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2024年5月1日(水)

“それでも輪島で過ごしたい” 輪島高校の生徒たちの4か月

“それでも輪島で過ごしたい” 輪島高校の生徒たちの4か月

能登半島地震の被害が大きかった6市町には、児童や生徒1万人が暮らしていました。子どもたちは、今もそれぞれの“非日常”を生き続けています。「避難所がつらすぎる。将来について話せない」「自分の被害と他の人の被害を比べてしまう」。葛藤を抱え、迷いながら日々に向き合う子どもたち。石川県立輪島高校に通う生徒たちの言葉に耳を傾け、困難な時を生き抜く力を、俳優の富田望生さんと見つめました。

出演者

  • 富田 望生さん (俳優)
  • 桑子 真帆 (キャスター)

※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

輪島高校の生徒たち 全校生徒の1割が通学

全校生徒306人の石川県立輪島高校。
1月半ば、校舎が避難所として使われる中で授業が再開。通っていたのは1割ほどです。避難を続ける生徒が多かったため、学力別に分けていたクラスを1つにして授業を行っていました。
そんな中、授業に身の入らない生徒が。1年生の横地光さんです。

高校1年生(当時) 横地光さん
「やっぱしんどい。自分が勉強できないから、いちいち教えてもらうの、先生に申し訳ない」

今も避難所から通う

光さんが暮らしているのは小学校。避難所として使われています。4畳ほどのスペースで両親と生活。

横地光さん
「ここは寝るだけ」

飲食店で働いていた父親は、仕事のめどが立っていませんでした。
この日、家族で、ある場所に向かいました。着いたのは自宅。

「ここも動かない」

壁や床が崩れ、住むことが難しい状態でした。

横地光さん
「自分の部屋だったんですけど、壁が倒れちゃって」

光さんは、あるものを探し始めました。

横地光さん
「これ中学校のアルバム。持って行きたいけどな。持ち帰ったりしても、スペースが物で埋まると思うので、避難所っていっても、借りさせてもらっている身なので」

それでも持ち帰りたいものがありました。

地震の後、学校に来なくなったクラスメートとの写真。

横地光さん
「(友達が)来ないんですよ。全然来ない。会いたいのに。めっちゃしんどい、精神的にしんどい」

友達にも会えない、家にも帰れない、非日常の暮らし。
避難所に戻ってきたときのことでした。

横地光さん
「うちが勉強できないのに、勉強できる人と一緒に授業受けている状態。これの意味が分かる?」

「それのどこが悪いの?」
横地光さん
「(授業を)理解できない」

「プレッシャーかかっている」
横地光さん
「本当につらい」

「つらいね」

張り詰めていた気持ちがあふれ出しました。


「月曜日に学校行かないの?」
横地光さん
「行きたくない、学校。本当に嫌だ」

「光に任すよ。無理に行くことはさせない。『ずっと行きたくない』だけはやめてくださいね」

気持ちを受け止める両親。光さんは通学の回数を半分に減らし、通い続けることになりました。

光さんの母
「子どもだし、時間かけて理解するまで待つ。誰より、何より、子どもの気持ちが大事」

大切な友人の存在

3月。避難先から戻ってくる子どもたちも増え、学校に通う生徒は4割ほどになっていました。

光さんと写真に写っていた友人も登校するように。放課後に避難所で過ごすのが、二人の日常になっていました。

横地光さん
「上杉はめっちゃ優しい。恋人にするなら、こういう人がいい」
上杉由衣さん
「話すことなくても、そこにいるだけで、うれしいこともある」

友人との時間が増えるにつれ、光さんの気持ちも変わっていきました。

光さんの母
「すごく変わりました。明るくなった。笑い声が光らしい。めっちゃうれしいですね」
横地光さん
「避難所いるとき、本当に暇で、でも、しゃべり相手できたし、本当に楽しかった。不安もあるけど、苦しいことだけが全部じゃないから、そこだけ捉えずに、他のところもちゃんと見ていれば、この生活が悪いことだけじゃないって気付けた。地震がなかったら、気付けなかったものもある」

