クローズアップ現代トップ > みんなでプラス > いま言葉にしたい気持ち ~東日本大震災 あの日から~
いま言葉にしたい気持ち ~東日本大震災 あの日から~

いま言葉にしたい気持ち ~東日本大震災 あの日から~


このサイトでは東日本大震災で、親や家族など大切な人を失った子どもたちの“いまの気持ち”を、誰かとの対話を通じて記録していきます。
記録した対話はこちらでテキストや動画などの形で掲載します。 プライベートな話などはのぞき、ありのままの言葉を残していきます。
取材協力:あしなが育英会/みちのく未来基金

<対話>
「かっちゃんがもし、遊びに来てなかったら…」 - わたし×親友【前編】- 2021年6月11日 公開
「頑張りたいよね、いいことばかりじゃなかったけど」 - わたし×親友【後編】- 2021年6月11日 公開
わたし×学習支援NPO職員【前編】- 東京進学を前に語る 家族のこと、将来のこと - 2021年4月17日 公開
わたし×学習支援NPO職員【後編】- 東京進学を前に語る ふるさとのこと、生き方のこと - 2021年4月23日 公開
わたし × 中学時代の先生【前編】- いま振り返る 「命について考える」作文 - 2021年3月27日 公開
わたし × 中学時代の先生【後編】- 身近な家族にこそ語れない思い - 2021年4月3日 公開
わたし × 祖母 × 中学時代の先生 - 語れなかった10年…祖母と孫 いま交わす言葉 - 2021年4月10日 公開
わたし×支援団体の代表【前編】  2021年3月13日 公開
わたし×支援団体の代表【後編】  2021年3月20日 公開
わたし×中学時代の先生  2021年3月10日 公開
わたし×NHKのディレクター  2021年3月5日 公開

<トピック>
“あのね”と言える相手はいますか? ーあしなが育英会・西田正弘さんに聞く【前編】 - 2021年5月28日 公開
“震災10年”ってなんだろう? ーあしなが育英会・西田正弘さんに聞く【後編】- 2021年6月5日 公開

震災で同じような経験をされ「私も誰かに話してみたいことがある」という方はこちらのフォームに、ご自身の体験とともにお寄せ下さい。その対話の場作りや記録のお手伝いをNHKがさせていただきます。

また、それぞれの対話記事にはコメントを書き込むことができます。対話を見てあなたが感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。

コメントを書き込む時のお願い
対話をした人の言葉は、彼ら自身が経験して、発した言葉です。
✓ 対話をした人の気持ちに配慮した投稿をしてください
✓ 対話をした方々へのアドバイスはご遠慮ください
✓ 投稿前に、その投稿がもつ意味をいま一度見直してください

上記の注意点が守られていない場合、当該箇所を削除してコメントを公開、 またはコメントを非公開とさせていただくことがあります。あらかじめご了承下さい。


関連番組
3月13日(土)午後9時~午後9時50分 放送
NHKスペシャル「大震災と子どもたちの10年 いま言葉にできること」


あなたのご意見募集しています!
このテーマのコメント 2
このテーマへのあなたの気持ちは?
2021年6月11日

「頑張りたいよね、いいことばかりじゃなかったけど」 - わたし×親友【後編】-

東日本大震災で、親や家族など大切な人を失った子どもたちの“いまの気持ち”を、誰かとの対話を通じて記録する「いま言葉にしたい気持ち」
「家族」「生き方」「人生」…個人の名前が出る話などはのぞき、ありのままの言葉を残していきます。

東日本大震災で母を亡くした浅田 太一さん(19歳)と、小学校からの親友である“かっちゃん”こと田中 克弥さん。引きこもりがちだったときのこと、大学への進学…ずっとそばにいた二人が、改めて当時やこれからについて語り合いました。




動画が再生されます(音声が出ます)

浅田 太一さん(19)
岩手県大槌町出身。震災前はシングルマザーとして保険会社で働いていた母の千賀子さんと姉、2人の妹の女性4人に囲まれて育つ。小学3年生で被災し、最愛の母・千賀子さん(当時28歳)を津波で亡くす。祖父母に引き取られるものの母を亡くした心の傷を抱え、中学1年の時に不登校に。その後、スクールソーシャルワーカーや家族の支えを受けて引きこもりから抜けだし、去年大学受験をして、晴れて仙台の大学に合格する。今は自分と同じような境遇の子どもを支援できる大人になりたいと、社会福祉士を目指して大学で学んでいる。

田中 克弥さん(19) 愛称 “かっちゃん”
岩手県大槌町出身。震災後に浅田さんが田中さんの家の近所に引っ越してきたのをきっかけに友達に。小中学校時代、浅田さんが学校に来ないときは家にまで行って声をかけ続けた。田中さんは浅田さんより1年先に仙台の専門学校へと進学。浅田さんの受験勉強も支えてくれた。


“不登校”からの脱却 きっかけは恩人との出会い
中学生のころの2人  左:田中さん 右:浅田さん

高校生になっても、浅田さんはゲームに没頭し、不登校の日々が続きます。定時制の高校に進学しましたが、自分が本当にやりたいことを見つけられないまま勉強にも身が入らずにいました。

田中さん
学校行かなくなって、正直そこに悔いはどう?ある?やり残したこととかもう少しこうしとけばよかったなとか、あった?もう少し頑張れたなみたいな。

浅田さん

こうしとけばよかった、か。どうだろうな。でもね、今の状況が正解かはわかんないけど、あの状況の俺からしたら、たぶん辛かったろうけど、たぶんね、もしかしたらあのまんま頑張っていたら頑張っていたで、今と全然違うと思うんだよね。なんか進路とか全然違うと思う。
田中
俺も、太一はあのまま自分を打ち明けずに、そのままずっと進んで就職かなにかしてたんじゃないかと思う。あんまりやりたいことがない、みたいな。あのままで終わってたし。

浅田

そうそうそう。本当にね、あの頃はまだね。あんまやりたいことないけど一応モチベーションのためだけに目標として看護師みたいなのあったけど、それもやりたくてやっているわけじゃなかったから、正直ね。
田中
看護師って普通の学校に行っても難しいから。正直、考えた方がいいかなって俺はずっと思ってた。つらいだろう、絶対って。

浅田

そうそう。でも定時制高校を辞めた後に色んなこと経験したからね。


浅田さんは高校3年生の時、出席日数が足りなくなり卒業が危ぶまれたことから、定時制の高校を辞めて通信制高校へ編入します。その頃、祖母が太一さんの気持ちをくみ取り、環境を変えようと町の中心部に引っ越しをしたこともあり、だんだんと外に目を向けるようになります。
引きこもりから抜け出す大きな支えとなったのが、恩師のスクールソーシャルワーカー、ナム・キョンウォン(南・景元)さんです。ナムさんは震災直後から足繫く浅田さんの元に通い、浅田さんと家族を支え続けてくれた恩人です。ナムさんは浅田さんを見捨てず、外に出るきっかけを作り続けてきました。

右:浅田さんを支えた スクールソーシャルワーカーのナム・キョンウォン(南・景元)さん


田中さん
通信制高校に通うことが大きなターニングポイントでもあったんだよね、自分の。それで通信制になって、ナムさんとかとも話す機会が増えたじゃん。

浅田さん

通信制になって、余裕というか暇ができたから、ナムさんとよく毎週毎週会って、話して。その中でナムさんが俺のために、いろいろなことを計画してくれた。その中で、引っ越したり、自分が大人になったりっていうのもあるから、そこで変わるきっかけを作ってくれたナムさんもいるし。だから正直、結局ね、途中はあれでも、終わりがよければなんでもいいからね。
田中
誰でも何かちょっと道外れる事はあるから。人生失敗してもね、それで学んで、それがいい方向にいけばいいけど。いい方向に行かなかったらそれに、導いてなおしてくれる人もいるから、こっちだよっていう道を作ってくれる人もいるから。そこでいなかったらおしまいだけど。

浅田

そうだね。結局失敗して、それをいい方向につなげられるようにね。 でもやっぱり、結果良ければっていうけど、確かに俺も結果大事だなって思うけど、いくまでの過程もさ、ちゃんと無視せずね、理解した上で頑張ればなんとかなるからね。辛いこともあるだろうけどね。


「いいことばかりじゃなかったけど…」 2人が思い描く将来

浅田 太一さん



約6年にもわたり、ひきこもりがちだった浅田さんですが、ソーシャルワーカーのナムさんと過ごす中で、子どもたちの声を聞き、支える仕事に興味を持ちました。そこから得意のオンラインゲームの中で不登校の子どもたちと交流をはじめると、自分と同じような境遇の子が多いことに気づきます。そうした子どもたちの気持ちに耳を傾けて支援したいと、社会福祉士になる夢を持つようになりました。一念発起して勉強し、この春、社会福祉士の資格を取るために仙台の大学に進学しました。そして同じように田中さんも、人に寄り添い支えたいと理学療法士をめざしています。2人が思い描く将来像とは。

田中さん
これからどうしたいとかある?やりたいみたいな。

浅田さん

やりたいこと?まずはやっぱり一番の目標は、社会福祉士の資格の勉強頑張って、しっかりと資格を取るでしょう。その中で高3の頃にやった、“オンラインソーシャルワーカー”みたいなものや、それに似たようなことが出来たらいいなと思っているけどね。いろいろなこと経験したからね、俺は。その経験を生かしてね、この職っていうか、社会福祉士に生かせること、多分たくさんあると思うから。頑張りたいよね。いいことばかりじゃなかったけどね。その悪いことも多分、いいことっていうか、生かせること多いからね。
田中
確かに、太一の人生は、山あり谷あり。

浅田

普通じゃなかったね。
田中
普通じゃなかった。でも、俺から見てよく乗り越えたなって思う。上から目線になっちゃうけど。

浅田

そうだね、今思えば、いい経験だったなって思うからね。本当いい経験だったよ。こういう経験たぶんできる人ってたぶんいないからね。経験しない方がいいんだけど。 経験したからこそわかることもあるからね。考え方も変わったりするし。そうだね、いい経験だったな。かっちゃんは?


田中 克弥さん


田中
俺?俺もまずはやっぱり勉強がんばって、理学療法士の資格取れるように。1年生、すごく苦労したから、2年生は苦労しないように、勉強頑張んなきゃなんないし。3年生上がるためにもね、頑張んなきゃいけないし。だから、勉強頑張って資格が取れれば一番いいかな。

浅田

頑張って。俺も頑張るか。一緒に資格取りたいな。かっちゃんと。
田中
お互い頑張りましょう。

浅田

うん。俺、スクールソーシャルワーカーも取りたいんだけどね。取れるかな。あやしいな。かっちゃんはもう理学療法士の資格とったら、就職どこでするの?帰ってくるの?
田中
まずはでかい病院とかで技術というか、知識を豊富にして。最後はでも、やっぱり恩返しっていう気持ちがあっから、地元に。地元か近くの病院行ければいいかなって。 知り合いとかしっかり見てあげられるぐらいの場所っていうか。太一はどうなの?

浅田

どうだろうな。地元にはスクールソーシャルワーカーはナムさんがいるからね。俺からしたら「ナムさんいるから大丈夫でしょ」っていう感覚はあるけどね。
田中
一緒に働けば?2人で働くのは夢とかじゃないの?

浅田

それは確かに面白いよね。でも、俺もかっちゃんに似てるかな。最初は俺もまだ帰らずに、経験積んでから帰るのは全然いいんじゃないかなって。でもナムさんと一緒に仕事したら面白そうだけどね。かっちゃんもその頃、大槌に帰って来ていたら、なおさら帰ってくるかもね。


なぜ、この対話の場に?


浅田さんの閉ざされたこころの扉を開けようとし続けた田中さん。そして田中さんの思いを受け入れた浅田さん。心の奥底で通じ合っている2人だからこそできた、2時間に及ぶ対話。
今回浅田さんに誰と話をしたいか聞いたところ、真っ先に「かっちゃん」と田中さんの名前をあげました。なぜ、今回この対話に浅田さんは田中さんを選び、この場に臨んでくれたのか。対話を終えた後、その理由を聞きました。

浅田さん

こういう場だからこそ、かっちゃんにそのとき思っていたことや、「ありがたかったよ」と、恥ずかしいですけど、感謝の言葉だとかを言えたと思う。言える場面でもあると自分も思っていたので、感謝を伝えたかったという気持ちがあるので。自分のためなのかな、わからないですけど、それともう一度「かっちゃんがいてよかった」という気持ちを再確認できてよかった。
この場で過去の自分がどういう立場だったか確認する機会になったし、今回はかっちゃんに感謝の言葉を伝えて、これからいろいろなことで頼ったり、こっちもサポートしていきたい気持ちが一段と強くなりました。これからの生活がより一層楽しみにもなりましたし、これからの仙台で大学生として生活していく気持ちがより一層楽しみなものになったかなと思います。
田中さん
自分的にはけっこう話したりもしてきた中、今までの気持ちを再認識、どう思っていたかを確認したり…この場を通して太一と話せてよかったです。最近コロナの影響で会えなかったので、話したいという思いがあり、ちょうどいい機会だと思い参加しました。
普段から会った時にはたくさん話をよくしますが、昔こう思っていたという太一の意見は聞きづらかったです。こういう機会があって、話せたのはいい経験でした。太一の通わなかった、不登校気味になったときにどう思っていたのかはずっと気になっていたので、聞けたことは一番よかったです。





浅田さんを取材した他の記事・動画
“孤独の檻”にいた僕は…(NHKニュース)
母に伝えたい19歳の決意(こころフォト)


「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見て感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。



トップページに戻る
2021年6月11日

「かっちゃんがもし、遊びに来てなかったら…」 - わたし×親友【前編】-

東日本大震災で、親や家族など大切な人を失った子どもたちの“いまの気持ち”を、誰かとの対話を通じて記録する「いま言葉にしたい気持ち」
「家族」「生き方」「人生」…個人名が出る話などはのぞき、ありのままの言葉を残していきます。

浅田 太一さん、19歳。東日本大震災の津波でシングルマザーだった母を亡くしました。当時は小学3年生、その後、震災がきっかけで引きこもりがちな生活を続けていました。
そんな浅田さんのことを気にかけていたのが、小学校来の親友である“かっちゃん”こと、田中 克弥さんでした。この春浅田さんは「自分と同じような境遇の子どもを支えたい」と社会福祉士を目指して仙台の大学に進学しました。孤独を抱えた日々、そしてこれからのこと…親友同士が語り合った記録です。



動画が再生されます(音声が出ます)

浅田 太一さん(19)
岩手県大槌町出身。震災前はシングルマザーとして保険会社で働いていた母の千賀子さんと姉、2人の妹の女性4人に囲まれて育つ。小学3年生で被災し、最愛の母・千賀子さん(当時28歳)を津波で亡くす。祖父母に引き取られるものの、母を亡くした こころの傷を抱え、中学1年の時に不登校に。その後、スクールソーシャルワーカーや家族の支えを受けて引きこもりから抜けだし、去年大学受験をして、晴れて仙台の大学に合格する。今は自分と同じような境遇の子どもを支援できる大人になりたいと、社会福祉士を目指して大学で学んでいる。

田中 克弥さん(19) 愛称 “かっちゃん”
岩手県大槌町出身。震災後に浅田さんが田中さんの家の近所に引っ越してきたのをきっかけに友達に。小中学校時代、浅田さんが学校に来ないときは家にまで行って声をかけ続けた。田中さんは浅田さんより1年先に仙台の専門学校へと進学。浅田さんの受験勉強も支えてくれた。


出会い、震災、そして…

中学生のころの2人  左:田中さん 右:浅田さん


日ごろから、2人で会うといくら話しても尽きないという浅田さんと田中さん。今回の対話の場でまず語り出したのは、出会った時のことでした。
2人の出会いは小学校4年生の頃。震災後、浅田さんが田中さんの家からほど近い祖父母の家に引っ越してきたことがきっかけでした。同じ学校に通い、クラスが違う時も通学バスではいつも隣の席に座り、ほとんど毎日放課後には一緒にゲームをするほどの仲良しになりました。

浅田さん

最初の時間さかのぼって、会うきっかけになったのは、まず震災があって小学校にみんなが来てからだね。
田中さん
最初の印象では、あんましゃべらない子だと思ってたよ、太一。 来た時もしゃべるような感じじゃなかったじゃん、ゲーム持ってて、静かにやってたぐらいだったから。

浅田

そうだね、最初、初めて話したのが、学校から帰ってきた時だよね。俺、まだ覚えてるよ。「知らん奴いるな、でも顔見たことあんな」って覚えてるわ。そこからだよね、かっちゃんが俺の家に朝、来るようになったのは。
田中
そこから太一も近所に住むようになって、一緒に学校へ行こうってなって、ずっと朝、毎朝行ってたね。ほとんど小学校の頃なんてさ、学校帰ってくれば、ほとんどのように毎日5時過ぎまで遊んでたよね。Wiiして。


浅田さんと母・千賀子さん

小学校時代の話で盛り上がる2人。話は、浅田さんが不登校になった中学校時代に及びます。母を亡くし、こころの傷を抱え続けた浅田さんは、小学校時代は保健室通いが多く、中学に入ると徐々に引きこもりがちになっていきました。
田中さんは浅田さんが学校に行くきっかけを作ろうと、毎朝浅田さんを起こしに家に出向いていました。しかし、田中さんも中学校に入学すると部活が忙しくなり、家に遊びに行く回数も減っていきました。その時の悩みについて初めて田中さんが口にしました。すると、浅田さんも引きこもり始めた当時の思いを明かしました。

浅田さん

中学1年生で学校に行かなくなって、でもそこで、かっちゃんがプリント届けに来てたよね。
田中さん
中学2年生からだったね。先生に頼まれて、「分かりました」って言って、その時に家に来ていた太一の伯母さんの生まれたばかりの子どもを見たんだよ。太一がいなかった期間で初めて行ったら、「生まれてる」ってなって、子守りしてた。なんで俺が、血繋がってない人の子どもを先にみるのかなって。

浅田

俺より先にね。
田中
そう。そこから部活が忙しいからって、なかなか俺も行けなかったじゃん。それで俺もね、なんか思ってたんだよね。「俺がやっぱり行けてなかったのが悪かったかな」とか。

浅田

いや、でもかっちゃんのせいではないでしょう。
田中
ずっとね、そこらへん考えてた。なんか忙しくて遊びに行けなかったなって。来ないのもなんか申し訳ないなって。「俺が行ってあげれば変わるかな」とか、ずっと考えてた。

浅田

まじで?どうだったろうな、あの頃は。今思えばでもあの頃結局、学校休みがちになってから、その伯母だとか、祖母とかと仲悪かったからさ。毎週のように喧嘩してた。反抗期的でもあるし。休むようになったから、やっぱ言われるじゃん。「(学校に)行きなさいよ」みたいな。
田中
「うるせえよ」みたいな。

浅田

でもね、あんまり言い返さなかったな。「はいはい」って言ってもう聞き流してたね。
田中
休んだ時って、大体何してた?俺、あんま詳しく確か聞かなかった。

浅田

うん。夕方まで、大体5時とか6時ぐらいに起きて、ご飯食べて、ゲームして寝るみたいな。もうご飯もだって、その時、俺1日1食しか食ってない。なんなら食わない日もあった。
田中
うそ?一回、太一に届けさ行くって、プリントとか。その時に(太一を)呼んだら、まだ寝てて。太一のおばあちゃんたちもいなくて「どうしよう」ってなってたのね。勝手に入るのもあれだなって思って。「太一、起きてくれ」ってずっと思っていた。



語れなかった“孤独”

浅田 太一さん


浅田さんはなかなか部屋から出られず、引きこもりはどんどん深刻になっていきます。誰も自分を理解してくれない――ゲームをしている時だけが心が安らぐ時間だったと言います。結果、1日12時間以上オンラインゲームをし、昼夜逆転の生活。1か月間、一歩も外に出ない時期もありました。
太一さんの子育てについて、里親の祖母の悩みが深刻になったことが理由で、児童相談所に浅田さんが一時預けられた時期もありました。その時期のことは、親友のかっちゃんにもなかなか語れずにきました。 

浅田さん

体育祭とか近くなると、先生にも「来られない?」みたいに言われて。
田中さん
「途中からでもいいから」みたいな?

浅田

そうそう。俺もね、正直本番出るんだったら、練習しとかないと、本番多分厳しいなと思って。練習には何回かは行ってたな。ま、文化祭は出られんかったけどね。マジ、文化祭に出られなかったのは、俺は結構悔しかったな。そのとき、児童相談所に預けられてて。 
田中
あの時期、不思議やったもんね。「あれ、最近までいた太一がいない?どこさ、いった?」って。さすがにさ、「太一どこに行ったんですか」って聞くにも聞けなくて。だからそっとして、深くは聞けなかった、あの時。

浅田

児童相談所に1週間、いたからね。いや、でもね、俺ね、案外そういう環境に慣れるのは早いからね。児童相談所にすぐは慣れたけど。でもね、行く前からわかってたけどね。児童相談所に行くぐらいで直るとは思わないけどなって。結局だって、生活習慣直したところで、行けるかっていう感じはあったからな、俺の中で。1週間行って、その後ね、1か月(児童相談所に)行きそうになったんだよね。 
田中
そうなの?

浅田

中2の頃に、「今度は1週間じゃ駄目だから」って言って、盛岡の施設に預けて、同じような境遇の子どもたちが暮らしている施設に預けて、1か月転校するみたいな話だったんだよね。 先生も、クラスの人たちには「なんて言う?」みたいな。転校したことにするのか、休んでいることにするのか、1か月くらい来られない話にするのかって話したな。
田中
でも、結局行かなかったんだね。

浅田

結局行かなかった。もう俺、怖かったもん。俺が半べそかいて粘ったの。


田中 克弥さん


浅田さんはいまは饒舌に話していますが、田中さんによると中学時代は自らの思いを誰かと話すことはなかったといいます。田中さんも当時を振り返り、「もっと浅田さんと話しておけば…」と後悔する思いを抱えていました。

田中さん
その時から太一さあんま俺にも、悩みっていうかさ、自分の困っててみたいなのを全然打ち明けなかったじゃん。ずっとなんか自分で持ってるタイプだったね。本当に高校になってからだよね、表に出すっていうか、「こういうの困ってるんだよね」みたいなこと言うようになったの。正直だから、もっとね、頼ってもいいのになってずっと思ってた。

浅田さん

中学の頃はな、やっぱり味方がいないと思ってたからね、完全に。もう自分一人で勝手に考えて、もう何言われようと。
田中
隣にいるやん。

浅田

っていうね。かっちゃんからしたら多分、俺に何も話されてないって思っているけど、俺からしたら、かっちゃんには割と話しているほうだったよ、あの時。それこそ児童相談所の人が嫌いだっていう話、かっちゃんにしてたでしょ。俺からしたらあの時はもう精一杯かっちゃんに話してた。
田中
俺がそう思ってるだけか。あれが精一杯か…そうだな。



なぜ、扉を叩いたの?


お互いを思いやり、時に距離を置きながら接してきた2人。
「なぜかっちゃんは浅田さんの閉ざされた心の扉をたたき続けたのか――」
対話の合間に、2人をよく知る記者がかっちゃんにたずねてみました。

田中さん
やっぱり俺は知っていたから、太一のこれまでを。それを助けられたらなみたいな。そういう友達がいると助けられたら、役に立てたらなっていう気持ちがあったから俺はずっと続けてただけであったっていう。

浅田さん

いやあ、助かりました。でも本当にね、かっちゃんが週の終わりごろに来て、相談っていう相談はあんまりしていなかったにしても、かっちゃんと話す時間は俺の中じゃ安らぎの時間っていうか、気が楽な時間だったからね。
田中
あれだよな、結構俺が毎回帰るときに困ったことねえかって聞いてたじゃん。覚えてる?

