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知的障害者の施設をめぐって 第7回 最後の課題となった重症心身障害児・者 3

2017年01月30日(月)


Webライターの木下です。
第7回も重症児・者施設の歴史の続きになります。


親の訴えで進んだ重症児の施設福祉


1960年代に、重症児対策が大きく前進することになったのは、草野熊吉、糸賀一雄、小林提樹の3人の先駆者が協力して、行政に働きかけを続けたことに加えて、親たちの活動も制度化を進める上で大きな力となりました。

作家の水上勉が、重症児の親として、1963年(昭和38)6月号の『中央公論』に「拝啓池田総理大臣殿」を発表すると、重症児の問題はマスコミを通じて一気に顕在化しました。自分が国に収める税金よりも、国が重症児施設に助成する金額の方が少ないことを取り上げ、重症児のためにもっと予算を取ってほしいという水上の訴えは、社会に大きな波紋を広げ、新聞、テレビを通じてキャンペーンが繰り広げられることになりました。そのような真摯な訴えに心を動かされて、重症児問題の深刻さを理解し、その対策の確立に取り組む政治家も現れるようになりました。

1963年(昭和38)には「重症心身障害児療育実施要綱」など一連の厚生事務次官通達がなされることになりました。しかし、当時は重症児の実態が明確に把握されていなかったので、児童福祉法の改正までには至らず、研究的にとりくむ暫定的な措置にとどまりました。そして、重症児施設は病院であることを前提として、そこに福祉施設としての性格ももたせることになりました。さらに、施設はあくまでも児童のためのものとされ、18歳以上のものは対象とはならず、入所後も成人となったら年齢超過者として退所させられることになりました。

そのような年齢制限をともなう制度設計に不安を覚えた親たちは、支援者とともに、1964年(昭和39)、「全国重症心身障害児を守る会」を発足させます。この会の母体となったのは、小児科医の小林提樹が日赤病院で行っていた「日赤両親のつどい」でした。この会は、外来のわずかな時間では患者と十分に話ができないので、もっとゆっくりと医師と話をしたいという障害児の親たちの要望に応えるために小林がつくった会でした。親たちは、小林らとともに、「年齢制限の撤廃」「施設拡充と職員待遇改善」「在宅児指導と経済的保障制度」についての要望書を政府に提出し、さらなる制度の充実を求めていきました。

写真・小林提樹の写真と色紙小林提樹は、家族と同じ思いを共有し、重症児の親たちからは深く信頼されていました。


法定化され、一気に増設された重症児施設


親たちの求めを受けて、厚生省は、1965年(昭和40)、実態把握のために、「身体障害者(児)の実態調査」を実施しました。全国で重症児の数は17300人、重症者は2000人とされました。このうち16500人を「施設収容」するという計画に基づき、施設整備計画は進められることになりました。

「全国重症心身障害児を守る会」は、「専門的な療育を行う施設」を国の責任により、全国各地に設置することをかねてより強く要望していましたが、政府はこれに対応するため、1966年度予算編成の過程で、国立療養所に重症児者を収容するための病床を設け、都道府県が国立療養所に入所委託するという仕組みを創設することになりました。

1967年(昭和42)には、児童福祉法の一部を改正し、重症心身障害児施設は児童福祉施設であるとともに、医療法上の病院としての基準をもつものとして、法律上位置づけられました。そして、重症心身障害という特殊性にかんがみ、入所期間がきわめて長期におよぶことなどから、児童福祉施設でありながら、満18歳を超えるものも在所できることになり、年齢制限が取り払われることになりました。

国立療養所に重症児棟が新設・増設され、収容定員は、1970年(昭和45)には、国立療養所委託病床2880床、公法人立の重症児施設2922床、合計5802床になりました。その後も、国の計画的な整備により、収容定員は年々着実に増加し、1974年度には合計1万人を超えるまでになりました。

日本の重症児施設は、病院の機能をもつ保護施設という特殊なもので、これは世界にも類をみない取り組みと言われています。また、そこでは疾患を治したり、障害を軽減したりする「治す医療」だけではなく、障害がありながらも安定して前向きに生きていくための「支える医療」が行われています。

この分野を切り開いた草野熊吉、糸賀一雄、小林提樹の3人の先駆者が、重い障害のある子どもたちと家族に幸せをもたらすために導き出した考え方や日常的な手立ては、いまも多くの施設で受け継がれています。そして、それは施設の中だけにとどまらず、在宅で暮らす重症児者の生活にも及んでいます。

このように1960年代に重症児者の福祉は大きく進展しますが、それでも施設の絶対数はまだまだ不足していました。また、医療を基盤とした保護施設であるために、治療やリハビリが中心になり、遊びやくつろぎのような生活に関する内容が乏しくなりがちでした。親たちは、医療施設、教育施設、授産施設などとともに生活の場も兼ね備え、入所者を終生保護してくれるような生活共同体を求めていくようになりました。

それまで日本には、知的障害者が生まれてから親亡き後にいたるまでの一生をどのように支援するのかという体系的な福祉政策が検討されてきませんでした。入所者が施設内に30年、40年ととどまり続けている事実がありながら、障害者の人生設計について話し合ってきませんでした。しかし、施設の依存度が高い重症児者の問題が顕在化したことで、初めて日本でも終生保護するための施設が施策として取り上げられ、大規模総合施設コロニーへの建設へと結びついていきました。


木下 真

 

参照:『施設養護論』(浦辺 史/積 惟勝/秦 安雄編)、「国立コロニー開設に至る道のり」(遠藤 浩)、「重症心身障害児施設の黎明-島田療育園の創設と法制化」(窪田 好恵)

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 『ハートネットTV』(Eテレ)

  2017年1月26日放送 障害者殺傷事件から半年 次郎は「次郎という仕事」をしている
 ※アンコール放送決定! 2017年3月21日(火)夜8時/再放送:3月28日(火)昼1時5分

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 知的障害者の施設をめぐって(全14回・連載中)
 第 1回 教育機関として始まった施設の歴史
 第 2回 民間施設の孤高の輝き
 第 3回 戦後の精神薄弱児施設の増設
 第 4回 成人のための施設福祉を求めて
 第 5回 最後の課題となった重症心身障害児・者 1
 
第 6回 最後の課題となった重症心身障害児・者 2
 第 7回 最後の課題となった重症心身障害児・者 3
 第 8回 終生保護のための大規模施設コロニー
 第 9回 大規模コロニーの多難のスタート
 
第10回 政策論議の場から消えていったコロニー

   (※随時更新予定)

 
 障害者の暮らす場所
 第2回 日本で最初の知的障害者施設・滝乃川学園‐前編‐
 第3回 日本で最初の知的障害者施設・滝乃川学園‐後編‐

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