自宅も家族も無事だけど

地震で大きな被害を受けなかったことで、複雑な気持ちを抱えるようになった生徒もいます。

高校1年生(当時) 平田一葉(かずは)さん
「前より『言葉選び』をするようになった。地震のことについては、あまりしゃべらない」

平田一葉さん。輪島高校の1年生。自宅も家族も無事。止まっていた水道も復旧し、徐々に日常が戻りつつありました。
でも、その暮らしの中で、感じ始めたことがあります。

平田一葉さん
「(支援物資で)半袖1万2,000円するやつ来て、申し訳ないな。こんな高級なやつは、自分に来るべきじゃないのかなって」

学校では、楽しそうに友人と話す一葉さん。でも、心の中では、自分と友人の地震の被害を比べてしまうといいます。

平田一葉さん
「(友達の家は)壁が全部はがれたとか。自分は大丈夫なのに、相手はこういう状況だけど、というのが嫌。地震のことについては、あまりしゃべんない」

自分の被害は小さかったと考える一葉さんにも失ったものがありました。

平田一葉さん
「ここが部室です」

それは、小学2年生のころに始めた野球。

平田一葉さん
「ずっと人見知りとか、初めて会った人に目を合わせられなかったり、話せなかったりした。野球を通して、自分の苦手なことを克服してきた」

しかし、地震でグラウンドが使えなくなり、活動は中止。仲のよかったチームメートも、転校してしまうのではないかという不安がありました。

平田一葉さん
「(避難は)本人の意思じゃないんで。転校せざるをえなくなって、野球一緒にできないのは悲しいです。(この気持ちは)家族にも誰にも言っていない。くらい表情を出すと、みんなが、くらくなってしまう。できるだけ明るくおりたいなって」

それから2か月。
この日、一葉さんは地震の後、初めて、ある場所にやってきました。

平田一葉さん
「現実を急にどんって見せられる感じがするのが嫌だったから、ちょっとずつ気持ちが落ち着いてきたんで、せめて1回はしっかりと見ておきたいなって」

大きな被害を受けた輪島の朝市通り。毎年大みそかに、家族でおせちの買い出しをするのが、一葉さん一家の恒例行事でした。

平田一葉さん
「変わりすぎて分からない。なんか、さみしいな。本当に知らないところになった」

少しずつ気持ちが変わっていく一葉さん。友達の誘いで、被災地で炊き出しなどを行うボランティアを始めました。

平田一葉さん
「支援されているだけじゃなくて、被災者でも何か行動できるんじゃないか」

自分が受けた支援を周りの人に返す。抱えている複雑な気持ちが少し和らぐといいます。

平田一葉さん
「『支援されて嫌だ』みたいな気持ちが、行動に移すと、一時的っていうか、一時的には消える。消えてます」

強まる故郷への思い

輪島高校に通う邑田達紀(むらた・たつき)さん。
地震の後、故郷への気持ちが変わったといいます。

邑田達紀さん
「(輪島は)何もなくて退屈。(将来は)残るのは嫌だなって思っていたんですけど、こういうひどい状況になると、心が痛むというか、前よりは輪島に寄り添いたいじゃないですけど、できるだけ近いところにいたい。輪島が好きなのかな」

輪島から転校した久保穂乃佳さん。
復興支援の活動を始めました。

支えは、地震の前、お世話になった地域の人の存在。地震の際に亡くなりました。

久保穂乃佳さん
「(地震の前に)『自分がこんなことやろうと思う』と言ったら、(末藤さんは)『久保さんがやることに間違いはないと思うから』と言ってくれて、それをずっと思い出して活動してて、自分がシクシクして何もしないことを望んでいないと思う」

支えは家族と将来の夢

3月。避難先から輪島に戻ろうとする生徒がいました。

川端光太朗さん。地震の直後は輪島で車中泊をしていましたが、両親と離れ、姉のいた金沢に避難してきました。

高校2年生(当時) 川端光太朗さん
「自分は耐えられなかった、車中泊が。寒いですし、(寝るときに)雨降ったら雨の音めっちゃ聞こえますし」

避難した金沢でも輪島の伝統である太鼓を練習し、授業もオンラインで受け続けてきました。光太朗さんは長引く避難生活の中で、家族への思いが強くなっていったといいます。

川端光太朗さん
「やっぱり親なんで、会いたいときだってある。家族みんな輪島いるんで、自分だけこんなことしててもだめかなって。輪島に帰って、みんなで生活できたらなって思っています」

輪島に残った両親は支援を受け、簡易住宅で暮らしていました。

光太朗さんの母
「もらったマットひいて寝ています」

自宅は地震で傾き、住むことは難しい状態です。それでも輪島を離れなかったのは、水道工事会社を営む父親が、輪島のインフラの復旧に携わっていたからです。
3月末。光太朗さんが輪島で暮らすために戻ってきました。