浅田

ああ。言ってた言ってた。まあでもね、正直あの頃はやっぱなんだろうね、まだ子どもだったからさ、家のことでの悩み事を友達に話すっていうのは、こっ恥ずかしいじゃん。家のことじゃない悩み事は、かっちゃんになるべく話してたけどね。
田中
まあ他人、他人っつうか別に血が繋がっているわけじゃないしな。喋ったところでという思いもあるしね。

浅田

そういう話は結構かっちゃんにはしていたね。かっちゃんはたぶんね、もっと話してくれって感じだったから、たぶん少なく感じていただけで、俺からしたら割とかっちゃんには話していたなあって感じあったよ。
田中
それは悪いな。「もっとあるんだったら言っていいのにな」って思ってたから。 絶対(話したいことが)あるんだろうなって思ってたけど、まあそこは言わなかったけど。

浅田

かっちゃんがもし遊びに来てなかったらさ、文化祭だとかそういうとこに行ったときにかっちゃんがいるっていう安心感がないからさ、たぶん絶対参加してなかったと思うんだよね。



対談は《後編》に続きます



浅田さんを取材した他の記事・動画
“孤独の檻”にいた僕は…(NHKニュース)
母に伝えたい19歳の決意(こころフォト)

「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見て感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。


トップページに戻る
2021年6月5日

“震災10年”ってなんだろう? ーあしなが育英会・西田正弘さんに聞く【後編】

東日本大震災で親を亡くした子どもたちを支援してきた「あしなが育英会」。去年行った調査では、3人に1人の子どもが「自分の気持ちを誰とも話さない」と答え、10年が経つ今も、深い喪失感を抱えていることが浮かび上がりました。

被災地3か所に設置された支援拠点「レインボーハウス」では、この調査を受けて、子どもたちやその保護者がどんな10年を歩んできたか聞き取りを進める予定です。 子どもたちと向き合う中でこの10年をどう受け止めて、今後どう支援につなげようと考えているのか、所長を務める西田正弘さんに聞きました。

(聞き手:「いま言葉にしたい気持ち」プロジェクト ディレクター 岡部 綾子)


関連番組 NHKスペシャル「大震災と子どもたちの10年 いま言葉にできること」

西田正弘さん(60)
一般財団法人あしなが育英会が設置した「東北レインボーハウス」の所長 兼 心のケア事業部長
阪神・淡路大震災では、神戸で親を亡くした子どもたちの支援を経験。宮城県仙台市・石巻市、岩手県陸前高田市と3つのレインボーハウスの所長に2015年に就任。東北のグリーフサポート(心のケア)の拠点として尽力されるとともに、担い手(ファシリテーター)の養成にも取り組む。

新たに始めるインタビューの取り組み
アンケートの結果を受け、西田さんたちが春から準備を進めているのが、18歳以上になった子どもと、その保護者それぞれに対してインタビューをするという取り組みです。来年3月まで継続的に実施したいとしています。あしなが育英会としても初めての試みなんだそうです。


西田 正弘さん(写真中央)


――まさにこれからインタビューが始まっていくんですね。

 アンケートを取らせて頂いて、その中で「もし良かったらお話を聞かせて頂けませんか?」と尋ねたら18歳以上の遺児と保護者の方あわせて30人ほどに了承いただいたんですね。私たちが聞き役になることで、一人ひとりの10年の歩みみたいなものを一緒に大事にできると良いなって率直に思っています。

――なぜ、いま実施することに?

 彼らの声を通して、まだ聞こえてきてない声っていうのをきちんと受け取ることは、日本という社会にとっても非常に大事なことなんじゃないかなって。結果として語られたものが、個人としてのストーリーなのではなくって、日本の社会に生きている1人のストーリーから、やっぱり何を社会として大事にしないといけないのかなみたいな。そんなものが、少しでも見えてくると、この10年歩んでこられた一人ひとりの生き様みたいなものが、ご本人だけではなくて、社会的な力・財産になっていく可能性もあるのかなって、そんなことを僕自身は考えたり感じたりしています。

――「聞こえてきてない声」って、すごく印象的ですね。

 「サイレントグリーフ」っていう言葉があるんですね。「沈黙の悲しみ」って。自分の大事な人を亡くしたりとか、大事なものを失ったりとか、そうした出来事で感じる気持ちをグリーフと言います。自分の言葉でしゃべってみることで、「これ何?私はこんなふうに感じてたの」っていうふうに自分自身で気がつく、自分の中にもまだ言葉にできていない、いろいろな思いがあったりしますよね。言葉にしてみて、「こういうふうに考えていたのか」って自分で気がつく。

語り手自身の中にもサイレントな部分が多分あるんじゃないかなって思うんです。社会の中でもサイレントになっている部分、まだ聞こえてきてない声があるんじゃないかなって、そのサイレントの部分を話し手と聞き手で分け持つっていうのもありだと思うんです。結果的にそれが、社会のいろんな人と「そういう気持ちもあったのね」というように、分かち合える、そんなふうになると、さらに良いのかなって思いますね。

私たちの日頃の生活って、朝起きて学校行くとか仕事行くとか、だいたい、頭の中に「これをやってあれやって」とか「こうなればいいね」って、効率とかスピード重視で、時間が流れていますよね。そういう時間の中では、なかなか「あのね」っていうタイミングがない。自分の心情とかって見失われがちですよね。でも、時間を共有することで生まれてくる言葉やキャッチボールもあるんじゃないかなと思うんですよね。今までもそんな経験をしてきたところがあるので。

――子どもが感じてきたことが、インタビューの中に、もしかしたら、少しずつ言葉になって出てくるかもしれないと?

 そうですね。インタビューOKっていう人も、日常の中に効率重視じゃない時間が、もし作れたら、まだ声になっていない悲しみとか、言葉になりつつある何かを、僕たちが分け持てるところがあるかなと思うんです。

レインボーハウスで提供しているプログラムは、レインボーハウスという空間で、同じような体験をした仲間と共に、日常生活を離れて同じ時間を過ごします。これを「時間」「空間」「仲間」の“三間”<さんま>と呼んで大切にしているんです。人間って、「人の間」って書きます。誰かと誰かの間に、コミュニケーションが生まれるなどの関係性があるんです。その「間」の大事さが、あんまり気付かれてないのかなっていうか、失ったことにさえも、あまり気が付いてないのかなと思うことがあります。

いま“三間”は満たされていません。リモートで会議をやっていても、間が足りないんですよね。立ち話ができない。立ち話の方に意味があるとは言いませんけど。大事なんですよね。子どもたちも学校へ行って、塾に行ってとか、時間の流れが決まっていて遊びがない。よくジョイントみたいなものが、あまりにきついと壊れちゃうみたいな。少し余裕をもってつながっているから、伸びたり何だりできるというのがありますよね。大人も、コロナ禍で仕事と家の行き帰りだけだったら、隙間が無くなっていく。だからそういう遊びの部分が本当は、ムダな時間ではないんだろうと思います。けどムダなものだとされていると少し感じますけどね。



――話を聞きに行く西田さんたちのインタビューの場は、そういう意味ですごく大事ですね。

 家族の間でもなかなか大事なことは触れづらいみたいなところがあるじゃないですか。そこで、3人称みたいなちょっと離れた人じゃなくて、家族みたいにピタっと近い人じゃなくて、その間の2.5人称みたいな、離れていないけど、くっつき過ぎないぐらいの、そして、自分の事を大事に思ってくれているような人との関係性が、すごい大事かなと思うんです。

――そういう思いで、東日本大震災からの10年を続けてらっしゃったんですね。

 阪神・淡路大震災のときにも避難所をまわって、親を亡くした子どもたちを支援する目的で、あしなが育英会は活動していましたので、ひょっとしたら、よけいなことかもしれないと思いつつも、何かお手伝いできることはないか・・・ってやってきました。

ただ、神戸で「私たちを見つけてくれてありがとう」って言ってくれた子がいたんですよね。だから、やっぱり子どもは、自分にちゃんと眼差しを向けてくれている人がいると、その後の人生を歩んでいく時に、力になる可能性があるんだなと体験したので、神戸の経験を頼りにしながらつながりをつくってきました。

――西田さんはこの10年、子どもたちの変化とか、活動の中で見えてきたことを、どう振り返りますか?

 そうですね、今もつながっている子どもの中で一番小さい子が、当時、お母さんのお腹の中にいた子なんです。今年の4月から小学校4年生になりました。やっと10歳ですよね。その子にとってみれば、今年の年明けにあった2月・3月の大きな地震。人生最大の地震で本当にびっくりしていました。

その子はお父さんが亡くなっているんですよね。良い機会だと思って、お母さんは東日本大震災の3月11日当時のことを話しましたって。そうすると、これから起きるかもしれない震災とか災害に対して、どんなふうに身の安全を守って生きのびるかを、3.11で親を亡くした彼ら自身が突きつけられるようなことになるわけです。

10年ぐらい経過した時点で、改めて3.11を理解する。そしてその時に、震災で親を亡くした経験とか体験が、彼らにどんな影響を及ぼすのか、どんな思考になるか…、それはひょっとしたらサポートが必要になってくるかもしれないと思ったりしますよね。



“行きつ戻りつ”それぞれの10年
――悲しみの変化って、必ずしも回復への一直線ではないんだなと感じます。

そうですね。「当時お腹の中にいた子などは、お父さんやお母さんがいない、その不在感みたいなものが、強くなってきてる」とアンケートにあるんですよね。亡くなった人を思い出すタイミングが、中高生あたりだと命日とか、亡くなった人の誕生日とか、亡くなった人に関係するいろんな事を見聞きした時、季節の行事とかも入るんですね。成長するに従って、徐々にその「不在感」を強く抱くようにはなってきているなと思いますね、中高生は。彼らは、10年前だと4~5歳ですもんね。

だから、学校行事とかいろんな事を経験する中で、周りの友人にお父さん・お母さんもいたりすると、それによって「自分には、本当にいないんだな」と「不在感」を抱くことが強くなっているんだと思います。

一方で18歳以上の人たちは、もうハッキリと震災によって亡くなったとか、まだ行方不明とかいうことが分かる年齢ですよね。大学生とか社会人になっていく過程で「あの時こうしてればな」みたいな後悔とか、「でも、いてくれてありがとう」みたいな感謝、そんな気持ちになってきているような気がしますね。

――なるほど。お腹の中にいたり、まだ小学校に入る前だったりした子はハッキリとした記憶がなくて、改めて、最近の一連の地震の中でご家族と話すきっかけになったりしているんですね。

どうしても「震災後」とか「被災後」とかっていうふうな言い方をするんですけど、最近知ったのは、災いの間、災害と災害の間を僕らは生きているっていうことですよね。

100年に一度の、1000年に一度の地震とかって言われていましたけど、あれから、熊本でも地震があったし、いろんなところで地震がある。そういう意味で言うと、どこかで必ず地震が起きたりしているわけです。

そういうことも考えると、震災と震災の間を僕らは生きている。神戸にしろ、東北にしろ、熊本にしろ、そういう被災体験をどうやって日々の生活の中で力にしていくのか…みたいなものは子どもたちにとっても、大きなテーマかなと思うんです。僕ら大人も一緒に考えていかないと。

――何か、一人ひとり違う…、ひとくくりにしないで、それぞれの気持ちやタイミングと向き合っていくっていうのが、すごく繊細なことですが、大切に感じます。

 そうですね。それこそ時間が経ったから大丈夫っていうことはないって言えると思うんですよね。電話が1本あるとか、手紙が1通届くとか、その向こうにどんな生活でどんなふうに、いま過ごしているのか…。なかなか想像はできないですけど、その小さな変化を、できるだけ見逃さない、そんな心構えを持続させることが大事なんだなと感じています。

子どもたちがプログラムに参加するたび、自分の身長を刻んだボード
レインボーハウスと子どもたちの10年の歩みを示す証しになっている。

――西田さんは「震災10年」というフレーズを、どんなふうに捉えてらっしゃいますか。

 ある意味、メモリアルにして、それを大事にしましょうというような社会的な動きがあるのも非常に大事だろうとは思うんです。けれども一方で、一人ひとりの当事者にとってみれば、時間で解決しないということだったり、不在感が大きくなるということだったり、10年でキレイに整理がつくわけではないですよね。

それぞれの歩みとか成長の中で、親の不在感は現在進行形であるわけですから、現在進行形なんです。だから1年1年思い起こして、社会的に忘れないようにしましょうというのは、取り組みとして当然あって良いと思います。

ただ、一人ひとりの歩みと混同できなくて、一人ひとりの歩みは、もうちょっと次元の違うところにある。個人のペースがあって、上手くいくこともあるしそうでないこともある。だからこそ、そういう人たちの声にきちんと耳を傾けて、自分よがりの物差しに当てはめないようにしましょうねっていうようなことは、すごい大事かなと思うんです。

――私たちも、テーマを設定せずに、今の気持ち、今話したいことを話せる「場」を目標にサイトを立ち上げました。

 重要な取り組みだと思いますね。当事者の言葉がやり取りできる「場」を作ることで、その場の大事さが、見る人・読む人に伝わる。人と人との関わりが、子どもの歩みを力づけているっていうことも伝わるんじゃないかなと思いますね。「あのね」って言える人がいるっていうのが、誰にとっても、すごい大事だなって。そこは共通かなと思います。

あと対談相手になっている大人が、きちんと眼差しを向けているんだって、大人の役割も結構大事なんだよって、子どもにとって大きい存在なんだよっていうのも伝わるのが良いですよね。皆さん、子どもたちに誠実に関わっているなと感じました。

子どもにとって誠実な大人に出会うっていうのは、人生にとって、大事なことだと思うんですよね。余計なアドバイスはしないで、きちんと聞き手になって、その時点では「あなたは、こうだったよね。こんなふうに感じてたけども」とかって、歩みの生き証人になってあげる。大事な関わり方だなと思いますね。

「いま、どんな?」 対話の時のエチケット
話の途中で、ふと西田さんが教えてくれたのは、子どもと向き合う際に守っているという、ちょっとしたエチケット。安心に安全に会話をするための心配りは、日常生活のいたるところに通じるものでした。
「東北レインボーハウス」所長  西田 正弘さん


 いきなり3.11の話をすると、準備ができてないので、いきなりその世界に戻されてしまう可能性がありますから、それだけは気を付けた方が良いと思います。必ず、今の話題から入るっていうのはすごい大事。「今どんなふうにしてる?」「最近はどんな24時間?」とかっていうところから入って「そう言えば」とかってあの日の話になったり、3.11の話になったり、それ以降の避難所生活とか、学校での出来事とか、3.11に関わる話が出てくる。

そうやってまた、将来の話も出てきて、時間を行ったり来たりするのが良いなと思うんですよね。3.11に、どこか必ずつながってるわけですから、ほぐれてないものもいっぱいあるので。ごく自然に最近のこととか話していたら、ごく自然に3.11につながるし、広がります。

人生の歩みの中で外せないものとして3.11はあるけど、もうそこまで大きくないよ、でも重たいものはまだ残っているよとかって、多分そういう往復運動をしながら対話が進んでいきます。そういうやり方を本人たちが選んでる可能性もありますよね、きっとね。

つながり続けるために
取材の最後、10年の積み重ねをつなげていくために大事なこと、そして震災と震災の間を生きる日本が考えなければならない宿題について話してくださいました。
 サポートする僕らも変わっていく部分がありますから、変化の中で、関わりをどう持続させていくかっていうのは僕らの課題としてあるかなと思います。今までの10年の積み重ねをどうやってバトンタッチしていくか。支援する側の人たちの横のつながりみたいなものも、改めて、どう作っていくのかということもあるのかな。

ありとあらゆるツールで、場を作っていくことが求められているかなと思います。やっぱり「あのね」って話しかけられる人が、一人ひとりにいるかどうか、ここが大きな課題かなと思います。

「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見て感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。


トップページに戻る
2021年5月29日

“あのね”と言える相手はいますか? ーあしなが育英会・西田正弘さんに聞く【前編】

自分の気持ちを「誰とも話さない」と答えた子どもが3人に1人ー―

東日本大震災で大切な親を亡くした子どもたちを対象に行ったアンケートの結果。この10年、子どもたちを支援してきた「あしなが育英会」が去年調査しました。
被災地3か所に設置された支援拠点「レインボーハウス」で、子どもたちと関わり続けてきた職員たちは、アンケートに寄せられた声から何を感じ、今後どう支援していこうと考えているのか?3つのレインボーハウスで所長を務める、西田正弘さんに話を聞きました。

(聞き手:「いま言葉にしたい気持ち」プロジェクト ディレクター 岡部 綾子)
関連番組 NHKスペシャル「大震災と子どもたちの10年 いま言葉にできること」

西田正弘さん(60)
一般財団法人あしなが育英会が設置した「東北レインボーハウス」の所長 兼 心のケア事業部長
阪神・淡路大震災では、神戸で親を亡くした子どもたちの支援を経験。宮城県仙台市・石巻市、岩手県陸前高田市と3つのレインボーハウスの所長に2015年に就任。東北のグリーフサポート(心のケア)の拠点として尽力されるとともに、担い手(ファシリテーター)の養成にも取り組む。

アンケートから見えてきた子どもたちの”今”
「あしなが育英会」による子どもたちへのアンケート

今年3月、西田さんたち「あしなが育英会」は東日本大震災で親を亡くした子どもたちを対象にしたアンケートの中間報告を行いました。(回答310人)
「亡くなったり行方不明になっている親についての自分の気持ちを誰と話すか」とたずねた質問では「誰とも話さない」と回答した子どもが3人に1人を超える36.1%に上ったといいます。「話さない」という人を年代別に見ると、中高生は52.2%、18歳以上が29%でした。

また、親に対する気持ちを複数回答で尋ねた質問では「後悔」という回答が51.6%を占め、「感謝」が51.2%とほぼ同数でした。

アンケートからは10年が経つ今も悲しみは消えず、深い喪失感を抱えていることが浮かび上がったといいます。

NHKスペシャル「大震災と子どもたちの10年」より


”語れない”は3人に1人

――こちらのアンケートがスタートしたのは去年の秋ごろとうかがっています。

 そうです。やっぱり10年経ってどんな生活・心持ちなのかを子どもや保護者に教えてもらって、今後の活動をどんなふうに求められているのかを知るためにアンケートをしました。送付数は中高生が379人、18歳以上が1129人、保護者が942人。回答は2~3割からいただきました。

中には子どもの成長につれて、亡くなった親の“不在感”が強くなっているという状況が見えますし、18歳以上の方たちにとってみれば「あの時こうしてれば良かったかな」とか後悔する気持ちもまだ残っていたりとか。一方で、「亡くなる瞬間まで、本当に僕らを育ててくれてありがとう」という感謝の気持ちも。自由記述欄もさまざまな声を寄せていただいてます。


――私も自由記述などを見せていただいて、レインボーハウスのような場所があったことが、支えになっていたんだろうと感じました。今後、分析結果を出されると思うんですけど、見えてきそうなこと・明らかになるんじゃないかと考えていることはどんなことですか?

 震災当時、「こんなことが役に立ちました」とか「もっとこういうのがあれば良かった」という回答もあります。また、いま必要なものも聞いています。10年の変化の中で役に立ったもの、力になったものと、なかなかそうはならなかったもの。”どんな関わりが力になったのか”というのが明らかになれば、今後も災害があった時にこういうものが力になったというところから取り組みがスタートできて良いかなと思っています。

つながり続けることが改めて大事な10年だったのかな、と思います。やっぱり「1人じゃない」というか、孤立させない。その大切さは、つながりの継続の中にあるのかもしれないなと思います。


――自分を見ていてくれる人が、誰かいるっていうことが嬉しいんですね。

 そうですね。本当にもう、そんな感じですね。

レインボーハウスでは、親を亡くした子どもと保護者に向け、定期的にプログラムを行っています。プログラムの中で子どもたちは、体を動かしたり、絵を描いたり、おしゃべりしたりなど、自由に時間を過ごします。数時間の日帰りコースや、時には泊りがけのコースで実施されるプログラムの目的は、グリーフ・ケア(心のケア)。遊びや会話などを通して、子どもは自分の気持ちに「丁寧に」向き合うことができます。



――番組でアンケートを参考にさせていただいた中で、亡くなった親や行方不明になった親の話を「誰にもできない、話せる相手がいない」という子が3分の1以上いました。この結果は、どんなふうにお感じになりましたか?

 何かあった時に「あのね」って、震災のことだけではなく、SOSを出す相手がいないのであれば心配ですよね。アンケートの自由記述に「やっぱり親を亡くした痛みに触れるには一人じゃつらいので、あんまりそこに触れずに来たけど、やっぱ触れてこなかったことの影響が、結構あるように思います」というひと言が書いてあるところがあって。だから、ほぐれてないって感じですね。そのまんまの痛みがそこまであるというか。

「時間が解決すると言われたけど、全然解決しないじゃん」というひと言や、「10年経ったのに、まだその気持ちなの?」というような、相手からの反応に対する恐れみたいなものもあって。なかなか話しづらいというか、”誰かに聞いてもらおう”、あるいは話を聞く人がいないような感じがします。


――番組制作の中で、子どもには「話したい」って思いもすごくあるんだなというのは感じました。

 触れづらいものに触れる時って、自分で触れるのは結構難しいですよね。だからよく「向き合う」って言う。

自分の気持ちに丁寧に触れる時に、誰か一緒にいて手助けしてくれた方がやりやすいというのは感じているところです。悲しいとか、つらいとかって、誰かやっぱりそばにいて手助けしてくれる人がいると、本人はやりやすいんですよね。

タイミングがよければ、話したいというのも、分かってきているので。関わり続けるというか、「あのね」って言えるような相手として居続けることを、今後も続けていった方がいいだろうなって、いま思っているところですね。

「東北レインボーハウス」所長  西田 正弘さん


インタビューの後半では、レインボーハウスが新たに始めるインタビューの取り組みや、西田さんたちがこの10年感じてきたことについてさらにお話をうかがいます。


「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見て感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。


トップページに戻る
2021年4月24日

東京進学を前に語る ふるさとのこと、生き方のこと

この春、東京の大学に進学した、古川真愛(まなと)さん、18歳。古川さんは東日本大震災で母や弟、妹を亡くしました。当時は小学2年生。祖母と父と一緒に岩手県釜石市で暮らしてきました。
古川さんが東京に進学する前、対話に臨んだのは“恩人”の菅野祐太さんです。菅野さんは中学・高校生活で古川さんの学習支援をしたNPOの職員で、進路相談や受験勉強、それに防災学習まで古川さんの学生生活を幅広く支えてきました。
対話の後編では、古川さんの学校生活やふるさとのこと、そしてこれからの人生について、語り合いました。



古川 真愛 まなと さん (18)
岩手県 釜石市で小学2年生のときに被災。津波で母、弟(当時6歳)と妹(当時3歳)の3人を亡くす。
震災以降、硬式野球チームの監督である父の勧めで野球を始めたほか、高校時代は、防災行政無線を使った避難の呼びかけ方を独自に研究。全国の場でも発表した。この春、東京の大学に進学した。趣味は本を読むこと。

菅野 祐太さん (34)
NPO法人「カタリバ」ディレクター・大槌町教育専門官
大手人材サービス会社に勤めていたが、東日本大震災を機に祖父母が住んでいた岩手県でボランティアを始める。被災地の放課後学校の立ち上げなどを手伝うようになり、事業を手がけるNPOに転職。
現在は大槌町教育委員会で教育専門官として町の教育施策の立案にも携わっている。

この対話の内容
- 震災があったから始めた野球
- 古川真愛という人間を見てくれている町
- 取り組んできた防災のこと
- 活動するNPOの人を見て…

対話の動画が再生されます(音声が出ます)
震災があったから始めた野球
震災後、野球を始めた古川さん。父が硬式野球チームの監督であったことも後押しし、小中高と野球に打ち込んできました。人生の一部となった野球も震災がきっかけで始めたと言います。

菅野:俺ちょっと聞きたいなと思っていることがあってさ。「震災で得たものは何ですか」みたいな質問を、古川は結構受けると思っていて。なんだけど、逆に「あれがあったら本当はこうだったのにな」って思うことがあるのかなと思って。例えば、家族とかでもいいし、震災があったからこそ変化があったこと。「震災があったから俺こういうことできないのかな」とか、「こういうふうに感じちゃうようになっちゃったのかな」とかって、自分の中で思うこととか。

古川:なるほど。いっぱいありますね。いっぱいかな?ないこともないですね。おそらく震災がなかったら、こんなに野球やってないですね、俺は。

菅野:知らなかった。そうなの?

