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知的障害者の施設をめぐって 第3回 戦後の精神薄弱児施設の増設

2017年01月20日(金)

知的障害者の施設をめぐって 第3回 戦後の精神薄弱児施設の増設第3回 戦後の精神薄弱児施設の増設
▼ 児童福祉法に「精神薄弱児施設」が規定される
 



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第4
回 成人のための施設福祉を求めて 


Webライターの木下です。
第3回からは戦後の施設の歴史についてです。

敗戦の翌年の1946年、日本は、天皇を主権者とする「大日本帝国憲法」から国民を主権者とする「日本国憲法」へと国の根本を改めました。戦前においては、国家の役に立つ臣民を育成することが国家の役割でしたが、戦後においてはすべての国民が文化的な生活を送り、幸せを追求できるように、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上・増進に努めるのが国家の役割に変わります。

戦前においては、労働力としても兵力としても期待されていなかった知的障害者は、一部の障害の軽い者だけが教育を受けることができただけで、ほとんどの者は社会参加の道は閉ざされ、片隅に追いやられていました。しかし、戦後においては、福祉の対象として意識され、法律的・制度的な福祉措置が講じられていくようになります。


児童福祉法に「精神薄弱児施設」が規定される

 
最初に手を差し伸べられたのは、戦前同様に子どもたちでした。
戦争孤児の数は全国で約12万人に上り、その中には知的障害のある児童も多く含まれていました。政府は孤児・浮浪児の問題に限定せずに、児童福祉の向上をはかるための法律を作成することになりました。そして、1947年(昭和22)に「児童福祉法」が制定され、同法40条に「精神薄弱児施設の設置」という規定が設けられました。施設の目的は、「精神薄弱児を入所させて、これを保護するとともに、独立自活に必要な知識と技能を与える」こととされました。この規定は、知的障害児の福祉と更生に対して、国家責任を明らかにしたという点で画期的なものでした。

また、1951年(昭和26)には、日本国憲法の精神に基づき、すべての児童の幸福をはかるための権利宣言である「児童憲章」が制定され「すべての児童は身体が不自由な場合、または精神の機能が不十分な場合には、適切な治療と教育と保護が与えられる」ことが記されました。

新しい精神薄弱児施設は、「保護」の意味合いから、孤児や生活困窮家庭の者を優先して入所させる傾向にありました。また、「独立自活」を目的にしていましたから、施設に入所できたのは指導訓練の成果が期待される中軽度の児童が主であり、重度の知的障害児や重複障害児は入所が難しかったと言われています。

施設の入所に関しては、他の児童福祉施設と同様に国や自治体が福祉サービスを主体的に提供する「措置制度」が導入され、児童相談所がその任務に当たり、都道府県知事が個々の児童の障害の状況、家庭環境等を総合的に勘案して、入所の要否を決定するとされました。

全国に公立・私立の施設が毎年新設され、戦前には10施設、400人前後の収容人数でしかなかったものが、敗戦後10年を経ると75施設となり、収容人数は4千人を超え、20年を経ると220施設となり、収容人数は1万4千人近くまで達し、さらに増え続けました。戦前からの民間施設も法定施設となり、国から精神薄弱児施設として認可されることになりました。

201701_03_chiteki001.pngこの急速な施設建設の大きな推進力となったのが、保護者たちの団結力でした。1952年(昭和27)には、「精神薄弱児育成会(現・全日本手をつなぐ育成会)」が発足。戦前は知的障害児が家族にいる者は肩身の狭い思いをし、社会に支援の手を積極的に求めていく姿勢はありませんでした。しかし、戦後は、進んで社会に問題解決を求める姿勢に変わり、以来、育成会は知的障害者の地位向上をはかるための強い支えとなっています。

公教育の分野でも改善が見られるようになってきました。文部科学省は、1953年(昭和28)に「教育上特別な取扱を要する児童生徒の判断基準」を定めました。この判断基準は、障害の程度を基準として示し、それに対する「教育的措置」を明示するものです。ただ、この判断基準では重度の障害児で、当時「白痴」と呼ばれる児童については、「現状の学校教育の設備やその他の条件で教育不可能である」として、就学免除の扱いとし、「精神薄弱の施設に早期から収容してもらって、養護を中心とした取り扱いを受けるとよい」とされました。すなわち、軽度の障害児は学校教育の対象とし、重度の障害児は施設へと分離して措置する方向が明示されたのです。

