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知的障害者の施設をめぐって 第1回 教育機関として始まった施設の歴史

2017年01月18日(水)


Webライターの木下です。

相模原障害者施設殺傷事件は、知的障害者の施設で起きた事件です。「施設は障害者の主体性を奪う」「保護は隔離と表裏一体だ」「危険があっても逃げられない」など、事件をきっかけに施設入所に対する批判の声が障害者団体などから上げられる一方で、「支援なき地域に戻せば親に過重な負担が課せられる」「親亡き後の高齢の障害者はどうするのか」「地域では差別や偏見にさらされる」など、施設の必要性を語る声も聞こえてきました。現在も関係者の間ではさまざまな議論が交わされています。


過去から繰り返される施設をめぐる議論


平成28年版「障害者白書」によれば、手帳を保持する18歳以上の知的障害者の数は、全国で58万人、そのうち施設入所者の数は11万人、約19%です。現在中軽度の知的障害者の多くは在宅で暮らしていて、施設入所をしているのは、地域での生活が難しい重度の障害者が中心で、多くは高齢化しています。その中には、身寄りをなくしたり、高齢の親による介助が難しくなったために、新たに在宅から施設入所に変わった人もいます。なお、在宅で暮らしている知的障害者は、年齢を重ねても親の庇護のもとにある人が多く、地域での自立生活を支える仕組みづくりは十分には進んでいません。

1981年の「国際障害者年」以降、施設から地域移行へというノーマライゼーションの機運が盛り上がり、施設はいずれ解体されるという認識も広がっていますが、そもそも日本における知的障害者施設とは、どのような経緯で誕生したものなのでしょうか。実は、現在施設をめぐって繰り広げられている議論の多くは、過去にも施設をめぐる課題としてつねに俎上に上っていたものでした。そこで、日本の知的障害者施設の歴史について、資料をもとに、その誕生から地域移行への転換に至るまでの経緯を改めて振り返ってみたいと思います。なお、書籍のタイトルや法律名および施設名、識者の発言などについては、現在は使われていない「精神薄弱児(者)」「白痴」などの当時の表現をそのまま使用している箇所もあります。


原点としての「滝乃川学園」


日本で初めて知的障害者の専門施設をつくったのは「知的障害児教育の父」と呼ばれている「滝乃川学園」の創設者・石井亮一でした。その活動は、1891年(明治24)に東京下谷西黒門町に濃尾地震(岐阜・愛知)のために孤児となった少女20人余りを引き取り、「孤女学院」を創設したことに始まります。名称からは孤児院を連想させますが、家庭的・経済的に恵まれない女児に普通教育を施し、自立させることを目的とする女学校に近いものでした。その孤児の中に、たまたま知的障害のある「太田徳代」がいたことから、石井亮一は知的障害児の教育に目覚めていきます。

写真・石井亮一(推定明治24年頃)

石井亮一(推定明治24年頃)

石井亮一は女子教育の改革に取り組む教育者であるとともに、敬虔なクリスチャンでした。母校である立教大学で創設者のウィリアムズ主教から感化を受け、日本聖公会の信徒となります。「いと小さき者の一人になしたるは、すなわち、我(キリスト)になしたるなり」という聖書のマタイ伝25章40節の聖句を大切にし、わが身を顧みることなく、より小さきもの、より弱きものに愛情を注ぐことが神に従うことだと信じていました。明治時代の日本では、女子教育、児童保護、貧困者の救済などの分野で、多くのクリスチャンが社会事業家として活躍していましたが、石井亮一もそのひとりでした。

当時の日本では、重度の知的障害がある児童は差別や偏見の対象とされることが多く、家族は生まれた我が子を恥じて、隠すだけでなく、育児放棄することもありました。子殺しや母子心中などの悲惨な出来事もありました。また、震災などで孤児になると、誰に引き取られることもなく、浮浪者となって物乞いをしながら生きる者もいました。石井が震災に遭った孤女を救済する活動の中で、知的障害のある児童を見出したのは偶然ではありましたが、孤児の中に知的障害のある児童がいるのは、決して珍しいことではありませんでした。


石井は神の道を追求する求道者という顔だけではなく、学生時代には化学を志す科学者としての顔ももっていました。1896年(明治29)には障害児教育の研究のために、先進国であったアメリカに渡り、代表的な知的障害児学校を訪問しました。当時アメリカでは、生理学者のエドゥアール・セガンが現在の療育の考え方に通じる、身体活動も含めた「生理学的教育法」によって、知的障害児の教育が可能になることを明らかにしていました。石井が渡米したときには、すでにセガンは亡くなっていましたが、7か月の研修旅行の最後には、セガン夫人が校長を務める私立学校で、セガンの理論に基づく少人数教育を視察し、大きく影響を受けたと言われています。