古川:そうだと思います。

菅野:なんで?

古川:そもそも野球始めたきっかけが、父親はずっと野球をやらせたいと思っていたみたいですけれど、それが前に進んだのが、震災で。震災があったけども、ちょっと気分転換にやってみないかっていうふうに誘われたのが始まりなんですよ。その父親の知り合いがやっているチームがあったんですけど、そこに誘われたのが始まりだった。

菅野:じゃあ父親は震災前は特段、野球を勧めてはこなかった?

古川:どこかでやらせるとは思っていたみたいですけど、すごく勧めてきたわけではないです。なので、それがきっかけで始まって。あとは多分そこからものすごい厳しくなったので。やっぱり野球ってなると違うみたいですよ。

菅野:なるほど。

古川:あと震災なかったら、もっと本読んでましたね。

菅野:それはどうして?

古川:野球始めて本読まなくなったんですよね。それはちょっともったいなかったなと思ってますけど。時間がなくなったし。

古川真愛という人間を見てくれている町
甲子園を目指すために一度は県外の野球名門校に進学した古川さん。しかし、環境になじめず、すぐに地元・釜石に戻り、大槌高校に転校しました。一度県外に出たからこそ感じる、ふるさとの良さとは。
高校生の頃の古川さん

菅野:全然聞いたことないけどさ、真愛にとって、生まれ育った釜石市の鵜住居とか大槌町みたいなふるさとっていうのはさ、自分の中で重要なものなの、それとも別にそんなものではないのか。

古川:県外の高校から戻ってきてからの3年間で、重要なものに位置づけられたかなと思いますね。県外の高校行くまでは、「こんな、なんにもねえ町、早く出たいな」と思っていたんですけど。でも戻ってきてから、この“何もなさ”っていうのが、すごく心地いいなとか思いましたね。

菅野:別に将来はここで働きたいとか、そういうことではない?

古川:ここで働きたいとかは思ってないですね、あんまり。ただ、働きたいものがここにあったら来ますけど。

菅野:その感じる心地良さって、もうちょっと言うとどういうとこなの?ふるさと?

古川:余計な事を考えなくて済むっていうのは大きいかな。みんなと話したりする時とか。なんにもないからこそ…難しいな。

菅野:それ面白い表現だよね。

古川:例えば、人が増えれば増えるほど何かいろんなコミュニティーも増えて、つば迫り合いも増えてっていう気がするんです。それこそ一度通った県外の高校でも、同じ寮の中だけで、例えば俺の家の周りの人たちよりも多い人数が普通に寮の中にいたりする。

菅野:そうかもしれないね、確かに。

古川:その中とかでも、「●●先輩についていけばいいから」「●●先輩と俺この前ご飯行ってきた」みたいな会話があったんですけど、こっちはそういうことは、ほとんどないんですよ。 例えば、俺がたまに道歩いていたり、ランニングしていたりすると、ほぼ出会う人全てがみんな俺のことを知っている。しかも、高校をやめた人間がいるのに、普通にそういうことを関係なく接してくれるみたいな。「高校やめたんだな、そうなの」くらいで済む。そういうコミュニティーがあったというのに気付けてなかったなって思ったんですよね、帰ってきた時に。だからすごく、精神的な面では住みやすいなって思いました。

菅野:ある種この地域っていうのは、失敗とか関係なく、古川を受け入れるみたいな?

古川:そうですね。だから、人を見てくれている。この前、NPOのイベントで大学の先生が言っていたんですけど、「田舎では人を見て、その人が信頼にあたるかどうかとか、その人の発言を取り入れるかどうかを決める」ということを言っていたんですよ。まさにそれだな、と思って。俺がどこに所属していようとか、どんな実績を上げてようと関係なく、「古川真愛」という人間として、信頼できるかどうかを見てくれているのかなって、思いました。

菅野:でもやっぱりそれは大槌町から出ないとわからないものなのかもしれないね。

古川:そうですね。そういう意味ではちょっと、少しの期間ですけど、出て良かったかなと思っています。

取り組んできた防災のこと
震災の経験から、防災について関心を抱いてきた古川さん。高校時代の「総合的な探求の時間」の授業では、防災無線や発災時の避難の呼びかけについて調べました。菅野さんたちは、古川さんの研究をバックアップ。全国の高校生が優れた探求学習を発表する大会「マイプロジェクト アワード」で防災の研究について発表するなど、注目を集めました。

高校時代、防災について研究していた古川さん

菅野:俺と話してきた中で、印象に残っていることって何かあるの?

古川:印象に残っているのは、「古川の姿を見て、この子だったら多分、どの分野でもトップレベルになれる人材なのかもしれないと思った」って言っていたんですよ。

菅野:なるほどね。懐かしいね、その話。でも、今でもそれは変わってないよ、それは変わってない。言ったことの気持ちはね。

古川:そうなんですね。

菅野:ただ、どの分野でもって言ったかは、ちょっとわからない。古川がiPS細胞の分野で1位になるか、ちょっとわかんないけど。

古川:それは多分、厳しいものがある(笑)

菅野:こと防災のことに関しては、今でもそうなるかもしれないなと思っている。

古川:防災…。いやもう、ほんと難しいんですよね。どの分野に行っても難しいことは難しいと思うんですけど。防災がすごく難しいなって思ったのは、これはどういうふうにとらえられるかわからないんですけど、結局すごく回りくどいけど、「津波が来たら上へ逃げろ」って言っているだけなんですよ、最終的には。

菅野:そうだね。結論は非常にシンプルであると。

古川:結論が見えているけど、できないっていう現状があって。シンプルに言うと、「上に逃げろ」っていう共有がひとつ必要なんです。あとは、沿岸に家を建てるなとかそれで済む話を、すごく回りくどくいろいろな研究を用いて「こうなんですよ」っていうことが、本当に難しいなって感じますよね。

菅野:すごく面白いこと言うね。今すごく思っているのは、“べき論”があふれていると思っていて。なんかこう、“何々するべき”なんだよね。例えば、教員は○○するべきであるとか、学校ではこういうことを教えるべき、であるとかが、すごく多いんだけど。なんか“べき”にならないところに、本当の理由があるはずなのに、そっちが消されて“べき”を主張する。ひと言で言えば、「津波が来たら高台に逃げるべきだ」――もうひと言で終わりだよ、それで。で、みんな「それはそうだよね」ってわかったつもりになるけど。けど、それができなかった理由にこそ、本当に人、命を救う意味があるはずで。何かあるはずなんだよ、そこに。そこに古川が気付いているのは、すごく面白いと思っていて。

古川:やっぱり研究したからこそなんでしょうね、それは。

菅野:そうそうそう。俺は別に古川の研究が、高校2年生から始まったとは思ってないから。小学生の頃から、ずっと思っていたことだろうし。俺は古川に防災をやり続けてほしいとは思ってないんだよね。防災でトップレベルになれるかもしれないってさっき言ったけど、そんなトップレベルにならなくたっていいから。なんだけど、その“べき”がうまくいかない背景に何があるかっていうのを、津波から逃げられなかった構造と同じように世の中のいろんなものを捉えていく。「なんでできないんだろう」っていうところから、例えばその問題に踏み込んでいくとか。“べき”を越えるというのをさ、なんかテーマとして持っていってもらえると嬉しいなと思って。

古川:確かにそうかもしれない。いま初めて言語化されたような気がしました。なんとなく思っていたことではあるので、「なんでこれはこうすべきなんだろう」って聞いても教えてくれないことのほうが多いぐらいですけど。自分で見つけないといけないから。それを研究テーマにするっていうのは面白いですね。それこそ、なんで学校に行く“べき”なのかっていう。

菅野:そうそうそう。だから、変に惑わされずに大学で学んでほしいな。

活動するNPOの人を見て…
菅野さんたちNPOの職員たちは、大槌高校に「魅力化推進員」として常駐し、探求学習などの授業に関わり、生徒たちの生活を支えてきました。古川さんは町外から訪れ、見ず知らずの子どもたちのために活動するNPOの人たちの姿に刺激を受けたと言います。対話は“生き方”にまで話題が及びました。

菅野さんたちNPOの職員らは「魅力化推進員」として大槌高校に常駐

菅野:ちなみに、じゃあ推進員についてちょっと聞いてみたいんだけどさ。彼らが高校にいて良かったなって思うこと、率直に。

古川:思います、それは。多分いなかったら、大学に行けてないですよ。多分。俺はそう思うんですよね。

菅野:なるほど。逆に、彼らの生き方に影響を受けたところとかってなんかある?

古川:生き方はどうだろうな、「すごいな」と思うことはあるけど。ただ将来、私もああいうふうに誰かのためになりたい、とか言うことはまだできないですけど、ただ「すごいな」っていうのは思いますね。なんで、こんな田舎の見ず知らずの高校生にこんなに尽くしてくれるんだろうというのは、ほんとにすごいなと。むしろそれ聞きたいですね。なんでそういう仕事ができるのか。わかんないですけど、自分のお金のためにやる仕事だったらこういう仕事しなくてもいいじゃないですか。はっきり言って。何でそこまでできるのかなっていうの、不思議ですよね。

菅野:いつかなくなる命とかって言葉を結構言う人いるじゃん。“一生に1回なんだから”とか、あと“一生短いんだから”とかいろんな言葉あると思うんだけどさ。その1回きりの人生、私だったらどう生きたいって、考えた事ってある?真愛。

古川:あります。

菅野:ちなみにどういう結論だったの?自分の中では。

古川:いや、もう自分のために生きるっていう結論に至っています。今のところですけどね。

菅野:今、じゃあ自分のために生きられている?

古川:と、信じたいですけど。多分そこまで自分のために生きていたわけではないので、これまでの人生は。だからこそこれからは、ほんと正直に生きられたらいいのかなって思っていますけどね。

菅野さんは震災前、東京の大手人材サービス会社の事業企画部門で働いてました。社内で将来を嘱望されていましたが、震災をきっかけに生き方を考え直したといいます。

菅野:明日死ぬかもしれないのに、「なんでいま、東京でパソコンのキーボード打っているんだろう」って、俺はすごく思ったんだよね。いつ死ぬか選べる状態に、あるっちゃあるじゃん、人っていうのは。そう選べない状況が震災だったかもしれないけど。その時に、「じゃあ、いま死なない理由は?」って言った時の答えを、「東京でキーボード打ちたいからです」というふうにはやっぱり言えないなって思ったのが大きいかな。真愛も昔、言っていたような気がするけど、人のためにとかってさ、偽善と何が違うんだってよく感じることもあったけど、それが自分のやりたいことだったら、それは偽善だろとは言えないなとも思っていて。

古川:なるほど。深いっすね。自分は、ちょっと逆ですけど「死にたい」って思っていた時に、それに近い結論が出たんですよね。高校をやめて大槌に戻ってきた時に自殺するつもりで…。その時に、「なぜ自殺するのか」って考えた時に、いろいろ考えた時に、結局は「あれ、別に自殺する必要なくね?」と思ったんです。もしかしたら70年、80年あるかもしれない自分の残りの時間を、この一時のために、一瞬のために犠牲にするのかって考えた時に、いや、ここは死ぬ所じゃなくて、おそらく残りの期間を有効活用というか、自分のために使った方が、何か意味を持つことがあるんだろうなって思っていました。だから、さっきの菅野さんの言葉借りれば「死ぬ理由がキーボード叩くことではないよ」みたいなことに近いんですかね。

菅野:学校でそんなにうまくいかなかったことはあるし、自分の命を落としてもって。

古川:もったいないなと思ったんです。

菅野:“見え”とかは全部こう取り払った時に、何をしたいって思うんだろうねと思っていてさ。

古川:難しいですね。でも確かに“見え”とか何かいろいろ取り払った時に、最後に何が残るのかなっていったら、その答えはわかんない…。

菅野:東京は“見え”というか、ラベルで人と会話しなきゃいけないから。何か“2枚目の名刺”みたいなさ、そういう考え方があるっていうか。大槌だったらさ、例えば、いろいろな所属をしているわけよ。あの人の勤め先はここ、家族の中ではこのポジション。お祭りの中ではこことか。自治会の中ではこのポジション。PTAだとか、いろんなさ、3枚目4枚目の顔を持っている訳だよね。東京だと、私はこういうものですっていうふうに言わないと、自分を表現できないみたいなところがある気がしてて。何かそれさえもいびつというか。あなたが何者であるのかということを、ラベルをつけないと話すことはできない。

古川:難しいな。そういう意味では、こっちの方が心地いい部分ありますよね。

菅野:そうだと思う。でも逆に俺がいづらかったなと思うのは、あなたは何者っていうのが全くない状態でここにいることを俺自身がね、なんか許せなかったというか。「菅野さんってどういう人なの?」って多分地域の人が聞いた時に、例えば「俺は○○大学出身です」っていうことを答えるのが東京のアイデンティティーの出し方なんだけど。ここではどうでもいいというか、何者なのとかで聞かなくても、その人自身を見られているというか、そういう見られ方の違いにすごく最初は苦しんだなって思う。

古川:それは面白いな、確かに。

菅野:これからもしかしたら真愛が苦しむかもしれないと思ったのが、やっぱりラベルで人がなんなのかを判断していくから、それ大学名じゃなく、恐らく“被災地で育った古川真愛”というラベルを、どのタイミングで使うか・使わないかということを選ぶのが多いかもしれないじゃん。あんまり、気を遣わせたくないなとか思ってね。でもその時に、自分がこのラベルを使わないことで受け入れてもらえないっていう孤独を感じ始めないかなとかって、ちょっと不安ではあるんだよね。大学のLINEグループの中では自己紹介した?

古川:してないです。

菅野:なんか自己紹介をね今後ね、するタイミングが出て来た時に、何ていうかだよね。

古川:何ていうかですね、それは。最初に全部言うのか。

菅野:そうそうそう。

古川:難しいですね。

菅野:ここの町ではさ、ラベルしなくても「古川真愛ね、ちっちゃい頃から知っていてね…」とか言って、全部知ってくれているんだよね、みんな。それが突然そうじゃないところに行ってね、どうなるかなみたいなの、ちょっと楽しみだな。

古川:それが楽しみなのは確かですね。


「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見て感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。


トップページに戻る
2021年4月17日

東京進学を前に語る 家族のこと、将来のこと

古川真愛(まなと)さん、18歳。古川さんは東日本大震災で母や弟、妹を亡くしました。
当時は小学2年生。祖母と父と一緒に暮らしてきましたが、この春、東京の大学に進学しました。
先月末、古川さんはある人との対話に臨みました。中学・高校生活で学習支援をしてくれたNPOの職員、菅野祐太さんです。菅野さんは進路相談や受験勉強、それに防災学習まで古川さんの学生生活を幅広く支えてきたいわば“恩人”です。
東京での新たな生活が始まるのを前に、古川さんが菅野さんにいま語ったこととは――

古川 真愛 まなと さん (18)
岩手県 釜石市で、小学2年生のときに被災。津波で母、弟(当時6歳)と妹(当時3歳)の3人を亡くす。
震災以降、硬式野球チームの監督である父の勧めで野球を始めたほか、高校時代は、防災行政無線を使った避難の呼びかけ方を独自に研究。全国の場でも発表した。この春、東京の大学に進学した。趣味は本を読むこと。

菅野 祐太さん (34)
NPO法人「カタリバ」ディレクター・大槌町教育専門官
大手人材サービス会社に勤めていたが、東日本大震災を機に祖父母が住んでいた岩手県でボランティアを始める。被災地の放課後学校の立ち上げなどを手伝うようになり、事業を手がけるNPOに転職。
現在は大槌町教育委員会で教育専門官として町の教育施策の立案にも携わっている。

この対話の内容
- 誰に対する“見え”?
- 亡き母の思い出
- 育ててくれた父への思い
- 震災遺児と言われて…

対話の動画が再生されます(音声が出ます)
誰に対する“見え”?
対話が行われたこの日は、古川さんが東京へ引っ越しをする前日。古川さんは、防災について専門に学びたいと考え、東京の大学への進学を選択しました。以前は、慶応大学に行きたいと菅野さんに話していた古川さん。2人の対話は、その進路の話から始まりました。

菅野:ちょっとね、NHKの力を借りて、我々が話す機会が設定されたわけだけども。

古川:そうですね。

菅野:何かお互いに聞きたいことを聞き合っていくという場にしましょう。

古川:わかりました。

菅野:話しやすいテーマからじゃあ聞いていい?

古川:いいですよ。

菅野:今、俺すごく一番聞きたいなと思ってたのは、“慶応大学行きたい”って、いま振り返って考える本当の理由とは何だったのかってちょっと聞いてみたいなと。

古川:“見え”じゃないですか、“見え”。

菅野:面白い。“見え”。

古川:大学で野球をやりたかったとかは本当ですけど、慶応大学じゃなくていいんですよね。野球やる。それに今さら気付いてきました。

菅野:これは誰に対する見えだったと思う?

古川:いや、それはまたわかんないですね。誰に対してだったんだろう。中学の先生が「君だったらそれなりの大学に行けるだろうから、勉強していった方がいいよ」みたいなことを言ってくれたんですよね。

菅野:なるほど。で、「いけるかもしれないな」って心の中でどっか思ってて、勉強もしたいなってどっかで思っていたんだね。

古川:そうです。

菅野:この見えなんだけどさ。例えばじゃあ友達、お母さん、お父さんとかっていろいろあるとしたら、誰に対する見えがあった?

古川:それはお母さんかな、多分。お母さんも結構、頭いいって思ってくれて…だから、なんかそれなりの大学に行って喜ばせたいなくらいの気持ちだったかもしれないです。その瞬間は言語化できていなかったかもしれないですけど。


亡き母の思い出
古川さんのお母さんは看護師でした。よく本を読んでくれる、明るい母だったと言います。一緒に過ごした日々のことや母親の思い出について語りました。
真愛さんと母・優子さん

菅野:お母さんはどんな人だったの?

古川:頭良かったと思いますね。

菅野:真愛にとってはどんなお母さんだった?

古川:本当に感謝していますね。読書する習慣を教えてくれたのは母親なので。それがなかったら多分今、生きがいを1つ失っている状態になるので、本がないと。だから、それを教えてくれたのは本当にありがたいです。

菅野:それは、母はどういうふうに教えてくれたの?

古川:読み聞かせですかね。あとは絵本とか買ってくれたり。本だったら結構、これが欲しいって言ったら買ってくれたかもしれないな。

菅野:よく読んでくれた本とか、印象に残っている本とかあるの?

古川:読んでもらった中で印象に残っているのは、「大どろぼうホッツェンプロッツ」っていう、ドイツの児童文学。恐らく多分小説っていうものに触れたのはそれが初めてで。三部作に分かれていて。内容的には児童文学ですから、ホッツェンプロッツっていう大泥棒がちょっとしたもの盗んで、それを2人の少年が取り返しにいくみたいなストーリーなんですけど。あれはほんと面白かったですね。

菅野:それを読んでくれたんだ。すごいね、本当に絵本とかじゃなくて、そういう小説みたいな。

古川:それは多分小1くらいの時に。

菅野:母の価値観と考え方みたいなのが自分に共通するものがあるなと思うことってある?

古川:どっちかっていうと、考え方は母親寄りかもしれないですよね。母親の価値観とかは覚えてないことも多いけど、多分母親に近いと思います。

菅野:なるほど。なんかないの、他に?本、読書以外で自分に与えた影響。

古川:そうですね。読書以外…学力。多分小1、小2くらいの時は頭良かったんですけど、小3から頭悪くなった。

菅野:いいよ別に、そんなの気にしなくて(笑)

古川:ほんと小1、小2くらいまでは、そこそこ勉強できる子だったと思うんですけど、それは多分母親の影響ですね。

菅野:やれというわけではなかったの?

古川:やれとは言われました。ただ、それ以外の部分で、何か例えば母親の周りとかでわからないことがあったら、母親は俺に聞いてきたんですよ。で、聞かれるとそれに対応して答えてくっていうことがあったみたいなんです、たぶん。そういうの繰り返していくうちに、これはこうだからとか、なんか論理的な説明とかっていうのが割と出来るようになっていったのかなって思っています。そういう意味で、会話が上手かったかもしれないですね、母親は。うまく考えさせる会話の仕方っていう。あとすごい褒め上手だったかな。ただ、ほんと勉強しろとは言われましたね。模試も受けさせられたんですよ。

菅野:小学校の時に?じゃあそういう意志はあったんだね。震災後、なにかお母さんにすごく相談したかったなとか、そういう事を思うときってあった?

古川:あんまりないな、それは。そうですね、相談したいなとかあんまりないかな。

菅野:母なら何て言うだろうかって考えることはある?

古川:それはたまにある。

菅野:それ、どういう局面でそういう事考える?

古川:進路とかですかね。それこそ。でも進路以外は逆になかったな。

菅野:今の進路は自信持ってちゃんと報告できるんだって思う?

古川:うん、報告はできると思いますね。どう思ってるかわかんないんですけど。「なんで医学部じゃないの」って思ってるかもしれない。


育ててくれた父への思い
震災が起きた後、古川さんとともに長い時間を過ごしてきたのが父親でした。地元の硬式野球チームの監督をしていた父の影響で、古川さんは野球を始めました。残された家族のひとり、そして野球の指導者でもあった父への思いを語りました。
古川 真愛さん

菅野:真愛にとって、父親はどういう存在?

古川:難しい。どうだろうな。壁かな。

菅野:壁?

古川:何か決断するときとか、何かやりやいことがあるときに、必ず壁となるのが父親かなって思っちゃいます。

菅野:それはやっぱり壁なの?背中を押すことはあまりなかった?

古川:いや、押されていることもあったのかもしんないですけど…俺がただ単に気付いてない。

菅野:なるほど。何か壁になったなみたいな事あった?

古川:高校進学の時ですよね。

菅野:勉強か、野球かみたいな時に?

古川:そうです。それはちょっと壁でしたね。

菅野:その壁はデンと前に立ったというよりも、「こっちだぞ」ってルートを見せてきて、そのルートにこう行ったっていう感じの壁だった?その壁にそって進んでいくことは、その時は「そういうもんだな」と思ってたの?