戦前の民間施設と戦後に設置された精神薄弱児施設の違いは、戦前が主に教育を目的とする施設であったのに対して、戦後は「自立生活のための知識技能を与えることを目的とする」とされ、教育よりも生活技能の習得の側面が強くなったことです。戦前にも将来の職業生活を意識した訓練は行われていましたが、教育という観点からは、戦後に新設された施設の方が、質的には下がったと指摘する専門家もいます。また、原則的に教育は学校で行うものとされ、施設ではどれだけ質の高い教育が行われても、それを教育とは認められなくなりました。

写真・温室作業温室作業 写真・籐をつかった作業藤を使った工芸作業

 戦前の民間施設でも、教育だけではなく、農作業などを通じて生活力を養うことも行われていました


児童保護法のもとで精神薄弱児施設を中心に施設福祉が進むことで、処遇の改善は見られるようになりましたが、いくつかの問題点も浮上してきました。

1 ) 児童福祉法の適用範囲である18歳をすでに超えている成人の保護収容ができない。とくに18歳(場合によっては20歳)を超えても自立生活が難しい年齢超過者を保護する法的根拠がない。
2 ) 年齢超過者を施設内に留め続けると、新たな児童の受け入れが難しくなる。
3 ) 年齢超過者を保護収容するためには、生活や労働の場としての整備が必要になる。
4 ) 将来の自活生活が期待できない重度の知的障害児や複数の障害のある重複障害児の受け入れが難しい。
5 ) 精神薄弱者施設は収容施設なので、自宅で暮らすものが通うことができない。
6 ) 施設が一気に増加したが、知的障害に理解があり、入所者に寄り添える職員を多数養成し、確保していくのが難しい

このような課題を踏まえて、1953年(昭和28)には、「中央青少年問題協議会」は知的障害児に対する諸対策を総合的に樹立し、国民の理解と協力のもと、その福祉を積極的に保障する「精神薄弱児対策基本要綱」を作成しました。各省はこの方向づけに基づいて、総合的に施策を進めるようになりました。この基本要綱の決定によって、収容保護のための諸施設の整備なども次々に強化されていきました。

さらに、1956年(昭和31)には、児童福祉法の一部が改正され、特殊学級や特殊学校の就学猶予や免除を受けた中程度の障害のある児童が、保護者の元で暮らし、独立自活に必要な知識技能を養うための通園施設の設置も決められました。

その後、高度成長期には、「精神薄弱児愛護協会」や「精神薄弱児育成会」などが国に働きかけながら、成人や障害の重い者の課題を解決していくための活動が展開していくことになります。


 

木下真

写真提供:滝乃川学園
参照:『国立のぞみの園10周年記念紀要2014』「国立コロニー開設に至る道のり」(遠藤 浩)、『施設養護論』(浦辺 史/積 惟勝/秦 安雄 編)、『知的障害者教育・福祉の歩み 滝乃川学園百二十年史』(滝乃川学園)

▼関連番組
 『ハートネットTV』(Eテレ)

  2017年1月26日放送 障害者殺傷事件から半年 次郎は「次郎という仕事」をしている
 ※アンコール放送決定! 2017年3月21日(火)夜8時/再放送:3月28日(火)昼1時5分

▼関連ブログ
 知的障害者の施設をめぐって(全14回・連載中)
 第 1回 教育機関として始まった施設の歴史
 第 2回 民間施設の孤高の輝き
 第 3回 戦後の精神薄弱児施設の増設
 第 4回 成人のための施設福祉を求めて
 第 5回 最後の課題となった重症心身障害児・者 1
 
第 6回 最後の課題となった重症心身障害児・者 2
 第 7回 最後の課題となった重症心身障害児・者 3
 第 8回 終生保護のための大規模施設コロニー
 第 9回 大規模コロニーの多難のスタート
 
第10回 政策論議の場から消えていったコロニー

   (※随時更新予定)

 
 障害者の暮らす場所
 第2回 日本で最初の知的障害者施設・滝乃川学園‐前編‐
 第3回 日本で最初の知的障害者施設・滝乃川学園‐後編‐

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