光太朗さんの父
「帰ってきた。おつかれ」
光太朗さんの祖母
「いい男になって、ばあちゃん見違えちゃった」
光太朗さんの母
「いいですよ。そこにいるだけで」

光太朗さんが、帰ってくるなり始めたことがあります。父親の仕事の手伝いです。

学校に通いながら、休みの日は、父親のインフラ復旧の仕事を手伝います。将来は父の仕事を継ぎ、輪島の水道をすべて直すつもりだといいます。

光太朗さんの父
「継いでくれてありがとう。輪島を好きなんじゃない」
取材班
「将来は、お父さんみたいになりたい?」
川端光太朗さん
「ちょっと上に行きたいですね」
取材班
「いけるかな?」
川端光太朗さん
「いけるんじゃないですか。頑張れば」

“今かけたい言葉” 富田望生さんに聞く

<スタジオトーク>

桑子 真帆キャスター:
今夜は、俳優の富田望生さんをお招きしています。よろしくお願いいたします。

富田さんは、11歳、小学5年生の時に福島県いわき市で東日本大震災を経験されていますけれども、今、能登の高校生たちの姿を見て、どういうことを感じていらっしゃいますか。

スタジオゲスト
富田 望生さん (俳優)
11歳で東日本大震災を経験

富田さん:
光太朗さんのお母様も、「そこにいるだけで」っておっしゃっていましたけど、もう本当に、何か行動できようが、できなかろうが、本当に生きていてくれるだけで偉いよって思いながら、VTR、見させていただきました。

桑子:
こういう時って、友達とか家族とか、よりどころになるものの存在って本当に大切だろうなと思うんですけれど、富田さんは、その当時、どういうもの、どういう人に支えられていたというふうに感じますか。

富田さん:
私も友達の支えがすごく大きくって、震災当時、私は小学5年生だったので、文通でお友達とその時の思いを言い合ったりとかしていたんですけれども。でも、私はどちらかというと、その時の友達との会話よりも、それまで積み上げてきた友達との時間みたいなものが、すごく支えになっていて、いつかまた、この友達との日常に戻れるんじゃないかっていう希望を持つということが、私の支えだったかなと思います。

桑子:
希望を捨てないでって、本当によく思いますけど、「そもそも希望を持てないよ」という子もいるかもしれないですよね。

富田さん:
でも、希望って、別にそんな持つことがすべてではないと思いますし、私は、震災を経験してから、新たに希望を持つことはなかなかできなかったので、だからこそ、多分、それまで紡いできた日常が、きっとまたあったらいいなっていう希望を潰すことだけは避けたかったっていうことだと思うんですけど。そんな希望を持ててるからすばらしいとか、希望がないからだめなんだとか、そういうことではなくって、私は本当に新たな希望を持つことはなかなかできなかったので。それぞれのペースで、突然、訪れるかもしれないし、しばらく訪れないかもしれないし、それも本当に人それぞれだと思うので、自分のペースで、好きなチョコレートとかを食べながら、本当に生きててくれるだけで本当に偉い、偉いよって思います。

桑子:
5月1日で能登半島地震から4か月になりますけれども、すでに人によって復旧や復興のスピードは違っていますし、これから、その差がさらに開いていくところもあると思うんですね。そうすると、VTRの一葉さんのように、自分なんかより大変な人がいると罪悪感を覚えてしまう人もいると。こういう気持ちと、どういうふうに向き合ったらいいのか。

富田さん:
私も避難した子が少ない中、地元を出た身なので。「何で私は地元にいないんだ」という気持ちをすごく抱えながら過ごして、本当に毎晩泣いていたんですけれども。でも、すごく音楽に支えられて、1人で公園行って、音楽を聴きながら大泣きして、何となくリセットできたかのような気持ちになるっていう時間が私にとっては救いだったので、そういう、自分にとっての救いを、ほんのり見つけていただけたらなって思っております。

桑子:
ありがとうございます。

それぞれの一歩

学校に通い始めた川端光太朗さん。
友達と過ごす日常が戻ってきました。

川端光太朗さん
「みんないるから、頑張ろうかなって思います」

高校2年生になった横地光さん。
今も避難所での生活が続いています。

横地光さん
「絵を描く仕事がしたい。好きなことをやり続けたら、うまくなりそう」

平田一葉(かずは)さんのチームメイトは誰も転校しませんでした。皆で野球を再開することができました。

平田一葉さん
「(野球)やらしてもらって当たり前じゃない。一日一日、感謝してやりたい」
見逃し配信はこちらから ※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

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