古川:思ってましたね。しょうがないなって思ってました。

菅野:震災の前と後で父は変わった?

古川:変わったと言えるかもしれない。震災前は、父親が3交代で働いていたんで、言い方は変ですけど、すごく深く関わっていたわけじゃなかったです。

菅野:会えない時間も多かった?

古川:会えない時もあった。ただ、変わったかもしれないですね。ものすごく精神的ショックを背負っていたのは確かだと思います。

菅野:父とは話したの?もうそろそろだって東京に行くんでしょ?

古川:はい。そうですね。

古川:たぶん、俺があっちに行ったからっていって、一生会わないわけじゃないしって自分では思っているんですけど。たぶん、そうじゃないんですよね。行く前にやっぱり1回くらい話したほうがいいだろうって。それが常識というか、それが今まで育ててくれた人に対する義理というか、そういう事なんだろうなって。でもめんどくさいなっていう思いがあって。父親は父親で「自分からは話さないぞ」って多分思っているんですよね。お互いにもっとこの部分を分かり合えたら深い関係性になれるんだろうって、自分の中ではありますけど、それを分かっていてできていないなって感じています。

菅野:父っていうのは、難しい存在だよ、ほんと。

古川:難しいです。


震災遺児と言われて…
古川さんは、震災遺児として特別扱いされていると感じることがたびたびありました。 私たちメディアからの取材に対しても複雑な思いがあったと語りました。
菅野 祐太さん

菅野:1つ見てほしいなと思っている映画があって。それは、震災孤児ではないけど、自分の家族を失って、どう感じたのかっていうのを映画にした作品。その時に、劇中で言われていたのが、「私は、あの時大川小学校にいた被災者だから取材されるんじゃないか」「何か特別な人っていうふうに思われるんじゃないか」とか。で、それがすごく嫌だっていう話をしていた。「被災者なのにすごいねとか」って言われるのが嫌だっていうふうにも言っていて。真愛自身はそれについては、考えることってあるかなと思って。

古川:別にいいんじゃないかなと思いますね。それが、自分をかたどるラベルのうちの1つにしかすぎないから、別にそれが意味を持つなら意味を持つで、それでもいいと思いますし。「被災者なのにすごいね」って言われるのは気持ちいいことではないですけど、別にそんなに悲観することでもないのかなって思っています。なぜなら、もうしょうがないので、それは。

菅野:真愛自身がそういうふうに感じてきたことってある?「これ被災者だからそう思われんだろうな」とか、「被災者だから関わってもらえるんだろうな」とか。思うことってこれまであった?

古川:それは結構ありますね。むしろありすぎて、パッと出てこないぐらいですけど。

菅野:それは自分にとって良かったと思う?それとも「なんだよ」っていう気持ちもあった?

古川:どうだろうな。良かったことの方が多いと思いますね。でもつい最近、ある記者の人に少しだけ取材されたんですけど、その人は信用できなかったですね。

菅野:何が気に食わなかったの?

古川:震災の取材をしてて、俺とあと2人…計3人で取材されて。被災をした人に対して、話を聞くということに対する意味とか重要性ってことを、多分その人は理解しないんだろうなって感じました。俺は別に普通に聞いてもらっていいんですけども、そうじゃない人も多いじゃないですか。むしろその女子生徒2人だって聞かれたくないこともあるだろうし、震災に関して。で、そういうふうに何も抵抗なくというのか。

菅野:躊躇もせず、みたいな?

古川:ただ聞いているだけに見えたんですよ。

菅野:意志もなくってこと?

古川:そうです。“ただ聞いてみた”みたいなふうに見えたんですよね。それを見た時に、全く信用できないなって思いましたね。

菅野:良いメディアと悪いメディアって、違いは何なの?真愛の中で。

古川:いや、わからないです。いや、むしろその人ぐらいしかいなかったので。

菅野:これまで?

古川:はい。でも、取材しなくても書ける文章ってあると思う。はっきり言って。

菅野:面白い表現だね。

古川:なんなら過去の、例えば自分が出た記事とか見て、それ見て書けるような記事とかっていうのはあんまり好きじゃないんですよね。好きじゃないって、俺がそういうふうに書かれたわけじゃなくて、なんとなくですけど。誰の記事を見てても。

菅野:結構そういうの、じゃあ目を通すんだ。

古川:自分のは逆に通さないですけど、

菅野:他の人が出ると、「へー」とか言って。

古川:さくっと目を通したりとかしますよね。



菅野:震災というものを自分の目でもちろん捉えるんだけど、ある種メディアが期待している震災の捉え方っていうのを、うっすらと感じてしまったりすることもあると思うんだよね。「10年経ちましたけど…」とかさ。「いや、あなたの"めがね"強要しないでよ」みたいなこととかって、感じることとかはある?

古川:俺はあんまりないですね。

菅野:ない?

古川:普通に聞かれるよなって思っていて、10年たってるので。まあ10ってきりのいい数字ですしね。なのでその時は毎回、別に長いも短いもない、「普通の10年でした」って俺は言うようにしてるんですけど…それ以外に答えがないので。ただそれを聞くことに関して、別にそういうふうに区切るなよとかは思わないですね。しょうがない。

菅野:俺もさっき聞いちゃったけど、「母はどんな言葉をかけてくれたと思いますか」とか。

古川:ああ、それはありますね。

菅野:あるじゃん?そういうのがあった時に答えがポンと出るとさ、何か...。

古川:それはうざいですね。

菅野:うざいって思うんだ。

古川:思いますね。「わかんねえから困ってんだよ」と思っちゃいます。

菅野:そう思うんだ。

古川:逆にどう思います?菅野さんが大槌に来て、それこそおじいちゃん(※菅野さんの祖父は岩手県の陸前高田市出身だった)が見ていたらなんて声かけてくれると思いますか、って聞かれたら、なんて答えます?

菅野:なんかさ...。これは難しいんだよな。俺はもう30代にもなっちゃってるから、ある種自分が伝えたいことというよりも、世の中にこれは知っておいてもらった方がいいんじゃないかなっていう視点で、結構話すようになった。記者がこういうふうなことを切り取りたいと思うことに意味があるんだろうなって思って、対応しているところはあるかもしれない。

古川:確かにそうですよね。別に取材には俺もそれなりにしっかり取り組もうと思うことはありますけど、しょっちゅうお母さんとかお父さんに「何て報告しますか」とか「なんて声かけられると思いますか」とかめちゃくちゃ聞かれるんですけど、「うるせえ」と思って。

菅野:思うんだ。

古川:思いますよ。

菅野:それ、もう小さい時からずっと言われてきた?

古川:ずっと言われていますね。だからなんて報告したいですかって聞かれた時は、「まだ何も成し遂げてないので報告すべきことはありません」っていうふうに、かっこつけて答える。で、なんて声掛けられると思いますか?って聞かれたら、「それはわからないですね」って答えるふうにはしていますね。

菅野:してるんだ。なんかでも自分の中では、これメディア受けするな、みたいなキーワードみたいなのが出てくるみたいなことはある?作っちゃうというか。

古川:それはあります。「僕の形だけが被災の形じゃないんですよね」、とか言ったりしますよ。そうするとなんか「撮れたぜ」みたいな顔している人(記者)もいる。

菅野:ほんとに、難しいね。

古川:難しいですよね。


対話の後編では、古川さんに大きな影響を与えた菅野さんのNPOの話や今後の人生について語ります。

「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見てあなたが感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。


トップページに戻る
2021年4月10日

わたし × 祖母 × 中学時代の先生  - 語れなかった10年…祖母と孫 いま交わす言葉 -

東日本大震災で母と姉を亡くした髙橋佑麻さんと、中学時代の恩師・制野俊弘先生。
前回の対話で話題にのぼったのは、震災について「身近な家族にこそ語れない」ということでした。あの日見た光景、家族を失ってから何を思って生きてきたのか…。佑麻さんは、制野先生の作文の授業で初めてその胸の内を明かしましたが、家族とはこの10年、お互い話すことなく過ごしてきたといいます。
今回、佑麻さんはこの対話の場をきっかけに、大切な家族と気持ちを分かち合いたいと、祖母・功子(いさこ)さんを迎えて3人で語り合うことにしました。震災のあと、母親がわりとなって佑麻さんを支えてくれた祖母。孫と交わした言葉とは…


髙橋 佑麻さん(21)
宮城県東松島市で、小学5年生のときに被災。自宅に津波が押し寄せ、母と姉が目の前で流された。その時の思いを初めて打ち明けたのが、中学の作文の授業。 現在も東松島市で父と弟と暮らし、祖母が母親がわりとなって世話をしてくれている。

髙橋 功子(いさこ)さん(81)
佑麻さんの母方の祖母。震災で娘(佑麻さんの母)と孫(佑麻さんの姉)を失い、自宅も流された。震災後は、料理や洗濯など孫たちの世話をするために、ほぼ毎日佑麻さんの家に通う生活に。

制野 俊弘さん(55)
元 宮城県東松島市 中学校教員(現 和光大学 現代人間学部人間科学科 准教授・副学長)
震災発生時、宮城県東松島市の中学校で保健体育の教員。 1100人以上の死者が出た東松島市では、多くの子どもが家族や大切な人を亡くした。 そんな子どもたちの心と向き合いたいと、震災発生の3年後「命について考える」作文の授業をおこなった。

この対話の内容
- 言えなかった思い ~祖母と孫・死の受け止めの違い~
- 母親がわりになってくれた祖母へ

言えなかった思い ~祖母と孫・死の受け止めの違い~
母と姉を亡くしたときの気持ちを、家族には言えなかったという佑麻さん。祖母・功子さんも、孫を傷つけたくないと、震災の話題に触れることを避けていました。初めて心の内を知ったのは震災発生から3年後。制野先生の授業で佑麻さんが書いた作文を読んだときでした。
(佑麻さんが書いた作文については、こちらの対話を参照)
対話の動画が再生されます(音声が出ます)

佑麻:おはようございます。

祖母・功子:おはようございます。

制野先生:制野と申します。どうも。おばあさんに会いたい会いたいと思いながら。本当にこのたびは。

祖母・功子:制野先生ね。本当に大変お世話になりました。

制野先生:どうですか、最近。体調とかどうですか。

祖母・功子:体調はもう年重ねてるからそれなりですけどね。

制野先生:いくつになられるんですか。

祖母・功子:(数え年で)82歳です。

制野先生:82歳。昭和・・・

祖母・功子:15年生まれです。

制野先生:そうですか。じゃあちょっと体力的にも。

祖母・功子:限界に来てて。

制野先生:限界に来てますか。

祖母・功子:10年も経つとね。だって震災当時72歳ぐらいね。震災の前までは牡蠣むきだのして働いてはいたんだけど、震災でやめた。その時で。

制野先生:今回の震災のことはやっぱ悔しいって思いがあるんですね。

祖母・功子:そうですね。この人(佑麻)も、やっぱり自分では本当は救えただろうっていう無力感っていうのを感じてたのかなと思って、そのころね。分かんない。作文まで何も言わなかったから。

制野先生:本人が?

祖母・功子:本人の口からも聞かなかったしね。どうやって亡くなったんだろう。子どもたちどういう状況だったんだろう。今でも分かんないこといっぱいあるけどね。

制野先生:作文を読み返すとね、書くのも本人つらかったと思うんですよ。

祖母・功子:(母と姉が津波に流されたのが)目の前だから。自分ができなかった、助けることできなかったこと、亡くしてしまったっていうのがみんなごっちゃになってすごかっただろうなって。でも心に思ってたことを作文に吐き出したっていうことで軽くはなったと思うし、私もいろんなこと知ることできたしね、すごく良かった。

制野先生:そうですか。それまでの気持ちって、そしたらもっとモヤモヤした感じだった?

祖母・功子:モヤモヤどころかもうね、何て言うかどうしたらいいんだろう。どうしたら…やっぱり生きてていいのかしらっていう、何て言うかそういう気持ち。若い子たち死んでんのに私生きてていいのかしらって。誰にも話してない。同じ家族でも話せない。この思いはね。だからこの人(佑麻)も気持ちを言ったらみんな心配するから何も言わないってね。

制野先生:やっぱね、大事な人のそばにいればいるほどしゃべれないよね。

祖母・功子:やっぱり近い人には話せない。ニコニコしてなきゃならない、何にもないようなフリをして。

佑麻:やっぱり(祖母の気持ちは)全然分かんない部分だったので、そこは話せないって思ってたからこそ、やっぱりこういう場(対話の場)があると助かったなと思いますね。

制野先生:作文にちゃんと墓参りに行きなさいみたいなことを、おばあさんはよく言うんだけど俺はお墓参りに行かなくても忘れないって書いてある。

祖母・功子:だからそれだと思うの。自分は受け入れたくなかったんだろうなって。墓の水かえるのは下着かえるのと同じだとかいろいろなこと言うじゃないですか。だから私は1か月に1回ずっと行ってるんです。11日は1人でね。

制野先生:月命日に。

祖母・功子:月命日は必ず行きますよ。年に20回ぐらいは拝むのかな。この人(佑麻)たちはやっぱりそれを受け入れたくなかったんだろうなとは思います。そして私が一生懸命、昔の人だから、朝にあげたり何なりする。

制野先生:お茶あげたり水あげたりね。

祖母・功子:そういうことするのはなかなか受け入れられない。家族の死、受け入れられなかったんだろうなとは思ってます。子どもは分かんないと思う。

制野先生:これから生きていかなきゃならないからね。俺は親と子のすれ違いとかっていうよりは、むしろ世代の考え方の違いなだけであって佑麻たちだっていずれ大人になれば同じようなことになっていくし。

祖母・功子:私、今、気づいたんですもの、10年経って。

制野先生:死を認められないっていうね。

祖母・功子:その気持ちなんだと思うのね。

制野先生:おばあさんはそうやって自分の気持ち整理をしようってしてるけど、本人はまた別な段階の整理の仕方をたどってるんだよね。

母親がわりになってくれた祖母へ…
祖母・功子さんは、孫たちを10年間、育ててきました。でも実は、弁当づくりや身の周りの世話をいくらしても、母親の代わりにはなれない、そんな葛藤を抱えていたと言います。初めて孫の前で明かした思い。佑麻さんが祖母・功子さんにかけた言葉は・・・
髙橋功子さん


制野先生:おばあさんだってお母さんの役目を2回しなきゃいけないっていうね。

祖母・功子:震災前は生活一緒にしてなかったから、私たちね。

制野先生:朝早く来て夜。

祖母・功子:夜は泊まるんです。泊まって、朝、孫たちを学校出してから自分の家に行って。旦那(佑麻さんの祖父)もいるしね。またこっちに夕方戻ってっていう感じ。そしてまた泊まって。

制野先生:そしたらおじいちゃんだって大変だったよね。

祖母・功子:じいちゃん今でも1人で。

制野先生:おじいさん逆に寂しがってんじゃねえか?

佑麻:だと思います、むしろ。

制野先生:先生、おじいさんの立場だったら、寂しいなって思うのね。ボケてなくてもボケたふりするかもしれない。

佑麻:なるほど。

祖母・功子:やっぱり孫だからね、誰かが世話しなきゃいけないもの。もう夢中だったね、本当に。ただこの人たちを育てなきゃいけない。ご飯食わせて弁当を詰めて、ただ使命感で動いてたような。愛情も感情も何にもなかったかもしれない。だから申し訳ないなと思ってるね。

佑麻:いや、全然もう。何かしてくれるだけでありがたかったから、そんな申し訳ないとか思わなくていいかなとは思う。

祖母・功子:でも本当にもっともっとしてやりたいこといっぱいあったけどもね。本当にご飯食べさせて洗濯してとか。そんなことぐらいしか。

制野先生:普段、我々だって例えば実のお母さんだとしたって愛情なんてそんな大それたものは表立って表現しないけど、だけどご飯作ってやるとか洗濯するとか掃除するとかそういうのでしか伝えられないじゃないですか。

祖母・功子:私がしたのを少しでも覚えていてもらえればいいかななんて思うんですよ。

制野先生:忘れないでしょう。一生ものですよ。

祖母・功子:震災でもいっつも私、こんなこと言ってる。本当に不公平かもしれない、悪いかもしれないけど、お母さん亡くした子どもっていうのは大変だなって思うの。お父さんが育てるのも大変だし、周りが結局見てあげなきゃ。

制野先生:そうだよね、そうだよね。

祖母・功子:いつまでも経ってもそれから抜けれない。大切なお母さんっていうのは、そのぐらい大切なんだろうなって思います。お母さんの代わりは私たちもできないんだ。おばあさんだってなんだって。でもな、いくらかの足しになりたいなっていう気持ちはやっぱり抜けないからね。なんだか。つらいところだよね、それは。

制野先生:子供にしてみればね、やっぱお母さんと、何だろ。どうしても比較したりとか、こうだったとかって思っちゃうんだろうけど、でも、なんとかかんとか埋め合わせしてくんじゃないですか。そのぽっかりあいた穴っていうのは、おばあさんで半分、誰かで3分の1、誰かで4分の1とかって、少しずつ穴埋めしていって、まあその先にはやっぱ自立しなきゃないわけだから。

祖母・功子:そうですね。

制野先生:いつまでもね、親に頼ってられないっていうのはみんな共通だから、ただその時期がな、早すぎたもんな、佑麻たちはね。突然だったしね。そりゃ先生も簡単には言えないけど、いずれ自立して別な形で穴埋めしていくしかないなと思うな。穴埋めってなかなかできないかもしれないけどな。

祖母・功子:そうだね。

制野先生:そしたら佑麻もやっぱり自立しなきゃいけないな。

佑麻:そうですね。それは確かに。

祖母・功子:佑麻にも言われんの。ばあちゃんいいよって。してあげる、俺するからって。今、家にいるから家のこともいいよって言われるけども。

制野先生:・・・。まあ、でもちょっとあれだな。おばあさんもそろそろおじいさんに。

佑麻:まあ、そうですね。

制野先生:返還の時期かも分かんない。

佑麻:そう思いますよ。

髙橋佑麻さん


制野先生:佑麻も多分同じ思いかな、なんてのは思ってはいるんだけど。おばあさんにとってはでもね、本当にあっという間の大変な。大変な10年だったね。

祖母・功子:今まで夢中で来たから、何もしないで何もぼーっとしてると、こんなに日長いのかななんて、日長く感じることもたまたまあるんですね。逆にそういう余裕出てきたから。まあ一生、亡くなった家族のことを忘れたらね、申し訳ない。申し訳ないっていえばおかしいけども、忘れたら本当に死んだ人、また死んだのも同じになってしまうから忘れられないけどもね。二度死んでしまうものね。やっぱり一度は死んでも、やっぱり自分の心には生かしておきたい。そういうことだね。

制野先生:そうだね。2回は死なせられないよね。忘れてしまうとかさ。それはダメだよね。

祖母・功子:私はそう思ってるの。だからお墓参りも行くし、そう思ってるのね。そして生きて、まあ生きられるうちは生きていこうと思ってます。

制野先生:おばあさんも自分の体調まず第一にね。孫たちやるから。

佑麻:やります、さすがにね。確かに。いや、でも改めて感謝の気持ちが大きいですかね。(祖母は)自分は力及ばなかったみたいなふうに言ってて、それでも少しでも、代わりにはなれないけどお母さんの代わりに少しでもなれるようにみたいに言ってもらってたというのは、その気持ちはやっぱりちゃんと感じれてたし、そんな僕たちに何もできなかったみたいに思わないでほしいなって思いますね。本当にやってくれる、いてくれるだけでもう本当によかったので。

祖母・功子:何にもやれなかったものね、夢中だったし。

制野先生:でもいてくれるだけでよかったって。

祖母・功子:ありがとう、本当に。

制野先生:まあこれからもまだ続くので。関係はね。

祖母・功子:そうですね、ずっと続きますね。


「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見てあなたが感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。


トップページに戻る
2021年4月2日

わたし × 中学時代の先生【後編】 -身近な家族にこそ語れない思い-

東日本大震災で母と姉を亡くした髙橋佑麻さんと、「命について考える」作文の授業を通じて向き合ってくれた中学時代の恩師・制野俊弘先生。対話の前編では、作文につづった言葉の奥にあった気持ちを語り合いました。

今回は後編。髙橋さんが明かしたのは、「身近な家族にこそ語れない」ということ。背景には、傷ついた家族同士がお互いを思いやるがゆえの遠慮や気遣い、そして姉が亡くなったあと長男としてしっかりしなければという責任感がありました。震災後の家族との向き合い方を、今も模索し続けていると言います。


髙橋 佑麻さん(21)
宮城県東松島市で、小学5年生のときに被災。自宅に津波が押し寄せ、母と姉が目の前で流された。その時の思いを初めて打ち明けたのが、中学の作文の授業。 現在も東松島市で父と弟と暮らし、祖母が母親がわりとなって世話をしてくれている。

制野 俊弘さん(55)
元 宮城県東松島市 中学校教員(現 和光大学 現代人間学部人間科学科 准教授・副学長)
震災発生時、宮城県東松島市の中学校で保健体育の教員。 1100人以上の死者が出た東松島市では、多くの子どもが家族や大切な人を亡くした。 そんな子どもたちの心と向き合いたいと、震災発生の3年後「命について考える」作文の授業をおこなった。

この対話の内容
- いちばん近くて親しい家族だからこそ語れない
- 三人兄弟の真ん中だった自分が、震災で姉を失って…
- 震災後、母親がわりになってくれた祖母

いちばん近くて親しい家族だからこそ語れない
制野先生と対話をする前日、髙橋さんはNHKの番組に出演しました。そこで打ち明けたのは、震災について「いちばん近くて親しい家族だからこそ語れない」という事実。「自分の気持ちを言うことで相手に心配かけたり、相手の気持ちを聞いたら自分も心配してしまう」と語っていました。その真意は…
(2021/3/13放送 NHKスペシャル「大震災と子どもたちの10年 いま言葉にできること」)
対話の動画が再生されます(音声が出ます)

制野先生:昨日もテレビに出てたよな。やっぱあれか、近い人にしゃべるってのは難しいか。

髙橋:難しいですね。

制野先生:あんまりおばあさんとかとは語ってないね。

髙橋:語んないですね。

制野先生:かえって先生とか、記者さんとかディレクターさんみたいな人の方がまだ語れるもんな。お父さんとは?なんかしゃべったりすんの?

髙橋:雑談程度には話したりは、ちょくちょくですけど、話したりはしますね。でも震災後とか、つらそうな様子みたいなのは全然、見せないようにしてたと思うんですけど、やっぱ大変だったんじゃないかなって思いますね。妻と娘1人亡くして・・・。 僕から見た感じは、外からでは分かんなかったですね。

制野先生:こらえてるな、みたいな感じもなかった?

