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「いつかは元に戻るから、夢を諦めずにもう少し粘って」 福島県相馬市出身・菊地栄達さん

「能登半島地震を経験した“子どもたち”へ、私がいま伝えたいこと」

このページでは、かつて東日本大震災などで家族や友人、ふるさとなどを失った“子どもたち”からのメッセージを紹介します。

高校3年生のころの菊地栄達さん

福島県相馬市出身の漁師・菊地栄達(えいたつ)さん、31歳です。
高校3年生のときに東日本大震災を経験しました。

菊地さんが生まれ育った相馬市・原釜は、沿岸漁業では県の水揚量の5割を占める漁港。
代々漁師の家に生まれた菊地さんは、父の姿に憧れ、震災前から漁師になると決めていました。

東日本大震災後の原釜の港

しかし東日本大震災で、原釜の港は9メートルを超える大津波に襲われました。
相馬双葉漁協では組合員の約1割にあたる101人が犠牲となり、漁船の7割以上が損壊しました。

菊地さんの自宅は津波で流されたものの、家族は全員無事でした。
その春から船に乗るはずだった菊地さんの漁師人生は、港の後片付けから始まりました。

菊地栄達さん

「『なんで俺つなぎ着ているのかな』って思ったときもあった。スコップを持って頭にタオルを巻いてね。自分が考えていたやつとはもう全然違うスタートではあった」

東日本大震災後、港の後片付けをする菊地さん

東京電力福島第一原発の事故による魚の出荷停止、試験操業、処理水の海洋放出・・・。
その後も幾多の試練が襲いかかりました。

それでも菊地さんは、仲間の漁師たち、そして5年前に引退した父親が自分のために残した網の仕立て方や海底の地形図を記したメモを頼りに、原釜の港で一番若い底引き網漁船の船長として成長していきました。

左:父・昌博さん 右:栄達さん

原発事故のあと福島県の水揚量は大きく減り、その後少しずつ回復してきました。
しかしまだ震災前の25%にとどまっています。

「漁師が魚をとることで、港に活気を取り戻す」
4人の子どもの父親となった菊地さんは、この豊かな海をつないでいくためにも日々、漁の腕を磨いています。

能登半島地震で大切な人やものを失った子どもたちへ。
菊地さんからのメッセージです。

※再生すると音声が出ます

「高校を卒業するタイミングで、東日本大震災の津波に遭って結構家もぐちゃぐちゃになって。漁師になろうと思っていたんだけれども、船も港もぐちゃぐちゃになって戻らないんじゃないかなというところまでいって、本当に諦めようかとか、いろいろなことを考えもしたんだけれど、やっぱり自分には漁師しかないと思って。


(能登の子どもたちも)今すごく大変だと思うのね。自分の周りも整理がつかないし、港だったりいろいろぐちゃぐちゃな部分とかってあって、気持ちの整理がつかない部分もあると思うんだけれども、やっぱり自分がなろうとした夢みたいなのは諦めてほしくないなって。


何年後の未来とかっていうのはわからないからすごく不安だろうけれども、いつかは戻るとは思う。だからその自分が追いかけた夢っていうのは、簡単に諦めてほしくないなって。目標を諦めないでやっていくって、すごく大事なんじゃないかなと思って。


そして元に戻ったときにやっぱり諦めなくてよかったなっていう気持ちであってほしいっていうかさ。諦めるのではなくて、もう少し粘ってほしいなって」

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