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知的障害者の施設をめぐって 第5回 最後の課題となった重症心身障害児・者1

2017年01月26日(木)


Webライターの木下です。
第5回は重症心身障害児・者施設の歴史についてです。



制度の谷間にいた重症心身障害児


1947年(昭和22)の「児童福祉法」によって「精神薄弱児施設」が急速に全国に設置され、その後1960年(昭和35)に制定された「精神薄弱者福祉法」により「精神薄弱者援護施設」の設置が始まり、児童も成人も含めて知的障害者の福祉施策は、徐々に整っていきました。しかし、重度の重複障害児は、つねにその処遇が後回しにされていました。


重度の重複障害児を表すのに「重症心身障害児(重症児)」という言葉が使用されるようになったのは1958年(昭和33)からです。戦後まもなくは、その概念さえもなく、重度の肢体不自由と精神薄弱の両方がある重症児は、公教育からは排除され、医師からは治療は無意味とされました。さらに、肢体不自由児施設からは精神薄弱があるからと拒否され、精神薄弱児施設からは肢体不自由があるからと拒否されるという制度の谷間の存在でした。子殺し、一家心中など、重症児をめぐる悲劇は起きていましたが、国は「社会の役に立たない者には税金は使えない」として、養育は家族にゆだねられていました。

現在、児童福祉法では重症児を「重度の知的障害と重度の肢体不自由が重複している児童」と定義していますが、これは行政上の定義であって、医学的な定義ではありません。語義の通り、知的障害と肢体不自由を合わせてイメージしても、障害の実態には当てはまりません。重症心身障害は、脳の形成不全や損傷などによる重度の脳障害が基盤にあります。それにより、呼吸障害、摂食障害、排泄障害、てんかん発作、筋緊張による体の変形など、基本的な身体機能に問題が生じます。さらにそれらの障害が複雑に影響し合い、新たな病態を引き起こすこともあります。他の障害に比べて医療への依存度の高い障害で、専門医の中には、「知的障害」「精神障害」「身体障害」の3障害との類似性を考えるよりも、独自の障害ととらえた方がいいと指摘する者もいます。


家庭で養育するには、日々の生活介助はきわめて過酷で、成長する過程で障害が重症化することもあり、医療費も家計に大きな負担を強いることになりました。戦後、そのような重症児がおかれる状況を世に訴えるとともに、重症児とその家族を守るために民間で施設を創設した人々がいました。「秋津療育園」の草野熊吉、「びわこ学園」の糸賀一雄、「島田療育園」の小林提樹の3人です。3人がどのような動機から施設創設に至ったのか、簡単に振り返ってみます。


奉仕の心でつくられた初めての重症児施設


日本初の重症児の施設を開設した草野熊吉は、敬虔なクリスチャンでした。アメリカ人宣教師のアキスリングの指導を仰ぎながら、昭和初期に社会事業家として東京の下町の貧困地区に生きる人々を支援する活動を行っていました。自らが足の不自由な身体障害者で、子どもの頃から差別や偏見に苦しんだ経験から、貧困地区で生きる人々の中でも障害者の支援にはとくに力を入れていました。

草野が重症児の施設を開設することになったのは、敗戦後にできた家庭裁判所の調停員の仕事を引き受けたのがきっかけです。そこで、離婚の申し立てをする家庭に障害児が多いことに気づきます。「口から食べ物をとることさえ、大変手間のかかる子どもである。私がこの子らを引き受ける施設をつくれば、若い親たちも安らかな家庭を築けるのではないか」。そう考えた草野は施設の開設を決意します。肢体不自由児施設も精神薄弱児施設もすでにありました。しかし、両方の障害をあわせもった重症児の施設はどこにもありませんでした。草野が目指したのは、そのような制度のはざまの子どもたちを保護する施設でした。

写真・現在の秋津療育園

現在の秋津療育園


1958年(昭和33)、草野の「秋津療育園」は、空き家になっていた結核の療養ホームを譲り受け、東京都の東村山町に開設されました。最初の入所児童は7人。児童福祉法に基づく福祉施設としての認可を当局に求めましたが得ることはできず、仕方なく知り合いの医師の力を借り、福祉施設ではなく、病院としてスタートすることになりました。