髙橋:なかったですかね。でも最近、お姉ちゃんとかのお墓参りに行ったりするときに、ちょろっとお父さんの方からお姉ちゃんの話だとか、「昔こんなことあったよな」みたいなのを言ってきたりするんで、やっぱそれなりの思いみたいなのは、あったんじゃないかなって思いますね。

制野先生:普通はな、「お父さんすごいな」ってひと言で言っちゃいそうだけど、そんな人間なんてね、強い人間なんて先生いないと思うからさ、お父さんはお父さんなりにやっぱつらかった思うな。でも息子2人残ったからさ、それはお父さんは責任もって支えなきゃいけないとは思ってたと思うよ。泣いてる暇ないっていうかさ。多分どっかで泣いてるんだろうけどもね。こっちが想像する以上に、お父さんやっぱつらいんだと思うな。ぐっとこらえてるんだろうな。そういうのがわかるだけ、しゃべりづらいよね。

髙橋:話しちゃっていいのかなみたいなのはやっぱ思いますよね。気遣うってよりは、無意識のうちに避けている感じがしますね。

制野先生:それも優しさだよな。見えない気持ちをさ、探り探り生活するものだしさ。佑麻から見ればお母さんだけど、お父さんからすればね、やっぱ最愛の人だからな。つらくないわけは絶対ないしな。大事な人だからこそ、語りたくないっていうのもわかるけどな。そっと、しまっておきたいっていうな。いつかお父さんにさ、「お父さん、大変だったよね」ってひと言な、どっかで声かけてあげれば。

髙橋:そうですね。

三人兄弟の真ん中だった自分が、震災で姉を失って…
21歳になった髙橋さん。高校卒業後に就職した会社を辞め、現在はWEBコンテンツの記事を書きながら、今後の生き方を模索しています。実は、姉を失ったことで、震災後は長男としてしっかりしなければという思いで過ごしてきたと言います。
対話の動画が再生されます(音声が出ます)

制野先生:佑麻どうすんだ?この後っちゅうか。この後の生活っていうか。何がいいんだろうな、佑麻な。何をしたい?物書き?

髙橋:うーん。自分が何をしたいのかが分かんないので、とりあえず自分にできることを生かそうって思って今、物書きみたいな感じでやっているんですけど。なので、何か見つかるまではこのままって感じになりそうなんですよね。

制野先生:そうね。やりたいこと。自分に向いていることか?

髙橋:分かんないんですよね。全然。

制野先生:だから本当に、もう乱射するしかないんじゃない?自分の今、目の前のやりたいことをとにかく。次々にやってくみたいな。見つけ方だな。動いて見つけるっていうか。体で見つけるっていうかさ。先生もさ、1年間だけ浪人してるの。

髙橋:そうなんですか。

制野先生:うん。高校出て、大学に入るの1年目失敗して。で、その1年間も何していいかもう分かんないの、自分で。勉強はするんだよ、勉強してるんだけど、どこの大学受けようとか、将来何しようかみたいなのはずっと、1年間本当に。とりあえず、なんかどっか大学行きたいんだけど、何したいかがよく分からないから、10か月ぐらいは悶々(もんもん)として、最終的にこことここって決まったんだ。そういう悩みの季節みたいなのは、大事だから。とは思うよ。今、探してる感じ?

髙橋:そうですね。でも、探してる時はつらくないですかね?

制野先生:つらいよ。つらいよっていうか、それは夢中だったな、勉強するのに。乱射。あれもこれも勉強したれ、みたいな。乱射してたな。で、何?悩んでる?

髙橋:本当にこれをやりたいみたいなのが、やっぱまだ見つかってないんで。

制野先生:見つかってない。

髙橋:いいのかな、って思っちゃっていますね。

制野先生:前職を辞める時はなに?お父さんとかに相談したの?

髙橋:お父さんもですが、一番に相談したのは、おばあちゃんですかね。

制野先生:そうだったの。で、何て言われたの、おばあさんに。

髙橋:「佑麻が考えることなんだったら、私は全然反対しないよ」みたいな感じで言ってくれました。

制野先生:引きとめられなかったの?「我慢しろ」とか。

髙橋:もう僕は言われると思ってたんで、言い出すのがすごい怖かったんですけど、何か言われなくて。「全然いいよ」って言われたんで、そこに関してはちょっと救われましたね。

制野先生:そうだったんだ。じゃあおばあさん、何か感じてたのかも分からないよね。

髙橋:お父さんはちょっと「辞めないで」みたいな。でも、「お前が決めるんならいいよ」みたいな。仕事を辞める時に一番気にしたのは、弟も高校生で、僕が辞めた時は弟が高校2年ぐらいだったのかな。で、これからもう進路悩む時期じゃないですか。そこで兄が進路に迷ってるみたいな姿を見せたくないなって思ってしまって。そこはやっぱ、一番気にしましたね。

制野先生:気にしたの?

髙橋:やっぱり、何かお手本っていうか、ちゃんとしてる姿をやっぱり兄としては見せたいなって思ってたので。

制野先生:それは引っかかった?

髙橋:引っかかりましたね。やっぱり事あるごとに、弟は進路の相談とかしてくれてたので。なので、そこで自分が迷ってしまうと、弟もなんか不安になっちゃうんじゃないかなって思いましたね。

制野先生:そっか、そういう悩みもあるか。何だろう。変な話、お姉ちゃんがいなくなったからさ。佑麻が一番上っていうか、お手本っていうか、っていうのもあるよな。弟には何か言われたの?

髙橋:でも、弟は「いいんじゃない」って言ってました。(気にしていたのは)僕だけだったかもしれない。

制野先生:こっちが思ってるほど、弟は気にしてなかったというパターンか。

髙橋:気にしてない。うん。

制野先生:そっか。意外とそんなもんかもしんないけどな。

髙橋:かもしれないですね。

制野先生:弟はちゃんとお兄ちゃんにいろんなこと、しゃべる感じ?

髙橋:頻繁ではないですけど、でもちゃんとしゃべってはくれますね。

制野先生:そう。でもなんか、弟いてくれて良かったよな。

髙橋:そうですね。

制野先生:な。これで独りぼっちだったらな、本当にな。

髙橋:そうっすね、だいぶつらかったと思いますね。

制野先生:弟も弟でな、つらかっただろうけどもな。でもお兄ちゃんがいたから、また。そこは持ちつ持たれつで、弟からすれば兄貴よくいてくれたって思うだろうし。兄貴からすれば、弟よくいてくれた。

震災後、母親がわりになってくれた祖母
震災で母と姉を失った髙橋さん。当時11歳、弟は7歳でした。震災後、兄弟の母親がわりになってくれたのが、母方の祖母。祖父と暮らす自宅から毎日髙橋さんの家に通っては、食事の支度や洗濯など、家事を一手に引き受けてきました。81歳になった今も、支え続けてくれていると言います。
髙橋佑麻さん


制野先生:おばあさん今でも通ってきてるんでしょ?家に。

髙橋:そうですね。

制野先生:毎日?

髙橋:はい。

制野先生:おばあさんが、おばあさんらしく生きる手はずを整えなきゃいけないな。

髙橋:そうですね。

制野先生:「心配しなくていいよ」って。

髙橋:そうですね。言ってあげたいですね。

制野先生:おばあさんは2回、母ちゃんになったみたいなもんだからな。

髙橋:ああ、確かに。そうですね。

制野先生:そういう苦労話みたいなの、おばあさんからしないの?

髙橋:しないですね。してくれたら、それはそれで話聞いたりとかするんすけどね。全然しないですね。

制野先生:弱さは見せない。

髙橋:そうですね。でも、疲れてるんだろうなみたいなのは、見てて感じたりとかはしますけど、直接言ったりとかはないですね。

制野先生:ないんだ。いつかは分かんないけど、おばあさん孝行しなきゃな。

髙橋:そうですね。

制野先生:まだ、いいけどさ。おばあさん孝行つったらあれだけど、おばあさんにちゃんと伝えるのが、必要かもしれない。やっぱりおばあちゃんの気持ちになったらさ、大変でしょ?大変でしょっていうか、孫と関われるのは本望だと思うけどさ、でもお母さんにはなれないわけでさ、そういうお母さんの役割をしつつ、お母さんになれないっていうつらさみたいなものは、やっぱりあったと思うんだ。分かんないけどさ。それ考えると、ちょっと先生なんか涙出てきそうだよね、やっぱな。

髙橋:それは親的な目線からみたいな、そういう・・・。

制野先生:そうそう。子どもを育てるのはさ、「親だ」っていうふうに見られてるし、思ってるから当たり前だと思うわけだ。ところが(おばあさんは)「親だ」っていうふうには思われてないんだけど、親の役割をしなきゃいけない。だけど、限界あるじゃん?

髙橋:そうですね。

制野先生:そのつらさを背負いながら、おばあさんはやってきたっていうのは、それ考えるとぐっと来るな。先生はね、勝手に思ってるんだけどね・・・。おばあさん一番感謝か。

髙橋:そうですね。

制野先生:それ、言葉では言ったことはない?

髙橋:あんまないですね。

制野先生:・・・ないよな。そうだよな。近ければ近いほどな。

髙橋:そうですね。

制野先生:明日、おばあさんとの対話を楽しみにしましょう、じゃあ。

髙橋:はい。


次回は、震災後、母親がわりとなって髙橋さんのことを支えてくれた祖母・功子さんを迎えての対話をご紹介します。

「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見てあなたが感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。


トップページに戻る
2021年3月27日

わたし × 中学時代の先生【前編】 - いま振り返る 「命について考える」作文 -

小学5年生の時、東日本大震災で母と姉を亡くした髙橋佑麻さん。家族にも友達にも言えなかった当時の思いを初めて吐き出すことができたのは、「命について考える」という、中学時代の作文でした。
その授業を担当したのが、当時、保健体育の教員だった制野俊弘先生。髙橋さんは、自分の気持ちと向き合うきっかけを作ってくれた先生に、再び会いたいと思っていました。5年ぶりの再会となった2人。あのとき、どういう思いで作文を書いたのか…。つづった言葉の奥にあったものを、“恩師”と“生徒”がいま改めて振り返りました。

髙橋 佑麻さん(21)
宮城県東松島市で、小学5年生のときに被災。自宅に津波が押し寄せ、母と姉が目の前で流された。その時の思いを初めて打ち明けたのが、中学の作文の授業。 現在も東松島市で父と弟と暮らし、祖母が母親がわりとなって世話をしてくれている。

制野 俊弘さん(55)
元 宮城県東松島市 中学校教員(現 和光大学 現代人間学部人間科学科 准教授・副学長)
震災発生時、宮城県東松島市の中学校で保健体育の教員。 1100人以上の死者が出た東松島市では、多くの子どもが家族や大切な人を亡くした。 そんな子どもたちの心と向き合いたいと、震災発生の3年後「命について考える」作文の授業をおこなった。

この対話の内容
- "火葬するとき、家族の大切さが心に入ってきた"
- “命”について書けることがうれしかった
- 生きるので精いっぱいだった
- 気持ちを言葉にする意味

"火葬するとき、家族の大切さが心に入ってきた"
髙橋さんと制野先生が再会を果たしたのは、震災発生から丸10年が過ぎた、3月14日。
まず話題にのぼったのは、髙橋さんが中学1年生の時に書いた作文の、はっとするような一言でした。

髙橋 佑麻さん


制野先生:久しぶり。

髙橋:お久しぶりですね。5年ぶりぐらいですかね。

制野先生:丸くなったな、ずいぶん。

髙橋:いや、まあまあ。(笑)そうっすかね?あんまり変わってないと思うんですけどね。

制野先生:いやいやいや。どうなの?今、何やってんだ?

髙橋:今はフリーランスで、ネットで記事を書く仕事をしてますね。

制野先生:記事書いてんの?

髙橋:そうっすね。会社からこれ書いてくれって言われたのを書いている。 やっぱ書いたりとか、そういうのは好きなんで、そこら辺に行き着いた感じはしますね。

制野先生:書くの、そうだな。1年生の時の家庭科の授業って覚えてる?

髙橋:まあ、うっすらとは。

制野先生:何書いたか覚えてる?

髙橋:え?何書いたか?

制野先生:"家族"かなにかの(テーマの)単元があって、そこで作文書いたんだよ。そんで、担当の先生だと思うけど、「制野先生、佑麻こんなこと書いてきたんだけど…」って言って作文を受け取ったの。それが最初の佑麻の書いたやつとの出会い。ちょっと気になる表現があったの。覚えてないでしょ?

髙橋:覚えてないですね。

制野先生:お母さんが目の前で流された、って。遺体が見つかるまで泣けなかった、と。で、遺体が見つかって火葬するときに思いっきり泣きました、って。で、その時にね、家族って大切なんだみたいな気持ちが自分の心の中に入ってきましたって書いてあるの。
これがね、先生すごいショッキングで…。中1の作文なんだよ。普通はさ、普通の小学生とか、中学1年生だったらさ、「自分は悲しく思いました」って書くでしょ。「家族は大切なんだっていう思いが(心の中に)入ってきました」って書いたわけよ。これって普通ない感覚じゃん?

髙橋:確かにそうですね。

制野先生:だから佑麻って、面白い子だなって思ったのが中1の最初なの。


“命”について書けることがうれしかった
制野先生は震災発生から3年後、「命について考える」作文の授業を一年をかけておこないました。
気持ちを抱え込みながら必死に生きる子どもたちには、心の内を分かち合うことが必要だと考えたといいます。当時中学3年生だった髙橋さんが、その時、言葉にした思いとは…。

制野 俊弘さん


制野先生:ずっと佑麻に聞きたかったことがあってさ、この1回目の作文の出だし覚えてる?

髙橋:出だし?"命について考えられることをうれしく思います"みたいなことを書いた…。

制野先生:そうそう、そこなのよ。それを聞こう聞こうと思ってずっと聞けなかったね。あの表現ってなんだった?

髙橋:多分、自分の中で、家族が死んだっていうことを、死んでしまって悲しいっていう状態のまま終わらさないで違うことに生かせるみたいなのが、あの時はうれしいなっていうか、いいなって思ったんじゃないですかね。

制野先生:何か表現はしたかった?

髙橋:そうですね。

制野先生:こっちは、すごく神経使ったわけよ。他にもいたんだな、何人か(親を亡くした子が)。これ書かせていいのかなって。こんなこと(震災体験)、聞いていいのかなっていうのはあったんです。でもそれまで何もしなかったから、学校が。例えば佑麻の気持ちを聞くなんちゅうこともなかったでしょ。

髙橋:そうですね。

髙橋さんが「命について考える」作文の授業で書いた文章
記事の最後に、ご本人の許可を得て作文を掲載しています。


制野先生:でもいざ聞くとなったら聞いていいのかなと思ったら、あの表現が作文で出てきたから。なんで、ああいう表現になったの?やっぱり、ずっと考えていた?あれ書くまで(震災発生から)3年ぐらいあるけど。

髙橋:自分の気持ちがもううまく整理できないまま、でも誰かに言いたくても言えなくてみたいな感じで、ずっと思っていて、そこでやっと吐き出せる場みたいなのがもらえたので、多分そこで、その場がもらえたことにうれしかったんじゃないかなって思います。

制野先生:たまっていたものを吐き出すっていう感じ?先生ね、「やっぱ語りたいやついっぱいいるんだな」って思った反面、「泣きながら書いた」って言っていたじゃん。

髙橋:そうですね。

制野先生:そこは先生も苦しかった。こうなるかなって思いながらさ、書かせたから。で、「書かなくてもいいよ」とも言ったんだよな。「書けない時は書かなくてもいいよ」とも言ったんだけど、佑麻は「泣きながら書いた」と。だけど、「書けることをうれしく思う」って書いたでしょ?だから複雑だなと思って、それいつか聞きたかったの。あれが初めてしゃべった場か、誰かに。

髙橋:ちゃんと話したのは、あれが最初ですね。

制野先生:じゃあ丸3年くらい経ってんだ。悶々(もんもん)としてた?

髙橋:そうですね。悶々という感じは、あの時は本当に生活するので精いっぱいみたいな感じだったので、そんな悩んだりみたいな感じではなかったですけど、でもどこかで引っかかっているみたいなところはありましたね。

制野先生:そうだったんだ。


生きるので精いっぱいだった
髙橋 佑麻さん


制野先生:今考えてみれば、佑麻もそうだけどさ、震災後の3年くらいっていうのは本当に生きるので精いっぱいだったよね。

髙橋:そうですね。本当にそれだけを考えてって感じでしたね。

制野先生:思い出せる?最初の1年とか2年って。

髙橋:いや、あまり思い出せないですね。もう必死だったってことぐらいしかわかんないし。

制野先生:そうだよね。もう今思い出せないもん。だってもう無我夢中で。過酷な記憶だけがこびりついてるな。そういう感じしない?

髙橋:そうですね。確かにきつかったですね。

制野先生:今、思えばそうだな。(給食センターが震災で被害を受けたため)給食にさ、ご飯と牛乳だけ出た日があったんだよ。おかずなしの。

髙橋:ありました、ありました。小学6年の時にもう・・・全然なくてみたいな。 本当に最低限だけみたいなの。もうびっくりしましたね。

制野先生:驚くよな。あれ本当に。そうだ。あれで子供たちに部活やらせんのかって議論になったんだ、1回。ご飯と牛乳食わせて放課後6時 7時まで部活やれってのは。こんな思春期の成長盛りの子供に、こんなのでいいのかっちゅうのはあったな。

髙橋:そうですよね、全然足りないですもんね。

制野先生:そういうのは覚えてんの。つらいのとかさ、しんどかったのとかさ。…よく生きたな。でも、つらいっていう、言葉で言えないな。乗り切るしかないっていうだけだもんな。

髙橋:そうですね。もうそこに選択肢とかはないですもんね。

気持ちを言葉にする意味
制野 俊弘さん


制野先生:高校とかっていうのは。そういうこと(震災のこと)を語る場ってあったの?

髙橋:いや、高校とかはもうないですね。

制野先生:全然?

髙橋:全然ないですね。多分何かしらあったら、僕も語ってたりはしたと思うんですけど、もう全然なかったですね。

制野先生:なら、じゃあまたモヤモヤが始まるんじゃないの?

髙橋:でも、言うほどそこまでモヤモヤはなかったですかね、高校とかでは。

制野先生:アウェーみたいな感じしない?敵地に乗り込んでいったみたいな。 高校全体でも、そういう“しゃべり場”みたいなのはないの?

髙橋:ないですね。防災とかはやりましたけど、訓練みたいな。

制野先生:近くにいたんじゃない?同じような境遇っちゅうか、同じような立場の子って。

髙橋:いや、聞かなかったですね。もう本当に一緒の高校に行った●●(※同級生の個人名)とかぐらいですかね。でもそれ以外は多分、そういう経験してないんじゃないですかね。

制野先生:いや、経験してるんじゃないか?

髙橋:してますかね?

制野先生:多分してるって。してるけど、やっぱ(話す)場がないんじゃない?書くのもなかった?

髙橋:書くのもなかったですね。

制野先生:じゃあやっぱり、自分の中で消化して。

髙橋:そうですね。

制野先生:あの作文って書かせてよかったのかどうかっての迷ったんだよ、先生も実は。わかんないからさ、一人ひとりの気持ちってさ。みんな一様に書かせたでしょ?だから今でも迷いはある。

髙橋:結局その作文書かせようってなったのは、どんな理由だったんですかね?

制野先生:あの時ね、先生たち、佑麻たちの前に1個上の(学年の)子たちを、震災で中1で受け持ったでしょ?で、あん時にさ、80人か90人くらいいたんだけど、親亡くした子どもってさ、1人だけだったわけ。で、震災のことについてちゃんと勉強しなきゃなとは、みんなで言っていたのに、結局は避難訓練だとか津波対策だとか、そういうのだけやって卒業させたわけ。で、その時に、卒業させる時に反省会をやったの、先生たちで。この3年間、津波の体験ってみんなどんなことをしたか全く誰もお互いにわからないで来ているよねっていう話になって。で、もしかすると抱えてる子供いるんじゃないのみたいな話になって。たまたま先生が、佑麻たちの代を持ったから、「あれ(作文)をみんなでやりましょう」っていうふうになって。

髙橋 佑麻さん


制野先生:書かせて整理をしていって。今、震災後10年でしょ。で、どういう整理の付け方してんのかなっていうのは、すごくよくわかる。当時の(作文を)読むと、「ああ、迷ってるな」とか「悩んでるな」とかっていうのが、すごくよく分かるんだけど、でも書かないと悩みすら整理できないっていうかさ、迷ってることすら整理できないなって思ったんだよね。
言葉にできない部分があるんだっていうことをみんなが理解するっていうことが、すごく大事だな。言葉にできないんだけど、なんとかいろんな形にして伝えていかなきゃいけないなってね。
最初に書いた「命とは何か」の作文でさ、(佑麻は)"命とは強くて弱い、美しいもの"って書いてあるのね。それは覚えてる?

髙橋:はい。

制野先生:で、最後に書いた作文では、"強くて弱くて美しい輝き"って書いてあるの。"もの"から、"輝き"に変わったの。

髙橋:意識してなかったですね。

制野先生:佑麻の書く文章ってやっぱり独特だよね。

髙橋:そうなんですかね。

制野先生:独特だと思うよ、先生は。どうなの?自分では。書くことは嫌いではない?

髙橋:嫌いじゃないですね。本、読んだりはしますね。高校とかでも暇なときはずっと読んでた気がします。なんなら中学校の時とかも、授業中ちょっと気になった小説、(机の)下で読んでて怒られたりとかしましたもん。

制野先生:じゃあ読みまくって、あと書きまくって小説家になっちゃえばいいじゃん。

髙橋:でもそうですね、文章にしてやっぱ伝えるっていうのは自分で何か、いいなって思ってはいるんで。だからやっぱ、そこら辺の路線に行きたいかなって感じは、うっすらとはしてるんですよね。

制野先生:先生も書くのは好きだけどさ、追求してみたら?