当時の日本では、知的障害児に関しては教育も医療も無力だと考えられていました。しかし、石井は孤女学院での実践を通じて、知的障害は「不治」ではなく、「遅滞」に過ぎないと考えていました。セガンの理論や実践は、その確信を裏づけるものとなりました。石井は、アメリカ研修での貴重な体験とともに多くの文献を携え、帰国しました。そして、1896年(明治29)「孤女学院」の名称を「滝乃川学園」に改め、知的障害児のための「特殊教育部」を設け、日本初の知的障害者施設をスタートさせます。



信仰と愛、そして最新科学の力

 

この滝乃川学園が後の知的障害児施設の原型となったことには、大きな意味がありました。石井は知的障害のある子どもを慈善的な意味で保護するにとどまらず、科学者のまなざしで発達を観察研究し、その可能性を引き出すための実践に努めました。施設は子どもたちが将来社会の一員として自立生活をしていくための力を養う通過施設として位置づけられました。1900年(明治33)の第三次改正小学校令によって、知的障害のある児童の就学義務が免除され、学校教育から切り捨てられる中で、滝乃川学園の実践は、数少ない子どもたちの未来に光を投げかけるものでした。

 

石井は「白痴教育が国家に利益であろうか、利益でないだろうかといふことは私の念頭には起こりませぬ」信仰と愛、そして最新の科学の力、この三者なくして到底この尊い使命を全うすることはできませんという言葉を残しています。


写真・明治期の滝乃川学園での室内作業

明治期の滝乃川学園での室内作業


滝乃川学園は民間施設ですが、戦前の公教育の場でも特別学級が一部には存在しました。1891年(明治23)、教育に力を入れていた長野県では、松本市の尋常小学校に「特別な学級」を設けました。そして、明治後期には、そのような「特別な学級」の設置が全国的に広がりました。しかし、対象となったのは比較的障害が軽く、教育成果の見込まれる子どもたちでした。また、その教育方法は、普通児の教育課程の程度を下げて懇切丁寧に教えるに過ぎず、石井が行ったような知的障害に特化した教育方法を研究実践するような高度なものではありませんでした。知的障害児の特性に合わせた専門教育は、戦後になるまで滝乃川学園のような民間施設が担い続けていきました。

石井が滝乃川学園を立ち上げた時代、19世紀末から20世紀初頭には、世界中で「児童学(Pedeology)」という新しい子ども研究が流行していました。石井が二度にわたって視察に訪れたアメリカは、スタンレー・ホールという心理学者が推進する「児童研究運動(Child Study Movement)」の世界の中心でした。児童学は、それまでのルソーやロックなような哲学者が示した思索的な子どもの考察とは異なり、生物学的なまなざしで子どもを観察し、その発達を精神活動のみならず身体活動も含めて総合的に研究する学問で、石井がめざす生理学的な教育方法とも重なり合うものでした。


児童研究運動は、日本初の心理学者である東京帝国大学の元良勇次郎を介して日本にも伝わり、1902年(明治35)には医学者、心理学者、教育学者らにより、日本児童研究会(後に日本児童学会)が設立され、その機関誌として「児童研究」が発刊されました。同機関誌では、知的障害のある児童に関する国内外の研究も盛んに取り上げられ、石井も論文や調査報告を寄稿しています。そのような時代の流れも石井の活動に味方していました。

写真・『白痴児 其研究及教育』(石井亮一著)

『白痴児 其研究及教育』(石井亮一著)
海外の最先端の学説と実践を参考に、自らの研究成果と実践結果をまとめています

 

木下 真


写真提供:滝乃川学園
参照:『滝乃川学園』(くにたち郷土資料館)、『シリーズ 福祉に生きる 51石井亮一』(津曲裕次)、『発達心理学史』(村田孝次)

 

▼関連番組
 『ハートネットTV』(Eテレ)

  2017年1月26日放送 障害者殺傷事件から半年 次郎は「次郎という仕事」をしている
 ※アンコール放送決定! 2017年3月21日(火)夜8時/再放送:3月28日(火)昼1時5分

▼関連ブログ
 知的障害者の施設をめぐって(全14回・連載中)
 第 1回 教育機関として始まった施設の歴史
 第 2回 民間施設の孤高の輝き
 第 3回 戦後の精神薄弱児施設の増設
 第 4回 成人のための施設福祉を求めて
 第 5回 最後の課題となった重症心身障害児・者 1
 
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 第 7回 最後の課題となった重症心身障害児・者 3
 第 8回 終生保護のための大規模施設コロニー
 第 9回 大規模コロニーの多難のスタート
 
第10回 政策論議の場から消えていったコロニー

   (※随時更新予定)

 
 障害者の暮らす場所
 第2回 日本で最初の知的障害者施設・滝乃川学園‐前編‐
 第3回 日本で最初の知的障害者施設・滝乃川学園‐後編‐

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