、“畏れ”のようなものを持っていらっしゃるんですよね。道だけでなく、植物に囲まれて生きていることに対する、“畏れ”みたいなものを持っていらっしゃるんです。草は、生命の親ではないかと私は思います。草木に近い人たちを敬わなければならないのに、列島をまるごとコンクリート化していったのが、この100年だったと思います。
東北は、日本の都市化を進めるため、黙々と農産物や海産物を都会に送り、養ってくださっていた。その間に、地方というのは無視されていきました。都市化するのが、近代化だと思ってきました。東北は、あまり都市型を志向する人たちではなかったろうと思います。そして、「田舎者」という言葉ができました。東京だけではありませんけれど、南九州からの若者たちは京阪神地方へ、上方へ行くと言って集団就職で出て行きました。上方へ行って帰ってきた若者達が東京弁を話していると、田舎の人たちは「三日東京弁」と言っていました。そして、田舎の言葉を卑しむようになっていきました。
今でも、人生の中で良いことがありますと、「あの時代は花だった」と言います。そういう感覚を失った近代人に、大地が警告をしたんだと思います。たくさんの犠牲者を飲み込んで、大地の底が深呼吸をして、吐息をついたんだと思います。

あるとき、水俣の患者さんたちが、チッソの幹部と交渉に行くところに同行したことがあります。そのとき、ある幹部が、「あなたたちは知らないかもしれないが、会社の社長というのは、どんなに忙しいか。とても患者と会っている時間はない」と言ったんです。その言葉を聞いて、患者さんたちは「義理を立てて今まで黙っていたけれど、もう義理はきれました」とおっしゃったんです。初めて絶縁をおっしゃったんですね。会社は、つまり「あなた方は無知だ」と言ったんです。そんな会社に対し、患者さんが義理を立てていたということを、私は初めて知りました。別に患者の皆さんは、会社に勤めているわけでもありません。水俣市の税収の大半は会社が持っていて、地域社会が会社のことを殿様だと思っていますから、義理を立てていたんです。なんて言うか、いじらしいんですね。そういうことがあって、私は、水俣病を告発する会というものを作りました。本田啓吉氏を会長にお迎えし、今は亡くなりましたけれど、その人が第一声に、「義をもって助太刀いたす」とおっしゃったんです。身震いしました。その通りだと思いました。東北の震災には、「義をもって助太刀いたす」という言葉を思い出します。テレビで東北の方々のお顔を拝見していますと、刀折れ矢尽きたような表情をしています。義というものが現代にあるだろうかと思います。

東北の方々は、とても寡黙でいらっしゃいます。あの寡黙さは、日本人が失った、近代人が失った、ものすごくたくさんのことを蓄えていらっしゃるお顔だと思います。あまり多くを語られないですけど、かえってそれが豊かな人格というものを、たくさん称えておられるお顔です。テレビでお顔を見ますと、涙が出そうになります。
亡くなった人を想うことは、どんなにお辛いことかと思います。しかし、あの世の人と想いを交わすことが、一番の供養になると思います。つながる手立てというのは実際にはありませんけれど、忘れようにも忘れられないですよね。私も小さいときの思い出がたくさんあります。今まで忘れていたことが、突然思い出されます。そうなると考えが続きません。でも、思い出すことは永遠につながることばかりです。この世で一緒に生きていたんだなと思います。
私は文章を書く人間ですけれど、人の想いというものは、この世にない人とも対話ができるんです。今、東北の人たちは、一番大切な身内を亡くされ、それも全く思いがけない、予告もない形で、大変な目にあわれています。しかし、それは、心の内に、無形の財産となって残るだろうと思います。それを私達は、お会いする、お会いしないに関わらず、大切に共通の遺産にしていかなければならないと思っています。それが、今回、インタビューを受けるために考えたことです。
(平成26年5月15日・談  入院先の病院にて)