対話は後編へ続きます
後編の内容は…
・いちばん近くて親しい家族だからこそ語れない
・三人兄弟の真ん中だった自分が、震災で姉を失って…
・震災後、母親がわりになってくれた祖母

髙橋さんに許可をいただき、「命について考える」作文の最初の授業で書いた作文を掲載させていただきます。

「命」とは何か(その1)~私の震災体験~    髙橋 佑麻

僕は震災前も震災後もずっと命のことを考えてきました。命について書けることを少しだけうれしく思います。
震災前は命について考えるといっても、好きな虫がすぐに死ぬのはなぜだろう?そんなきっかけでした。そんなことから考え続けていて、もっと深く考えることになりました。あの日の震災で。
地震がきたとき、僕は小学校で委員会活動をしてました。下の階では弟が待っててくれてました。地震がおきた直後はあまりおぼえていません。弟の心配でいっぱいでした。体育館にひなんして弟と会った時、弟が泣きだしてしまって、それに安心したのか僕も泣いてしまいました。でも、まだ家族と家が心配でした。「早く家に帰りたい 家に帰れば地震なんかいつもみたいにおさまる」そう思ってました。
家に帰る時、ラジオで津波けいほうが聞こえてきました。家に帰り、みんなの顔を見て安心したけど、けいほうはなったままでした。「まずいのでは?」と思いみんなに「ひなんしようよ」と言ったら、親に「大丈夫、こない、こない」と言われました。今思うとここで下がらずもっと言えばよかったなあと思います。津波がくるのは一瞬でした。
「地面が割れてる!」そんな話をしながらふと外を見てたら、左の家のすぐ左の道路に黒い水が流れてました。「えっ?」僕がかたまってると、目の前の草原と右の道路から同じような黒い水が流れてました。水が家におしよせ、みずが上にあがっていき、自分に「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせてたその時「パリン!」居間の大きいまどがわれ、いっきに水が入ってきました。水がまだまだ流れてくる中、お父さんと弟がいないことに気づきます。でもそんなこと考えてるひまはない。お母さんが水でういたたんすにじゃまされていて、それをお姉ちゃんが助けていました。僕はそれをただ見ているだけでした。「足が動かない」そんな表現をよく聞きますよね?それが本当だと始(※原文ママ)めて知りました。
家族が逃げおくれているのに何もできなかったのが今になってもこうかいしてます。水が引いてきてすぐに家族の2人がいないのに気づきました。呼んでもへんじがない、それでも大丈夫だと信じました。
家族で集まって助けを待つときも二人が心配で非常食なんてのどを通りませんでした。家からはなれる時に、本もったいないなあとかどうでもいいことばかり考えてました。現実から目をそむけたかったんだと思います。
何か月かたち、家族の遺体を見た時、信じたくありませんでした。でも、なぜか涙はでませんでした。信じることができないまま時はまた過ぎ、二人の遺体を火そうするときに泣きました、思いっきり泣きました。でなきゃいけない会にもでず、ずっと、ずっと泣いてました。泣きやみそうになると、次の思い出を(次のページへ)

全然泣きやめませんでした。その会が終わるころに泣きやみました。二人の分もがんばろう そう決めて、もう泣かないようにしたけど、少し思いだすたびに泣いてしまいます。
二人はいつでも、今でも見守ってくれてると思います。火そうの時、言えなかったけど今までありがとう。お母さんの優しさはいつでも、どんなときでも、元気にしてくれる魔法みたいでした。
お姉ちゃんのしっかりさは、どんなことも安心して任せられる、助けてくれる、お姉ちゃんなのに、お兄ちゃんのような、それ以上のような存在でした。
おばあちゃんは、おはかまいりしてないと忘れられてしまうというけど僕は絶対にそんなことはないと思います。おはか参りは時間が無いだけで、行きたいと思っているし、行けなくても、見守ってくれていると常に思っているので忘れません。震災の話が長くなりましたが、僕は命については、先生が言うとおり答えなんてないと思います。よく聞く言葉だけど「失って初めて気づくもの」でもあるし、「強くて弱い美しいもの」とも思うし、そのまま「生命を現すもの」だとも思います。でも僕は答えをだせてません、だせるわけがありません、でもそれでいいと思っています。
僕たちはまだまだ「命」とつきあっていきます。なのでずっと考えていきたいです。

「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見てあなたが感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。
2021年3月16日

わたし×支援団体の代表【後編】

東日本大震災で母親を亡くした阿部和好さんと、阿部さんの大学進学を支援した「みちのく未来基金」の代表・長沼孝義さん。
2時間以上に及んだ対話の前編では、10年前のあの日のことや、「友達に出身地を言って気を遣われるのが嫌だった」という阿部さんの大学時代について語り合いました。今回は後編。2人が明かしたのは、10年という時の経過が生んだ世代間のギャップ。そして、震災を機に2人が出会ったことは果たして幸せなのか不幸せなのか・・・、深い人生論に展開しました。

※「みちのく未来基金」
震災で親を亡くした子どもたちの進学を支援するための基金。入学金や授業料を卒業までの間、全額給付する。支援を受けた学生たちは通称“みちのく生”。


阿部 和好さん(25)
宮城県女川町で中学3年生のときに被災。母親が津波に巻き込まれて亡くなった。 石巻市の高校に通い、いったんは卒業後就職することも考えたが、みちのく未来基金の 支援を受け東京の大学に進学。いまは都内の不動産会社に勤めている。

長沼 孝義さん(70) - みちのく未来基金 代表理事
大手菓子メーカーの副社長だった2011年秋に、大手企業3社の協力を得て、みちのく未来基金を設立。きっかけは新聞で親を亡くした高校生の写真を見たことだった。以来、900人以上が基金を利用して大学や専門学校などに進学した。

この対話の内容
- 世代による記憶の差 「私はなんで奨学金がもらえるの?」
- 震災があったから今ある幸せも…
- "みちのく生" 600通りの人生

世代による記憶の差 「私はなんで奨学金がもらえるの?」
みちのく未来基金は、2012年春に大学や専門学校などに進学した子どもたち(1期生)から支援を開始。阿部さんは3期生にあたります。震災から10年がたち、“みちのく生”の間でも世代によって震災の記憶や向き合い方に差が出てきていると、2人は感じていました。

対話の動画が再生されます(音声が出ます)
対話は遮へい板などを用いて感染対策をした上で行いました

長沼:「みちのく」から旅立って何年よ? 2018年の春だからもう3年は経つ?

阿部:3年ちょっとですかね。

長沼:今年「みちのく未来基金」に入ってくる子って震災の時、小学校2年生よ?

阿部:小学校2年生の記憶、私あまりないです。なんで「みちのく」に来たかぐらいは、わかるぐらいですかね。

長沼:うん。当時小学校6年生だとぎりぎり覚えている。あの辺がギリギリ。

阿部:覚えていたり、覚えていなかったり。

長沼:そうそう。去年の支援をする子との面談の時にびっくりしたのが、今年大学に進学したある女の子が、「なんで奨学金もらえるんですか、私は?」って聞いたんだって。

阿部:なるほど。ちょっと衝撃ですね。

長沼:それはさすがに衝撃で、スタッフももちろん進学の時に説明しているはずだけれども、「なんで私奨学金もらえているんですかね」って言われた時にさすがにショックで。だからそういう子が別に普通にいておかしくないっていう。

阿部:そうですよね。当時の年齢から考えても普通に覚えてない人もいるかもしれないですけど、何か記憶をシャットアウトしているって子も、いるかもしれないですもんね。

長沼:そうそう。だからそういう意味じゃ、もう聞かないもん。震災のことは一切。去年の秋に6期生が卒業して、最後に何人か面談した子がいるけど、もうそれで終わり。もう一切聞かない。聞いてももう、何か変に無理に聞いちゃうことになっちゃうし。

阿部:それで何か変な記憶があっても嫌ですもんね。

長沼:嫌だしね。だから、ものすごく難しい状況になってきたね。

阿部:そうすると、話す内容とかも難しくなってきますよね。

長沼:そうそう。だから、スタッフと去年の春にイベントができなかったんだけど、いわゆる“旅立ち”(※みちのく未来基金で進学した学生が大学などを卒業する際に行うイベント。支援者などに決意を語る卒業式のような場)みたいなことは、下手すると、やらせになると。

別に本人はそう思ってないのに、「すごくサポーターの人の世話になって、大学卒業でき本当にありがとうございます」ってそんなに思ってないけども、周りが言うと、何か自分も言わなきゃいけないんじゃないかみたいになったら、やばいよと。
それはある意味では無理やりやらせているので、“旅立ち”はもう考え直そうって言い出したのは1年半ぐらい前なの。そういう子たちになってきた。

阿部:6期生だったら多分ぎりぎりまだ旅立ちはできますけど7、8期生になると。

長沼:うん。当時小学校6年生だから。和好と同じで小学校の卒業式があったり、なかったり。

阿部:多分そこら辺だと記憶にあるんですよね?

長沼:卒業式がどうのこうのって記憶があってから震災の記憶になる。

阿部:そうですね。紐付けで多分思い出せると思うんですけど。


長沼:●●●(※個人名)ってわかる?(和好の)3つ下だけど、それでもあんまり当時を覚えてない。

阿部:3つ下で。まあでもそうですよね。

長沼:だって、▲▲▲(※個人名)の弟っていま、中学2年生になるんだよ。

阿部:結構大きくなりましたね。

長沼:そうそう。あの子は震災の時4歳だった。だって4歳で、いま14歳でしょ?

阿部:ヤバイですね。何していたか、覚えてるんですかね。

長沼:覚えてない。

阿部:そうですよね。私も4歳のころは何も覚えてない。

長沼:もう3、4年で進学だっていう子たちが来たら、もう想像もできない。

阿部:心の底から「なんでもらえたんですか?」になるかと思いますね。

長沼:そうそう。なんで大学の奨学金もらえるんだろうって普通にそう思っちゃう。

阿部:いや難しいっすね。勉強しないとその歴史を思い出せないぐらいの年代になるってことですもんね。なかなかそれは衝撃的。

長沼:やっぱり時間っていうのはすごいわけ。

震災があったから今ある幸せも…

阿部さんたち“みちのく生”は、大学や専門学校などを卒業した後にも、仲間同士で集まるなどつながりを続けてきました。「みんなと出会えてすごく幸せだけど、本当は出会わなかったほうが幸せだったんだよね、矛盾だよね」――こう話す、“みちのく生”もいたといいます。


対話の動画が再生されます(音声が出ます)

長沼:「みちのく」で知り合った友達は何か特別?

阿部:そうですね。やっぱり、違う。例えば大学の友達、高校の友達っていますけれど、なんか「みちのく」は「みちのく」の友達。震災の話を集まってあまりはしないですけど、しても、「あ、やばい」ってなんないのがいいところ。

長沼:やばいっていうことはない。

阿部:気遣わなくていいところはいいかもしれないですね。大学の友達では震災の話はできないのでちょっと気は遣うところはあるんですけど。

長沼:隠し事がゼロで済むってことか。

阿部:そうですね。お酒飲んでポロっと言っちゃって、「やばい」というのはないと思います。そこが「みちのく」の友達かなと思いますけどね。

長沼:お酒飲んでポロって、ヤバいっていう気の遣い方はずっと持っていた?

阿部:大学の同級生とのときは、言わないように心がけていましたけどね。
頭の片隅とかには入れていたかもしれないですね。その話題を出しても多分広がらないですから。広がっても、何ていうんですかね、こう、面白い話にはならないですからね。お酒の席でする話でもないですから。

長沼:ならないもんな、面白い話には。

阿部:ということでいうと、そういった話も気兼ねなくできるのが「みちのく」の友人ですね。

長沼:前にさ、“みちのく生”が3、4人で話している時にたまたま耳にしたのが、「今こうしてみんな出会って仲良くしていることは、本当は、出会わないほうが幸せだったんだよね」という話。

阿部:ああ、深いですね。

長沼:「今、こうやってみんなと出会えて仲良くしているってすごく幸せなことなんだよね」って。「これすごく矛盾だよね」って。

「俺だってお前らと出会わないほうがお前らにとってよっぽど幸せだったんじゃないかと思うことあるんだよね」っていう話を彼らにしたら、「今こうやって会えて時間を過ごしていることの貴重さを感じていることのほうが、何かその大変なことを越えているような部分があるんだよね」って話をした時は、「そういう感覚があるんだな」と思ってさ。何か哲学を聞いたような気がしたよね。

阿部::難しいんですよね。”世界線”が何個もあるとすれば、震災がなかった”世界線”と、震災があった”世界線”を見比べれば、どっちか優劣つけられるのかもしれないですけど。震災が起きたほうしか生きられないですから。起きてしまったものは起きたと。起きたあと自分が享受できたものを考えると、矛盾しちゃうんですけど、震災起きてなかったらこういった経験は得られなかったことのほうが多いですからね。
もし震災起きてなかったら大学とか行ってないかもしれない。

長沼:その可能性高いもんな。

阿部:たぶん私は地元以外を知る確率がほぼなかった。そう考えると、東京も知っている今のほうが経験できたことは多いので・・・何ですかね、損失もありますけど、逆に得られたことも多い。幸せを感じる部分もあるから、「矛盾しているよね」っていう話は本当にそのとおりだと思います。
思い返してみたら、「なんで大学に行けているんだろう」というところに行くけど、そのきっかけはよくも悪くも震災なんですよね。震災は悪っていうか、よくないことですけど。震災が起きたことによって、自分が本来であれば、行けることのなかったところだとか、行けなかった道に行くことができているっていう人も多いんで。

長沼:絶対会うことなかったからね。和好と会うことなんか。

阿部:そこが難しいですよね。

長沼:僕は一応、ビジネスの世界でそこそこ実績のある人だったんだけど、この「みちのく」みたいな活動はまったくど素人だったわけ。ど素人だったから、どうやっていこうというときに、和好とかみちのく生の1期生2期生3期生と会って、感じたことをやってきたわけよね、全部。その結果として今僕はすごくよかったと思っているのよ。はっきり言ってすごく感謝しているのよ。

俺は直接被災しているわけじゃないし、教えてもらったから、いろんなこと。40年間ビジネスで経験していたことの、何倍ものすごいことを今経験してるんだよ、この10年間。これがなんとも言えないよね。だって俺、何人か“みちのく生”に呼ばれて叱られたことあるんだよ。でもありがたいよ。本当にね、そういう意味じゃ本音で。

阿部:本音で話していたと思います、やっぱり。

長沼:「みちのく」の集いをやった時に、小学校が一緒で中学校は違ったのかな、そんな2人が会った。そしたら、「あっ」て顔をして最初の言葉が「お前どっち?」って聞いたの。「俺、おっかあ」みたいな。「俺もおっかあ」って。だから「みちのく」ではそれ(※親を震災で亡くしたこと)が言える、ここに来ているってことはお互いに分かってるわけだから。だから問題は「どっちの親?」っていう。その最初のひと言が「どっち?」だったの。

阿部:それだけで意思疎通が取れるんですね。知らない人が聞いたら何の話か分かんないですよね。

長沼:何の話だよ。いきなり会って「どっち?」だからね。どっちでそれで答えが「おっかあ」だからさ。「どっち」と「おっかあ」だけよ。会話。

阿部:確かにその話ができるのは、「みちのく」で集まった時だったのかもしれないですね。

”みちのく生” 600通りの人生

これまでにみちのく未来基金を巣立った学生たちはおよそ600人に上ります。全員を見守ってきた長沼さんは、「異なる経験や気持ちを抱えている子どもたちをひとくくりにしてはいけないと強く感じた」と、対話の最後に話しました。


左:「みちのく未来基金」代表理事 長沼孝義さん  右:阿部和好さん

長沼:「震災遺児」とか、そのくくりみたいな話がもう嫌でさ。和好だったら、あの日まで15年っていう家族の暮らしがあったわけじゃない?で、その家族はすごく幸せだったり、あるいはちょっといろいろ問題抱えていたり、いろいろ15年があってね。あの日に、どこで震災にあったのか、見たのか、経験したのかって、一人ひとりその経験も違う。で、そこから10年どんなふうに生きてきたか、歩んできたかっていう、多分この3つの組み合わせだと思っているんだけど。

阿部:大きく分けると、そうですね。

長沼:そう。だから、およそ600通り(※これまで巣立っていった“みちのく生”の数)あると思ってるわけよね。本当に600通りの一人ひとりであって、それを全部くくって「震災遺児」としてしまって、何の意味もない。ほんとに阿部和好そのものなんだよね。

阿部:そうですね。私と反対の人もいるかもしれないですもんね。
私は「震災が起きて良いこともあった」って言うかもしんないですけど、「震災起きて良いことは何もなかった」っていう人ももちろんいますから。

長沼:いるよ、少なくない。

阿部:ひとくくりにすると、多分それこそ、問題が起きる。難しいですけど、「なんでひとくくりにするんだ」っていう人が多くて。「やめてくれ」っていう話はなると思いますね。いや、本当難しいのがひとくくりにできないんですよね。

長沼:そう。だから一人ひとりと向き合っていくことが、「みちのく」のスタッフの役目だと、それだけは伝えているんだけどね。一般的に言われるような、くくりとか何かで絶対考えないようにしないといけないっていうことは若いスタッフには伝えるんだけども、それもだんだん難しくなってます。お前らと話しているほうが、よっぽど気が楽。

阿部:もう10年来ぐらいですからね。

長沼:そうそうそう。10年来の付き合いだからさ、もう。ほんとだよな。震災そのものをどう受け止めるかのスタートが違うわけだから。

(ディレクター:すみません。カメラの電池がちょっと切れそうで・・・)

長沼:そうだ。2時間以上やっている。もうそろそろ。

阿部:もう話せば一生こんな感じですよ。話しちゃうんで。(笑)

長沼:いくらでも話しちゃうから(笑)



<あわせて読みたい>
わたし×NHKのディレクター
わたし×中学時代の先生
わたし×支援団体の代表【前編】


「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見てあなたが感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。


トップページに戻る
クロ現+
2021年3月13日

わたし×支援団体の代表【前編】

中学3年生のとき、東日本大震災で母親を亡くした阿部和好さん。震災で親を亡くした子どもたちの進学支援を行っている団体の奨学金を利用し、東京の大学に入学しました。その団体「みちのく未来基金」の代表理事が長沼孝義さんです。

阿部さんにとってこの団体は大切な居場所であり、長沼さんは何でも相談できる人生の先輩として大切な存在です。阿部さんが大学を卒業した後も、団体が主催するイベントや、“みちのく生”(※奨学金の支援を受けた学生たちの通称)が集まる場を通じて、交流を続けてきました。あの日のことや、仲間たちのことなど、ふたりの会話は2時間以上途切れることはありませんでした。

阿部 和好さん(25)
宮城県女川町で中学3年生のときに被災。母親が津波に巻き込まれて亡くなった。 石巻市の高校に通い、いったんは卒業後就職することも考えたが、みちのく未来基金の 支援を受け東京の大学に進学。いまは都内の不動産会社に勤めている。

長沼 孝義さん(70) - みちのく未来基金 代表理事
大手菓子メーカーの副社長だった2011年秋に、大手企業3社の協力を得て、みちのく未来基金を設立。きっかけは新聞で親を亡くした高校生の写真を見たことだった。以来、900人以上が基金を利用して大学や専門学校などに進学した。

この対話の内容
- 対話前夜に震度6 ・・・10年前の“あの日”を振り返る
- 社会人になった今 地元・女川町への思い
- 大学時代は“気を遣った”
- 震災10年 誰のための“10年目の節目”? 

対話前夜に震度6・・・10年前の“あの日”を振り返る
阿部さんと長沼さんが対話したのは、2月14日。ちょうどその前日の夜、福島県と宮城県で最大震度6強の地震が発生しました。半年ぶりの再会は、あいさつもそこそこに前夜の地震の話から始まり、話題は10年前にさかのぼりました。

対話の動画が再生されます(音声が出ます)
対話は遮へい板などを用いて感染対策をした上で行いました

長沼:向こう(東北地方)の“みちのく生(※みちのく未来基金の支援を受けた学生たち)”のOBにすぐ連絡してさ。

阿部:家、大丈夫でした?

長沼:うん。みんな大丈夫。▲▲▲(※個人名)の家の中は結構倒れたらしい。

阿部:仙台の中のほうに行けば行くほど、結構やばかったみたいな。 私の家族も無事でよかったんですけど。女川町はそんなに家の被害はなかったらしいですが、沿岸部はちょっとひび割れしていましたね。

長沼:ぶっちゃけた話だけどさ、和好はさ、もう全然フラッシュバックはない?

阿部:あんまりないですね。でも、こっち(東京)が揺れる前に、あっち(東北)がすごく揺れていたんで、これはやばいんじゃないかなって正直思ったんですけど。当時を思い出してどうだっていうのは、特段なくて。これだけ大きいから「津波やばいかな」とかと思いはしましたけど、すぐ父親とも電話して。震源が60キロで深いから「津波は大丈夫だろう」と。それで一瞬安心はしたんですけどね。余震がちょっとまた怖いですけど。(地震が起きた)時間帯が最悪でしたよね。夜11時過ぎぐらいでしたもんね。

長沼:そろそろ寝ようかっていう感じだからね。

阿部:本当に、今回幸い津波来なかったですけど、これで津波が・・・ってなったら大変でしたよね。

長沼:あの時だって中学校にいたんだろう?10年前は。

阿部:10年前は卒業式の前日で式の練習して、帰って、友達の家で。

長沼:あ、帰ったんだ。

阿部:そうです。その時は友達の家で明日の卒業式の話をしたりとか、ワチャワチャしていた中で地震が来たので、幸い1人じゃなかったのがよかったかもしれないですね。

長沼:それで逃げろーって話になった。どこに逃げたの?上?

阿部:本来であれば学校が上のほうにあるので、そこに行けばよかったんですけど、友達3人でいて。 1人がちょっと彼女のところに行くと言って。で、私も1人でいるのは寂しかったから一緒に行って。たまたま上のほうに行っていた時に、同級生のお母さんと合流して、そこから翌日、翌々日と女川高校のグラウンドで。

長沼:高校のグラウンドか。

阿部:雪が降ってきたもんで、車の中で・・・

長沼:過ごしたんだ。

阿部:あとは(女川原子力発電所の)体育館で。半月ぐらいはみんな集まっていたと思いますね。

長沼:ええ?半月もいたの?あの辺に。

阿部:そうですね。段ボールで区切られた避難所で寝泊まりして。2週間ぐらい風呂入れなかったですけど。

長沼:そうだよな。卒業式どうしたの?

阿部:3月中だったんですけど、私がまだ体育館にいる時のうちにやったのかな。卒業式というか集まって。

長沼:式にはならないもんな。

阿部:“卒業式もどき”みたいなのやって、みんな着のみ着のままでやった記憶ありますけどね。

社会人になった今 地元・女川町への思い

阿部 和好さん

長沼:石巻線が開通した後にさ、俺、女川に行ったんだよ。

阿部:結構遠いですよね。

長沼:車ではね、何度か女川に行ったんだけど、電車を使ったことがなかったから。いっぺん電車で、女川から石巻に行ってみたいって。「和好たちは多分これに乗って毎日学校に通っていたんだろうな」っていうのを妙に感じたくてさ。遠いんだよな、結構な。

阿部:遠いですよ。

長沼:和好は女川に帰ることはない?

阿部:そうですね。今のところ社会人をやって・・・大きな転機がない限りは無いかなと思うんですけどね。

長沼:向こうに兄ちゃんはいるの?

阿部:いま、兄2人は石巻に住んでいて、父親と同じ会社で働いています。女川町には住んでないですけど、その付近で働いてはいます。父親含めて今後、女川に帰る選択肢は、あまり可能性は高くないですね。高校の同級生で、女川に戻って親の仕事を継ぐ子は1人いますけど、基本的にはあまり今はいないですかね。悲しい話ではあるんですけれど。

長沼:この春でもう4年目だろ?社会人。

阿部:そうなんですよ。恐ろしいことに。

長沼:丸3年だよ。続いてんな、お前な。

阿部:いろいろありましたけどなんとかやってますね。

長沼:丸3年っていうと、社会人経験者で言うとさ、ちょっと一人前だよね。会社的にはね。

阿部:ちゃんとしてほしいと思われているかもしれないですね。私は小さい町出身だからかわからないですけど、あんまり変わるのが好きじゃないみたいですね。

長沼:そうなんだ。

阿部:自分から変わろうとしないというのは悪いところもあるかもしれないですけど。

長沼:でも、もともと別にそういうわけじゃないでしょ?

阿部:自分の今までの生きた経歴みると、そのまま流れに沿って生きてきた感じはあります。

長沼:東京に出てきたのは相当な勇気やん?

阿部:あれも先生に言われたんで。一番大きかったのが、高校終わってすぐ働くというイメージが漠然とあったんですよね。

長沼:あったんだ。やっぱり。

阿部:父親ともそういう話だったんですけど、もう1人の友人とゲームのように高校のテストで競っていて、たまたま成績が良くて。先生に「こういう選択肢もあるぞ、大学入ったほうがこれぐらい広がるよ」みたいなこと言われていて。で、親を説得するにしても「お金はどうするんだ」という話もあって。

長沼:「みちのく未来基金」のことは学校の先生から聞いたの?