 

写真・創設者 草野熊吉の言葉

創設者・草野熊吉の奉仕の精神は
現在でも引き継がれています。

秋津療育園は、公的な力を借りることなく、知り合いの医師、キリスト教団体、地域の婦人会、ボランティアなど、多くの民間の協力者たちの協力を得ながら、手作りで立ち上げた小規模のものでした。草野は医学や教育の専門知識こそありませんでしたが、当時から子どもの残された力を引き出すことで、重い障害をもっていてもその子なりの発達を遂げることを現場で学んでいました。職員に対しては、「口にねじ込むような食事のさせ方をしてはならない」「大根を洗うような入浴をさせてはならない」など、障害のある子どもたちの尊厳を守る指導をしていたと言います。


重症児施設を福祉の根本にすえる


重症児の療育にとどまらず、障害児福祉に関して、現在に至るまで大きな影響を与え続けているのが、「びわこ学園」を創設した糸賀一雄です。糸賀は京都大学で宗教哲学を学んだ後に、小学校の教諭となりました。敗戦後、町に浮浪児があふれている状況に心を痛め、1946年(昭和21)、かつての教員仲間らとともに、滋賀県に「近江学園」をつくり、戦争孤児や精神薄弱児を保護する活動を始めました。ほどなく、戦争孤児は数が少なくなり、保護する児童は、もっぱら知的障害のある児童になっていきました。そして、その中には障害の程度がかなり重い者もいました。

1954年(昭和29)、糸賀は集団での活動が難しく、医療的なかかわりが必要な児童を集めて、当時の医務研究部長だった小児科医の岡崎英彦と数名の保母や看護師が担当するグループとして、近江学園の診療所内に「杉の子組」を発足させます。「杉の子組」には、重い知的障害に加えて、てんかん、脳性まひ、自閉症、強い行動障害などのある子どもたちが所属しました。この「杉の子組」が発展し、1963年に重症児施設の「びわこ学園」となります。
 
写真・現在のびわこ学園

現在のびわこ学園(医療福祉センター草津)


糸賀は、国の制度として社会からも顧みられることのなかった重症児と現場で向き合い、意思表示も難しい重症児の子どもたちが、療育を通じて、その子なりの成長を見せる姿に心を動かされます。施設に保護された子どもたちは、職員によって支えられているだけではなく、自己実現していく姿を示すとし、その営みは世を照らす光になると考えました。糸賀は、施設を「理解と愛情に結ばれた新しい社会形成のための砦」と位置付けます。施設の役割は、リハビリテーションによって、社会復帰を促すだけではなく、「極限的な状況の中に投げ出されている人々の生命と自由を尊重し、そのことを通して、社会に呼びかける役割を担う」ことにあるとしました。そして、施設と地域社会を積極的につなぎ、「障害や欠陥があるからといって、つまはじきにする」社会を変革していくことをめざしました。



木下 真

参照:『草野熊吉―その足跡・著述集』(草野 熊吉)、『福祉の思想』(糸賀 一雄)、『天地を拓く』(津曲祐次監修)

▼関連番組
 『ハートネットTV』(Eテレ)

  2017年1月26日放送 障害者殺傷事件から半年 次郎は「次郎という仕事」をしている
 ※アンコール放送決定! 2017年3月21日(火)夜8時/再放送:3月28日(火)昼1時5分

▼関連ブログ
 知的障害者の施設をめぐって(全14回・連載中)
 第 1回 教育機関として始まった施設の歴史
 第 2回 民間施設の孤高の輝き
 第 3回 戦後の精神薄弱児施設の増設
 第 4回 成人のための施設福祉を求めて
 第 5回 最後の課題となった重症心身障害児・者 1
 
第 6回 最後の課題となった重症心身障害児・者 2
 第 7回 最後の課題となった重症心身障害児・者 3
 第 8回 終生保護のための大規模施設コロニー
 第 9回 大規模コロニーの多難のスタート
 
第10回 政策論議の場から消えていったコロニー

   (※随時更新予定)

 
 障害者の暮らす場所
 第2回 日本で最初の知的障害者施設・滝乃川学園‐前編‐
 第3回 日本で最初の知的障害者施設・滝乃川学園‐後編‐

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