阿部:そうですね。学校の手続きを担当してくださった先生が「こういった基金があるんだけど」って話があって、私として父親を説得できる材料ができましたね。

大学時代は“気を遣った”
阿部さんは、「みちのく未来基金」の奨学金を利用して東京の大学に進学しました。同じように東京に出てきた“みちのく生”が打ち明けた悩みが、長沼さんの印象に残っているといいます。

対話の動画が再生されます(音声が出ます)

長沼:▲▲▲(※個人名)はお母さんを亡くしているんだけど、話を聞いたら、「長沼さん、東京の学校行ったら、『どこから来たの?』って聞かれるじゃない。私、石巻って絶対言わない」って。「仙台から来た」と答えていた。震災の記憶がまだ東京でもある時だったから、「仙台は大丈夫だったの?」と聞かれても、「まあ仙台は少し離れていたから大丈夫だったの」っていう話で打ち切るようにしたって。

阿部:その気持ちは、すごくわかります。

長沼:その子は「だから私ね、お母さんは死んでないことにしていたという言い方した」って。

阿部:そうですね。多分、“みちのく生”で東京に来た子は大体その言い方になっていると思いますね。

長沼:そうだよね。

阿部:根掘り葉掘り聞かれて、その場の空気が悪くなる。ちょっと悲しい空気になっちゃうので難しいんですよね。震災の話をするのは。

長沼:ある人は「どこから来たの」って言われて、「釜石」って言った瞬間に相手の顔が変わることがあったって。

阿部:わかります。

長沼:「顔が変わってその人、私にすごく気を遣い始めるんだ」って。もうひしひしと感じる。そうすると「今度私がその人に対して、今度は『そんな気にしなくていいのよ』って気を遣う。気を遣われる、気を遣うっていうのはもう空気で分かる、それが嫌だ、だから言わない」って。

阿部:その通りですね。間違いないです。

長沼:それはよく分かるよね。

阿部:多分その言葉が来た段階で頭の中でシミュレーションできますね。「ああ、こうなるな」と。私も東京に来て、その話はあまりしなかったかもしれないですね。できるようになったのは大学3年生のとき。できるようになったというか、その話をするようになったのは気心知れてから。

長沼:よっぽど気心知れた友達。

阿部:になってからですよね、そういった話をするのは。大学1、2年生の時は言わない。本当に深く聞かれれば言いますけど、普通の話の流れで聞かれているのであれば、「宮城だよ、仙台だよ」で終わりにしていましたね。

長沼:そうだよね。宮城・仙台が無難だからね。

阿部:無難ですね。石巻とか言うと…

長沼:ややこしくなるもんね。

阿部:もう100%の確率で「震災大丈夫だったの?」って。それは社会人になっても聞かれますね。社会人になってから別にそんなに気にしなくなったので。会社の規模も、支店自体大きくなかったので、「石巻です」「震災大丈夫だったの」「いや大丈夫じゃないです」みたいな話はできるようになりましたけど、学生時代はそこの距離感とかが難しいですよね。

長沼:難しいよね。

阿部:今後一緒にやっていく友達の中での空気感が難しくなるのと気を遣われる、気を遣う。それが多分本当に大変だったと思いますね。

長沼:その「気を遣う」「気を遣われる」っていう言い方がものすごく合っているというか、そうだよねって感じる。

阿部:会話がテンポを失いますからね。本当に。

震災10年 誰のための“節目”?

「みちのく未来基金」代表理事 長沼孝義さん

長沼:話変わるけど、ここ2週間でメディアとかいろいろ問い合わせがあってさ。

阿部:(3月11日が)近くなってきたからですね、きっと。

長沼:企画書とかに必ず“節目の10年”って書いてあるわけよ。それが俺、腹立ってさ。「節目って言っているのお前らだろう」と。“みちのく生”と付き合っていて、8年も9年も10年も何にもないわけでさ。勝手にね、節目って要するに区切りでしょ?

阿部:なんの区切りなんだって。

長沼:そうそう。それがさ、必ずいつも企画書にあるわけよ。腹立ってきてさ。お前らが区切ってんだろうみたいな。

阿部:メディアで、伝えやすいんですかね、10年。キリがいいからは絶対あると思いますよ。

長沼:キリないでしょ。何も。

阿部:私はないですけどね。数字的なキリだと思いますよ。

長沼:二十歳の成人式は区切りあったけどな。あれは節目かもしれないけど。

阿部:人生的なところでいうと大事なところですけど、震災から10年って言われてもなんか変わるわけじゃないですからね。

長沼:“みちのく生”は、みんなそう。この間もちょっと会うことあったけど、やっぱりその話になってさ、「誰が勝手に決めるんだ」ってすごく怒っていたよ。七回忌と十三回忌ならまだ分かるでしょ。

阿部:わかります。それとは全く違いましたもんね。10年だからうんたらかんたらって話じゃないと思いますけどね。

長沼:それでまた20年目になるとまた節目っていうんだろう。でも12年目には言わないよな。

阿部:言わないです。13、14、15・・・15も多分言わないですよね。

長沼:言わないな。

阿部:毎年この時期になるとあったのが、ただ形式変えて10年目になっただけっていう認識なんですかね。わかんないですけどね。

長沼:「みちのく」の活動をやっていなかったり、お前たちと全然接することもなかったり過ごしてきたら、何の抵抗もなくそれを受け入れられていた思いもある。だけどひょんなことから、みんなと接することがあって、いろいろなことを考えるようになって。本当に節目が何の意味も持たないっていうのが、自分として納得できる。そういう感覚になってきたんだよね、不思議なもんでね。

阿部:私たちからしたら、普通どおりの1年と変わらないものですからね。3年目4年目5年目10年目、多分自分たちとしては変わってないですけど周りから見られる目が変わってるだけだと思うんですよね。

長沼:そうだよね。

対話は後編へ続きます
後編の内容は…
- “みちのく生”の間でも、震災の記憶やとらえ方に世代間のギャップが…
- 「震災がなければあったはずの幸せ」と「震災があったからこそ今ある幸せ」の矛盾感 


<あわせて読みたい>
わたし×NHKのディレクター
わたし×中学時代の先生


「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見てあなたが感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。


トップページに戻る
2021年3月10日

わたし×中学時代の先生

宮城県内のカフェに集まったのは、東日本大震災で親を亡くした20代の2人と、彼らが中学生だったときの恩師。大学を卒業し教員になった2人が「同じ道の先輩である先生に会ってみたい」と考えていたとき、先生が「教え子たちがいまどのように過ごしているか、話をしたい」と声をかけたことで、久しぶりの再会となりました。

小林 雅彦さん(仮名)
震災当時は、宮城県内の中学校で保健体育の教員。子どもたちと卒業を祝う会をしていたときに被災し、教え子3人を亡くした。震災後、子どもたちに作文を書いてもらうことで「命について考える」授業を行ってきた。

高橋 康太さん(仮名・24)
中学2年生のときに被災。津波で父を亡くし、自宅は流された。震災直後は両親の実家に身を寄せたが、いまは母と2人で暮らしている。大学卒業後、宮城県内の小学校で教員として働いている。

渡辺 あかりさん(仮名・23)
中学1年生のときに被災。津波で母を亡くし、自宅は流された。震災後は避難所から仮設住宅に移り、高校卒業まで家族とそこで暮らした。去年春、大学を卒業して、宮城県内の小学校で教員として働き始めた。

この対話の内容
- 3年ぶりの再会 かつての先生は教員としての“先輩”に
- 避難所から仮設住宅へ「あのとき本当にやばかったと思う」
-「震災のことを伝えるの、難しいよね」
-「親の話がタブーにされているのが、違うなって」 
-「お母さんがなんでそう言ったのか、そこは宿題だね」

3年ぶりの再会 かつての先生は教員としての“先輩”に

左:高橋康太さん 中:渡辺あかりさん 右:小林雅彦先生


3年ぶりの再会となった3人。大学卒業後、高橋さんと渡辺さんが選んだ仕事は小学校の教員でした。高橋さんは教員2年目、渡辺さんは去年春になったばかりです。3人の会話は、近況報告から始まりました
高橋:すみません、遅くなりました!

小林先生:いやいや、いまちょうどあかりの話聞いてて。

高橋:道が混んでて。今日、あれですよね、マラソン大会?

小林先生:初任研修の1年目と2年目か。この2人が教員になるっていうの、康太は何となく聞いてたけど、あかりが教員ってのは…

渡辺:なんでですか!?

高橋:イメージはなかったけど、確かに。

小林先生:イメージなかったよね。

渡辺:自分でも思ってますよ。なんでやってんだろう、こんなやつが、みたいな。

小林先生:教員の世界ってぶっちゃけさ、めっちゃ毎日楽しいとかっていう感じじゃないじゃん。地道に授業やっていくでしょ?それと、あかりの性格考えた時にさ…。

渡辺:ねえ、やめてください。お前はできないだろってやめてください!(笑)

小林先生:違う違う!子どもと遊ぶとか、楽しい会をやるっていうイメージはある。

渡辺:まじでもう続けられないって思ってます。いまだに。多分10年もやらない。

小林先生:10年やらない?

渡辺:むしろ5年も…。4月とか1週目で「私辞めるわ」とか「来月には辞めようかな」と思って。毎日、1週間で仕事辞めた教員とかめっちゃ調べてました。そんな人いるのかなって検索して。康太くんにめっちゃ愚痴りました、先月くらいに。

高橋:1回僕に電話きました。

渡辺:就職して、1回も連絡してなくて。先月、「ちょっと電話していいですか」っていって電話して。担当が小学2年生で一緒なんですね。もういろいろ、バーッて言って、やばいねみたいな話をしてました。

「あのとき、本当にやばかったと思う」


同じ中学校の1年生と2年生だった時に被災した2人。渡辺さんは避難所で3か月間過ごし、その後仮設住宅に移りましたが、そこでの生活は高校を卒業するまで続きました。当時の、家族とのギスギスした状況を振り返りながら、思っていたことを語り出しました。
高橋:10年前。もう10年がたちますね。

渡辺:やばい。そんな前なんだ。いやだな。

高橋:信じられないですね。

渡辺:長いなあ。いや、そうでもないか、早いか。

高橋:早いよ。

渡辺:逆ですね、もうそんな経ってましたか。

小林先生:震災後って勉強するのやっぱり大変だったんだ。みんな仮設住宅に入っていたりするから。

渡辺:確かに。懐かしい。

小林先生:あの時さ、仮設だっけ?

渡辺:仮設の前、学校再開したすぐは避難所だったんですね。
言いましたっけ?私1年生の時、めちゃめちゃ優秀だったんですよ。まあ、聞いてください。

高橋:武勇伝。

渡辺:そう、武勇伝。めちゃめちゃ優秀だったんですね。だからすごい褒められるし、「よし頑張ろう」と思って毎日自主勉強とかめちゃめちゃ頑張ってたんですね。
避難所でも、消灯されている中、みかんの段ボールの上で勉強してたんです。でも1か月ぐらいでぽきって折れて、「もう無理」って思って。朝も早いし、部活もあるし、疲れてるしってなって、そこから面白いぐらいに成績も...。みんな引っ越して、震災後に1学年1クラスになったから、1クラスに39人いたんですよ。で、経験したことないんだけど、この狭さみたいになっちゃって。

左:渡辺あかりさん 右:小林雅彦先生


渡辺:私、一番後ろの席だったんですね。そんな環境で授業受けたことないから、困難になって。しかも私、文房具全然持ってなくて。親にも言えなくて。友達がボールペンをくれたりしました。「これ、あげる」みたいな。シャープペンぐらいは持ってましたけど。

小林先生:え、そうだったの?

渡辺:もらっても、結局折れていたりとか、使えないじゃんこれみたいなのばっかり。

小林先生:そうだったの。

渡辺:マジで、本当に私ヤバかったと思う、あの時。

小林先生:あそこ3か月って結構きついな。

渡辺:でも、だんだん慣れてくるんですよ、人間って。最初の方はマジでもう全然寝れないし。いろんな人いるから、暴れまわってる人もいるし。それで、警察来たりしたし、人も多かったから。ですけど、だんだん、プライベート空間なんてないもんだと思って過ごしてて。仮設住宅の方が私はきつかったかも。もう本当にヤバかったです。5人家族で3部屋しかなくて。一つはリビング・茶の間で、一つは祖父で、寝る部屋が一つしかないんですよ。だから、リビングで机を避けてそこに兄が一人で寝て、もう1部屋に父と、私と弟が二段ベッドで寝る。マジで最悪でした。だから絶賛反抗期で高校時代は荒れまくり。

高橋:兄弟いたらそうなるよ。

渡辺:理不尽なことにめちゃめちゃ怒って、壁にバンってめちゃめちゃやってました。

小林先生:荒れてたっていうのはお父さんに反抗してたの?

渡辺:めちゃめちゃ反抗してました。結局、家族に女子1人だし、わがまま放題みたいな感じだし。

小林先生:お父さん、そんな素振り見せなかったけどな。

渡辺:でも、大学行って離れたら私がめちゃめちゃ丸くなって。帰って実家で皿洗いしたぐらいで「雪降るぞ」みたいな。いや皿洗いぐらいするけど、みたいな(笑)

小林先生:いま考えれば、よくやったよな、1年な。考えられない。

渡辺:考えられない。確かにね。

小林先生:よく勉強できたな。

高橋:全然ダメですよ。

渡辺:マジで出来てなかったですよ。

「震災のことを伝えるの、難しいよね」


被災地で教壇に立つ教員たちが最近直面しているのは「防災教育」。震災当時、小中学生だった2人のような教員が、震災後に産まれた世代にどう記憶を伝えていくかが重要だと小林先生は考えています。日々、子どもたちと向き合う高橋さんと渡辺さんは…

高橋:自分の学校では6年生が地域の防災マップとかを作る学習はしているんですけれども、なかなか。他の学年でっていうのはないです。あと、防災のリュックの中身どんなもの入れてるかなっていう授業を一緒にやるのはありますね。

小林先生:2人とも内陸の小学校なので、多分直接被害とかって…

渡辺:ないと思う。

高橋:沿岸に住んでた方も多分いらっしゃると思うので、津波を経験されてるお家の人もいると思うんですけど。震災の時はほとんどの方が内陸にいたっていう人もいたし、いま受け持っている子たちは震災の後に生まれたので。

小林先生:伝えるの難しいでしょ?

高橋:分かんないですもんね。「何だろう」みたいな感じだし。多分、去年5年生だった子たちでさえ、そんなにピンと来るものじゃないので。

小林先生:そりゃ、そうだよな。だって、生まれるか生まれないかくらいの。

高橋:そうですね。ちっこい子らなんで。

小林先生:でも、やっぱり伝えなきゃいけないからさ。

渡辺:私、普通に子どもたちに言いました。地震があった時に、へらへら笑うんですよね。「本当に自分の命なんだから、先生がいるって限らないし。自分の命は自分で守ってもらわないと」っていう話をして。「実際に、みんなは分からないかもしれないけど、あの震災の時だってそうやって大丈夫って思ってて、それで亡くなってる人もいる。実際、先生の友達だって亡くなってるよ」って言ったら、それで「え…」みたいになって。 そこから地震とか防災の時はわりと真剣に聞くようになって。生々しいんですかね。2年生には打撃がちょっと強かったかなとか思いながらも、でもそうやって考えてくれるなら私は良いのかなと思って。どうなんだろう、難しいですけどね。

小林先生:前もそうだったけど避難訓練とか、やっぱり真剣にやんないやつっていたんだよ、ずっと。ずっといたけど、経験すると、やっぱりこれは真面目にやんなきゃいけないって、思うんだよな。

渡辺:思いますよね。

小林先生:経験してないと一瞬力抜くよ、どうしても。そこで何を語るかだよ。何を語って、何を伝えるかっていうかさ。は、すごく大事だと思う。だって、本当に語れる最後の世代に近いんだよ。当時小5くらいまでの子が何とか語り部とかもやってる。だけど、小3とかさ、当時小1とか小2の子ってね、語り部はもうできないんだよ。微かな記憶しかないから。だからそうなると、語り部のできる層が結構限られてくる。

高橋:個人的に震災を語るのも大事だと思うんですけど、例えば近年は台風とかも被害は多いわけで。例えば沿岸とかでは震災の話を語って、津波から身を守るとかはすごい重要になると思うんですけど、いま自分がいる学校だったら、津波よりは別の防災の方がより大事になってくるっていう所もあるので。震災を語るのも大切だと思うんですけど、やっぱり身を守るためにできること何なんだろうねっていうのはその地域柄でちょっと変わってくるのかなって思うんですよね。小林先生がおっしゃることも分かりつつ、でも、その所々でやることはちょっと変わってくるんじゃないのかなって思う。

小林先生:そうだね。一番はやっぱり、どっちにしても実感を持たせるか持たせないかっていうのがポイントでさ。頭の中だけで考えてるとなかなか伝わらないんだよね。あと、もう人の移動がいま激しいからさ、内陸に住んでた人が海側に行くとか、海側の人が内陸に行くとかいうのはもうどこに行ったってあり得ることで、そうすると、上からの災害も考えないといけないし、海からの災害も考えなきゃいけないし。

「親の話がタブーにされているのが、違うなって」
小林先生:職場にいない?もう全然震災のことを分かんない人とか。

渡辺:私の場合は防災の話になって色々話しているうちに結局親の話になって、「こうなんです」みたいな話をしたら、そこからもうタブーみたいになっちゃって。だから私は嫌なんですね、そういうのをしゃべるのが。もちろん、話した方がこれからに繋がるなってもちろん分かるんですけど。結局「ごめんね、この話触れちゃって」みたいな、そのタブー視感がすんごい嫌で。別に私悪いことしてないし、なのにそういう感じで来られると、こっちもやっぱり話しにくいし、でも自分からは切っても切り離せない話だから言ってるのに、隠すのも違うかなと思って私は結構言っちゃう人なんですね。ちょっと親もいなくてみたいなことも全然言っちゃうんですけど。でも周りからしたら、「そうなんだ。ごめんね」みたいな。何に対してのそれは「ごめんね」なんだろうと、すごい思っちゃう。

小林先生:触れちゃいけないみたいに気を使っちゃうんだな。

渡辺:確かに、私もそっちの立場だったらそう言っちゃうし、「やばい、やっちゃった」みたいになるとは思うんですけど、当事者になった時に、何かそれ違うなとか、逆に、話したくなくなっちゃうってなるから、私は全然そういう語り部とかもやらなかったし。

小林先生:気使うのは使うけどさ、もうちょっと共感するとか、なんて言うんだろうな、そのこと自体をみんなで受け止めるっていう雰囲気にならないと語れないよな。結構受け取る方の問題大きいと思うんだよな。
そんなにいろいろな所でどんどん語れとかじゃなくて、受け取る方として、タブー視するみたいな姿勢だとさ、何の教訓化もされないでさ、隠されていっちゃうんだよね。むしろやっぱり語れる範囲内で語ってもらって、こっちも聞ける範囲内で聞くっていう姿勢でないと。真剣に聞き取る人がいて、そこにちゃんと届ける機会があってっていうのをちゃんとみんなで保証し合わないと、どんどん隠れていっちゃう。

渡辺:そうですね。あとは、話すと自分もしんどい。私はわりと話す方ですけど。結局なんだかんだで、だんだん「自分の首絞めてるな」みたいに思ったんですよね。「疲れるな」みたいな。

小林先生:やっぱり語るのは疲れる?

渡辺:私、泣いちゃうんですよ。やっぱり。どうしても。学校でもそれで何回も泣いてるし。もう全然話すのはそんなあれなんですけど、やっぱり思っちゃうんだろうな、みたいな。なんだかんだで負担っていうか。

小林先生:10年経ったって変わんねえよな。

渡辺:何にも変わらないです。そんなんで。

左:小林雅彦先生 右:高橋康太さん


小林先生:康太もあんまり語んないか?

高橋:んーなんだろう。別に話したくないわけではないけど、あんまり普段考えないっていうか、話そうって思わないし。でも別に話したくないわけではないですけど。話してって言われたら別に話せるし。震災の経験はあって、地震とか津波とかには確かに敏感な所はあると思うし、同じような経験してる人がいたら、そうだよねって思う部分ももちろんあるんですけど。普段から震災のことを見つめてるわけじゃないから。いまはまた別のことの方が考えてる時間が多いから。
上手く言えないですけど、いざ「震災の話をしてください」って言われれば、もちろんみんなの前でするとは思うんですけど、その必要性がないって言ったら変ですけど、そういう場所に自分がいるので。あまり震災を語るっていうことがいま頭の中にあるかって言われたら特にないかなっていう感じですね。震災で父親を亡くして、当初は悲しいなとか、そういう気持ちはもちろんあるんですけど、いまじゃあそんなマイナスな気持ちで生きてるかって言ったらそういうわけじゃないので。むしろ仕事辛いとかはあるけど、楽しい事もあるので。そっちの先のことっていうほうが考えていると。

小林先生:結構もう前向いてる感じはする?自分のなかで。

高橋:そうですね。亡くなったお子さんのこととか、家族のことをずっと考えてる方も多くいらっしゃると思うんですけど。僕は、そもそも早い段階であまりそこは考えてないっていうか。多分、うちの人がそうだからかもしれないですけど、それはそれ、でも自分は自分だからみたいな感じなんじゃないかなって。だから、まだ立ち直れていない方とか、もしかしたらいるかもしれないですけど、そういう人の気持ちはなかなか僕はちょっと分からないかな。逆にそういう人の話は聞きたいかもしれないなって思いますけど。

小林先生:なるほどね。

高橋:変な言い方すると心が冷たくなってる状態がそんなない、あったかい状態が続いてるから、震災について突き詰めて嫌な気持ちになるっていうのが、振り返った時にないのかもしれない。
なんかもう、震災ってすごかったじゃないですか。自分以外にも誰かを亡くしている人っていっぱいいるから。自分しか親がいなくなった人がいなかったとかだったら嫌だと思うんですけど、もう亡くなってる人が何万人もいるわけじゃないですか。だからしょうがないっていう、言い方はよくないですけど、そういう気持ちもあるから切り替えてるんじゃないかなって感じですね。
震災って辛いじゃないですか。でももっと乗り越えなきゃいけないことってあるじゃないですか、人生の中で。大学受験だ、教員採用試験に受かんなきゃ、明日の授業頑張んなきゃとか、そういうほうが多いので、目先に逆に目標があるからそうなのかもしれないですけど。なので、いざ震災のことを伝えるっていう感情はいま、ないですね。もっと伝えなきゃいけないこととかは他にあるんじゃないかなって思います。だから小林先生とは少し考え方はもしかしたら違うのかなって思うし、考え方違うけど、じゃあ小林先生が考えてることが変なのかっていったら、全然違う、変じゃないし。それはもちろん大切なことだと思うので、それはそれで必要だなと思うんですけど、自分はその場所には、もしかしたらいないのかもしれないなっていう感じですね。

小林先生:前向きに進んで、“乗り越えた”みたいな形で前に向かっている人たちはたくさんいると思う。その中の何割かの人たちは日常の中でフラッシュバックを繰り返しているっていう人もいてさ。その人たちはとりあえずきちんとケアしなきゃいけないっていうのもあるし。あとは、たまたま教員だからそう思うのかもしれないけど、あと10年後20年後ってなった時に、多分語りがまた変わってくるというか。いまはもう目の前のことで目いっぱいだからそれでいいと思うんだけど、これが20年30年経ったときに、自分が次の世代に何かを伝えなきゃならないってなった時に、また別の語り部が出てくるのかなと思う。 その時に、多分いまみたいな生活って多分できないから、もう年取ってきちゃって。そうなると、次の若い先生たちに何か伝えなきゃいけないとかさ、これだけは言い残しておかなきゃないとかっていうのが多分出てくるかなって思う。

高橋:僕は震災の後に、いままで生活した場所とは異なりますけど、ある意味、震災前と変わらない暮らしまではいかないですけど、当たり前の生活に早めに戻れたというか、仮設とかにいたわけじゃないし、避難所に生活してたわけじゃないし、それは母が多分なるべくそういう部分で苦労かけたくないとか、受験もあるだろうしと考えてくれたのがあって。早めにここに戻れたっていうところもあるのかなって。
小林先生たちが部活とかで「マイナスを少しでも払拭」っていうのもあるし、みんなで学校行けてるとかもあるし、いままで順調にきてたのもあるのかもしれないです。
けれど、震災の後からいまにかけてそんなにマイナスな出来事とか、そういうのはあんまりないんじゃないのかな、って思えてるんですかね。

小林先生:かなりいろんなもの積み重ねたよな。考えてみりゃさ。それこそ、普通は受験とかも障害に見えちゃうけど、でもそれすらも前向きに捉えないと乗り越えられなかった。

「お母さんがなんでそう言ったのか、そこは宿題だね」

左:渡辺あかりさん 右:小林雅彦先生


まだそんなに前を向くことができていないと切り出した、渡辺さん。母が震災前に渡辺さんに言ったひと言が心に引っかかっているといいます。

渡辺:私はそんなに前を向けてないと思って、いま聞いてて。その切り替えがすごいなって。「あっ、私ってずっと足踏みしてる人だな」って思いました。
結局、教員になったのも母から言われてたから。「教員になったら?」みたいな感じで多分、彼女的にはさらっと言ったのかもしれないけど。だから父も「えっ、そんなこと言ってた?」みたいな感じなんですけど、でも私の中で結構それが残ってたから。

小林先生:そうなんだ。

渡辺:結局そうなって、その呪縛からずっと抜け出せずに、こうなるのかなみたいな感じでやっちゃってて。なんだろう、自分の意志とはやっぱり違うから、結局高校も母が言ってたところに入ったし。将来の道っていうのもそうやって言われてたことだから、それこそいままで自分で選択をしたことが全然なくて、だからすごい苦しくて、私は。
かといって、それしかしたことがないから自分でどうしていいかがすごい分からなくて、ってなった時に、まあもちろん楽しいこともあるし、そこがすごく私は全然違うと思って。

小林先生:そうすると、お母さんがさ、あかりの中の何をこう見抜いてたかだよな。

渡辺:ノリじゃないですか。分かんない。ママちょっと適当な人だから。

小林先生:分かんないけどね。多分何かはあった。だってそんな何もなくてそういうこと言わないから、親は。

渡辺:なんとなくじゃないのかな。・・・わかんない。

小林先生:そこは宿題だね。

渡辺:はい。でも見いだせない気がする。

小林先生:それは宿題だと思うよ。でも大事だと思う。それは自分の意志じゃないとは言うけど、やっぱりどこか自分で決めたところもあるわけだから。それと、お母さんが出した宿題と合わせた時に、自分ってこういうところがいいのかなって。

渡辺:えー、でも全然それも考えられなくて、だから周りの先生にも、なんかお前もっと自己肯定感高めろとか言われるんですね。いやいや、普段そんな感じなのに逆に自己肯定感高まると思います?みたいな。で、ずっとそんな感じだから他の先生とかに会っても、「えっ、自己評価ちょっと低すぎませんか?」とか言われるんですね。でもそんな感じで、自虐でいつも生きてきたから、なんか全然いいところなんて見つからないし、みたいな。

小林先生:ま、その先生の評価よりやっぱり子どもの評価を見た方がいいよ、ちゃんと。

渡辺:いや、でもどう思ってるんだろう。子どもたち。

高橋:毎日遊んだ方がいいよ。

渡辺:もうほんと初任研修との兼ね合いが無理すぎて、全然遊べなかったんですけど、最近鉄棒とかもね、体育が始まったので。ちょっと子どもたちと一緒にやって。

小林先生:やっぱ10年とか20年たって会ったときに、初めて、あ、こういうことだったのかなって。それも本当に、かすかな答えしか返ってこないから。そういう仕事だからね。物を作るのと全然違うから。それを信じるしかないよ。
足踏みしてるっていうのは、悪い意味じゃないんだもんな。悪い意味じゃないかもしれない。止まってるっていう意味じゃないもんな。足踏みしてると。そこに帰ってるって。常にそこに帰ってるっていうふうに思えば。

渡辺:なのかな。

小林先生:分かんないよ。康太だって、こう言いつつ足踏みしてるのかも分かんない。いま必死でさ、生きてるんだから。

高橋:必死だから。

渡辺:必死だから。

高橋:早く土日来ないかなって。

渡辺:いやめっちゃ分かります。

高橋:毎日、毎日、土日来ないかな、早く。

渡辺:早く終わんないかな。

小林先生:分かる、その気持ち。日曜日の夜ってへこむよな。

高橋:最悪です。

渡辺:やばい、マジ、メンタルやばい。

高橋:最初やっぱり「サザエさん」見てたんですけど、マジでおなか痛くなるから、もうやめました。何もテレビ、絶対つけないです。

渡辺:それ大正解ですね。


<あわせて読みたい>
わたし×NHKのディレクター


「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見てあなたが感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。


トップページに戻る
2021年3月5日

わたし×NHKのディレクター

東日本大震災で被災した遠藤洋希さん(26)と、NHKで報道番組を制作する笹川陽一朗ディレクターが取材を通して出会ったのは、震災から3年後の2014年。それ以来6年以上にわたり、一緒にご飯を食べたり、NHKの番組について率直な意見を交わしたりするなど、交流を続けてきました。

遠藤さんは、宮城県南三陸町の自宅を津波で流され、父親を亡くしました。その後、震災の経験やこれまで感じてきたことを、メディアや被災地のワークショップなどを通じて積極的に伝えてきました。

笹川ディレクターは、震災で親を亡くした方々の今の気持ちを語る場を作りたいと、このウェブサイトを立ち上げた1人。気心が知れた遠藤さんに、こうした取り組みをどう思うか率直に聞いてみたいと、今回の対話を呼びかけました。
遠藤 洋希さん【愛称:ロッキー】(26)
南三陸町出身で、震災のとき津波で父親を亡くした。その後、震災で親を亡くした子どもたちをサポートする基金からの奨学金を受けて大学に進学。今年、大手IT企業を辞め、ベンチャー企業に転職した。

笹川 陽一朗ディレクター
NHK仙台放送局に勤務していた入局1年目に震災を経験。その後、被災地の子どもたちの取材を続ける。今年3月放送予定の「NHKスペシャル」で、震災で親を亡くした子どもたちのドキュメンタリーを制作。

この対話の内容
- 「3.11が近づく時のムードはハッピーじゃない」
- 「震災遺児です」って言うと、かわいそうな目で見られた
- 自分にとっては震災が“いい転機”でもあるのに…
- このプロジェクトをどう育てていく?


「3.11が近づく時のムードはハッピーじゃない」
東京都に2回目の緊急事態宣言が出ていた1月中旬。遠藤さんと笹川ディレクターはリモートで話をしました。震災で親を亡くした方が“今の気持ち”を語れる場を作る――遠藤さんだったらどんな場を望むのか、率直な思いを聞いてみることにしました。
 
対話の動画が再生されます(音声が出ます)

笹川: 最近仕事が変わってどうですか?
遠藤: 仕事は正直めちゃくちゃ面白いです。やっぱりスタートアップ企業で非常に小規模なんですけど、手触り感があるっていう感じが一番面白いところだと思います。

笹川: 今日は、この取り組みについて、ロッキー(※遠藤さんのニックネーム)に相談してみたいなとも思っているんだよね。
マスコミ的な区切りではあるけれども、今年で東日本大震災から10年が経つよね。僕は震災の時に仙台にいたから、その時からいろいろな人たちにお世話になっているんだけど、大切な方を亡くされたお子さんたちとも関係を続けてもらえていて、その人たちと何かを育てていけないかなっていう思いがあった。それで今回、みんなが話したい時、語りたい時に、安心して、安全に話せる場っていうのを、ネット空間で育てていくことはできないかなと思ったんだけど…。
あんまり聞きすぎるとインタビューみたいになっちゃうんであれなんだけど、どうかな?率直に。

遠藤: 全体的には、いいんじゃないかなと思うんですよね。でも、やっぱり自分自身が具体的なところまでイメージできていないので。いいんじゃないかなっていうフワッとしたことしか感じられない。

笹川: 突然だけど「今語りたいことありますか?」って聞いたら、ロッキーはどうですか?

遠藤: 何だろう、語りたいこと…。特に震災関連に関しては別にないですね、今改めて語りたいことっていうのは。

笹川:それは「これまでも語ってきたし」ということなのか、「そもそも語りたいって思うことがない」のか、どんな感じなの?

遠藤: どっちもかもしれないです。日々、2011年の3月11日を思い返して、振り返って何かをしているわけじゃないので、改まってそこに関して何か考えたりすることも基本的にないんですよね。確かに自分の人生を振り返るっていう上では、特別な出来事、人生を変えるような出来事ではあったんですけど、日常でそこを毎回見返してるかっていうと全くそんなことはなくて。だから今、日常の中で3.11について語りたいことって特に考えることはないですね。具体的に震災のことについて聞かれた時はいつも話しているので、いつでも語ってきたしっていう面もあるし。

笹川: 僕はロッキーと同じ境遇ではないので、想像するしかないし、どういうことを考えてるのかなっていうことを知りたいから取材やそれ以外でもお付き合いをさせてもらってるんだよね。今思い返すことはないって言っていたけど、ふと思い出す事もない感じ?

遠藤: ないですね、基本的には。僕はないです。

笹川: そうすると逆に僕の方が思い返すことがあるのかもしれないね。

遠藤: そうかもしれないですね。お仕事の関係上っていうのもあるとは思うんですけど。

笹川::メディアでは、「震災から何年」とか「何年何か月」みたいな放送をやるし、今も報道で「月命日」などもあるじゃない。そういうのをたまたま見たとき、どういうふうに思う?

遠藤: 何も思わない、正直。ああ、そうなんだって。10年とか何年何カ月っていうのが自分にとって全く特別な事ではないので、ただその事実を聞いているだけですね。例えば、今日1月28日ですって言われて、ああそうだよねって、それと同じですね、ほとんど。

笹川: そのとらえ方っていうのは、この10年のどこかで変わったの?

遠藤::もしかしたら徐々に変わってきたのかもしれないです。最初の頃、震災から3年目、4年目ぐらいまでは、今より意識してたと思うんですね。今日は3月11日だなとか。
でも、それから東日本大震災以外にもいろいろ災害があって、熊本地震や広島の豪雨もあったし、10年経ったら基本的に人間の記憶からも薄れていく。当時はやっぱり2月、3月になってくると、「そろそろ3月11日だよ」という雰囲気が日本中にあったので、意識しようとしなくてもするような、そういう雰囲気に覆われていた。でも自分の中では「別に何年目だからそれが何?」っていう感じはあった。3月11日だなっていうことに対しての意識はあったけど、それが特別だとは全く思ってなかった。

笹川: 今「日本中の雰囲気」と言っていたけど、当時そのムードの中にいたロッキーはどんなふうに感じてたんだろう?

遠藤: いろいろあるんですけど、ちょっと気持ち悪いなと思ってました。たぶん、自分がたまたま見てきたその光景がそうだっただけかもしれないですけど、ハッピーなムードではなかったです。ちょっと暗いとまでは言わなくても、どっちかっていうと悲しみの雰囲気って感じがしていた。
僕は「そんなみんなで悲しんで同情してどうすんの?起きたことは事実だし、死んじゃった人がいるっていうのも事実だし、それに対していくら今更悲しんだところで、何も良いことないじゃん」と思っていた。無理があるのは分かっているんですけど、それよりもあそこから学べる教訓があると思う。日々接している人や家族が津波じゃなくても何かで亡くなることはありえるし、突然、知らない病気にかかってしまうかもしれない、交通事故に遭うかもしれない。
震災で親を亡くしちゃった周りの子たちと話しても、「最後に親と話したとき、別れ際の最後の言葉が喧嘩で終わっちゃってすごく後悔してる」っていう声も聞くんですよ。それって悲しいことだなと思うんですけど「日々、誰にとっても起こり得ることなんだ」ってことが、そこから学ぶ教訓の一つだと僕は勝手に思っている。そしたら「いつ、これが最後になっても悔いの残らないように、どう家族と日々過ごそうか」っていう前向きな心がけを学べる機会としてとらえればいいのにと思って。

「震災遺児です」って言うと、かわいそうな目で見られた
厚生労働省によると、東日本大震災で親を亡くした子どもは1800人。遠藤さんはこれまで「震災遺児」として自分自身の体験をメディアなどに話してきました。長年、取材を続けてきた笹川ディレクターは、「震災遺児」という言葉でひとくくりにして伝えることに疑問を感じていました。
 
対話の動画が再生されます(音声が出ます)

笹川: 僕らもそうなんですけど、「震災遺児」という言葉で1800人ぐらいいる方々をひとくくりにして、いろいろ語ったり、放送したりしてきてるじゃないですか。そういう中でロッキー自身もメディアに出て話した事もこれまであったと思うんだけど。

遠藤: これに対しても特に強く思う部分はなくて、仕方がないし、自分も使うことがある。ただ「震災遺児とはこういう人です」というふうに「遺児とは」っていう定義を特定するような節があると、違うよなって思います。
「震災遺児だからこんな経験をしてるんですよ」みたいなのが暗に伝わってくるような内容だと、それは嘘じゃないけどそれが本当でもないよ、みたいな。

笹川: 僕が取材した中には、震災で家族を亡くされたご遺族で「遺族って言われる事が最初はすごい抵抗感があったし嫌だった」という方がいらっしゃった。でも「時を経て今では遺族って呼ばれることに違和感はないし、むしろそれでいいと思えるようになった」ということを言っていて、なるほどな、自分が全然想像できない10年があったんだなと思って話を聞いてたんだけど。ロッキーにとって「震災遺児」っていう言葉のとらえ方に変化はあったのかな?

遠藤: 自分が震災遺児だっていうことに対する抵抗みたいなのは、震災直後よりはたぶん薄らいでいる。震災から1~2年後だと「震災遺児です」って自分が言うだけで、何も言ってないのにすごくかわいそうな顔で見られて、聞いた側が気を遣っちゃうことがいっぱいある。気を遣われたらこっちも気を遣うからそれが嫌であえて言わないようにして…。
何もしてないのに勝手にそこで壁ができちゃう感じがあって、あんまり積極的には言ってなかった。それが今だったら「震災遺児です」と言ったって別に周りの人の中の意識がそんなに強くないっていうのがある。「東日本大震災で親を亡くしていて」って言っても、「ああそうだったんだね」くらいで受け止めてもらえるので、楽です。

笹川: 楽って感じなんだ。

遠藤: はい。「ああそうだったんだ、で?」みたいな感じで、特に何もなく普通にそういう人なんだっていう受け止め方をされるので。

笹川: 周りの人の受け止め方がロッキーにとって楽になったのはどれくらいの時期だったの?

遠藤: ここ数年だと思う。やっぱあれかな。自然災害っていった時に当時はほとんどの人が東日本大震災に直結していたのが、今だったらむしろ熊本の地震があったり、広島の豪雨もあったり、悲しい事ですけど、色んな災害が増えていって、東日本大震災だけが特別じゃなくなったことがあるのかもしれないです。東日本大震災の記憶が薄くなっているんでしょうね、全体的に。
さっきの話を聞いていて「遺族」っていう言葉に敏感だった人が、今は受け止められるようになっているっていう話も、その方はその方で遺族であることが嫌なんではなくて、これはあくまで僕の予想ですけど、遺族だからってくくられて、何か評価されていた、見られていたっていうことに何かトラウマがあったんじゃないかと思う。

自分にとっては震災が“いい転機”でもあるのに…

遠藤 洋希さん

笹川: これまでメディアに出た中で、言えたこと、言ったんだけど伝えてくれなかったこと、言えなかったことってあると思うんだけど…。

遠藤: 基本的に聞かれたら何でも話してきたんで、言えてなかったことはほとんどないと思う。言ったところでカットされたことは多々ありました。それは恐らく、僕は震災が自分にとってはいい方に転んだ、好転した転機だったからじゃないかなと。
僕は基本的に「震災があったからこんなことができた」と素直に話していたんです。でも、特に震災から3年、4年目くらいまでは「あれがあっていまやりたいことができます」っていう僕みたいな前向きなポジティブなタイプよりは、どっちかって言うと「今までは平和だったのに・・・」という人物像がより取り上げられていたのではないかなと感じました。自分の事を素直に語ると、あまり求めていたベスト(な答え)じゃなかったのかなって思いましたね。かといって自分を偽る気はないし。それだけが事実じゃないよってずっと思ってました。

笹川: 僕らNHKがやってきた番組や報道を見て、ロッキーに「全然違うと思います」って言われる事もあったんだけど、僕はすごくありがたいなと思ってる。僕が取材してると「話すことありません」とか、「NHKの人には今、会いたくありません」という方がやっぱりいらっしゃるんだよね。
でも、ロッキーはそういうのが全然ない。たぶん焼肉屋だったと思うけど、一番最初にみんなでご飯を食べた時も「よろしくお願いします」みたいな感じで付き合ってくれていたじゃない。それは何でなんですか?

遠藤: いや、別に理由はないですよ。正直、誰に対してもオープンだとは思っているし、確かにメディアの方と言えばメディアの方ですけど、あんま気にしないんですよね、別に笹川さんじゃなくても、自分の友達でも前の仕事の同僚でも、誰でも関係なく話をしたいっていう人には話をするし、あまり意識してないです。
とはいえ、ちょっとこの人嫌だな、みたいなメディアの人はいるけど(笑)結局人と人との関わりなんで、個人的に何かちょっと苦手という人は正直いました。

笹川::なるほど。じゃあそこはセーフだったっていう。

遠藤::はい(笑)

このプロジェクトをどう育てていく?
震災直後から、被災した方々を取材し続けてきた笹川ディレクター。実は、去年遠藤さんと話しているときに「震災10年という節目だからとメディアが番組を作るのは違和感がある」と言われたことが、ずっと気にかかっていました。

笹川 陽一朗ディレクター

笹川: いまだに、みんなの言葉を伝えていくことや、番組を作ることも正直いいのかなって思う事もあるのね。でも、一方でできる事があるかもしれないっていうふうにも思うし、それを見た方々が何かのきっかけにつながるかもしれないなとも思っているんだよね。

遠藤: 正直、目的次第かなって感じがするんですよね。蓋を開けたときに「とにかく震災遺児を取り上げたい、だから、こんなのを作ります」と、手段と目的がひっくり返ると変な感じがするんですけど。こんなことをやりたいっていう目標の上で、震災遺児を取り上げるのがいいんじゃないのかって。そこに対する手段として入ってくるんであれば全く違和感はないし、伝えるべき価値がそこにあるというのであれば僕はいいと思う。

笹川: 取材していると、孤立している人っているなって思う。例えば、自分の大切な人を亡くした悲しみを、もうずっと話した事ないですよっていう人がいる。周りに気を遣っちゃうから、と。「最初は話したかったけど話せなかった、もうそれでいいんです」みたいな子がいるんだよね。
そういう子が話したいと思った時に、例えば同じような境遇の方がいらっしゃって、私もここでちょっとはき出してみようかなと思うこともあるかもしれない。もしくは、全然境遇が違う方がこんな思いを持っているんだなと思って、全然関係ないけれども隣の人に声をかけてみるとか、何か生まれるんじゃないかとも思っている。
ロッキーが言ってくれた“人との関わりの手応え”みたいなものが生まれたら、ちょっといいなと思えるのかな。

遠藤: そこはそうですね。例えは笹川さんから見て孤立しているような人たちが、あまり人に自分の過去を話してこなかったけれども、仮にそれを話したいと思う時に話せる場がある、それで何か今まで抱えていたモヤモヤが少し軽くなれば少し、そこは前向きなとらえ方ができるようになるのはすごく重要だと思うんですよね。だからそこはすごく良いと思うし、そういった人を基軸に考えるっていうのはすごく良い事。
ただウェブサイトがあったら、例えばその人が今まで誰にも話してこなかったことを話すかといったら、どうなんだろうっていうところは分かんないですよね。誰か1人でもいいと思うんですけど、この人だったら、こんなものがあったら話してくれるっていうのがあるんだったら、それがプロジェクトにとっていいことだと思うんですよね。

笹川: 今思っているのは、当たり前だけど1800人と言われる親を亡くした境遇の方は1800通りの人生があるわけじゃないですか。それで、集まった言葉から「震災遺児」っていう言葉が持っているイメージみたいなものを覆せる、変えられる可能性ってあるのかなってちょっと思ったりしてたんだよね。それは、ロッキーが「かわいそう」とすぐとらえられていたという話ともちょっと関係するんだけどね。

遠藤: 僕はそこを純粋に質問したいんですけど、何で変わったらいいなって思ってるんですか?

笹川: 取材していく中でも、ロッキーと一緒で腫れ物扱いされるのが本当に嫌だって子たちが何人もいたんだよね。周りのみんなも悪い気持ちでやってるわけじゃなくて心遣いの気持ちで接してるんだけど、結果的にそういう印象を与えてしまってるっていうとこあるじゃない。そういうすれ違いとか食い違いがなくなって、もっと有機的に結び付いていく未来がないのかなって。
これから災害が何回も来るだろうし、そういう中で、日本がもっとよくなるとしたら、ちょっとイメージの幅を広げることで、未来が良くなったりしないのかなって思ったのが理由かな。

遠藤: なるほど。東日本大震災って何か特別なものがあるのかな。震災だけじゃなくて、例えばがんの人が、がん患者って言われるとそこでまたそれもレッテルなんですよね。がんも同じような感じで、昔は「自分ががんです」って公表するのはみんなはばかられていたと、公表しづらかったのがちょっとずつ変わっていったのもあるので。震災についても、ある種レッテルで見られてた偏見が取れていけばいいというのは、すごく普遍的な問題というか、テーマとしては大事なことだと思うんです。
その偏見をとっていくのに何がいいのかっていうことは分からない。震災遺児が1800人くらいいて、多くの声を集めるよりも、もしかしたら1人チェンジメーカー、影響力が強い人が大きな影響を与える方がもしかしたらいいのかなと思っていて。もしかしたらそういう偏見を外すには、もっといい手段があるのかもしれない。

笹川: ありがとうございます。今日は時間が来ちゃったのですが…。またこうして直球な気持ちで話せたらと思うから、よろしくお願いします。

東日本大震災のその後の日々を取材すると、必ず「節目ではない」という言葉に遭遇します。メディアは社会から関心を持ってもらうために、「震災から○年」というタイミングで発信することが多くあり、こうした伝え方に迷いもありつつ、大切なことだと取り組んできました。しかし今回色々な方にお話をうかがうなかで、それぞれの“タイミング”があったり、中にはそれを転機にしようとしたりしている現実を改めて知りました。
そうした方々の思いにどう向き合うべきなのか、このウェブサイトでの取り組みが1つのチャレンジでもあります。震災で大切な人を亡くした方々と一緒に、ゆっくりじっくり、語れる場を育てていきたいと思っています。もし今、自分の気持ちを誰かと話してみたいと思ったら、ぜひこちらのフォームに声を寄せてください。
(笹川陽一朗ディレクター)

「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見てあなたが感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。


トップページに戻る