没後100年 いま伊藤野枝を考える
- 2023年09月20日
時は大正。
「良妻賢母」の女性像が“常識”とされた時代に、女性を縛る社会の習わしや公権力に、真っ向から抵抗した1人の女性がいた。
福岡・今宿出身の女性解放運動家、伊藤野枝。
1923年9月、関東大震災後の混乱のさなか、憲兵隊に殺害され、28歳の若さで亡くなった。
「100年早かった女」とも称される野枝のことばが、現代の私たちに問うものとは。
(福岡放送局記者 西牟田慧)
いま、伊藤野枝がアツい
伊藤野枝は、日清戦争の講和条約が結ばれた1895年(明治28年)、旧糸島郡今宿村、いまの福岡市西区今宿に生まれた。
ずばぬけた行動力と文才の持ち主で、17歳のとき、「元始、女性は実に太陽であった」の一節で有名な雑誌『青鞜』に参画。のちに2代目編集長を務めた。
婚姻制度や中絶など現代にも通じる問題を鋭く切り、当時の社会に論争を巻き起こした人物だが、初代編集長の平塚らいてうほど、世に知られていないのではないだろうか。
しかし、没後100年のことし、地元・福岡では、伊藤野枝の足跡を見つめ直す動きが広がっている。
福岡市総合図書館では、10月15日まで彼女の書簡や作品を紹介する企画展が催されているほか、命日の9月16日にあわせて、出身地である福岡市西区では、地元の市民らが主催して『伊藤野枝フェスティバル』と銘打った催しが2日間にわたって開催された。
講演や若い世代によるシンポジウムなど、伊藤野枝について考えるさまざまなプログラムが組まれ、北海道や東北、東京や大阪など全国各地から「野枝ファン」が集結。両日とも定員300人のホールがいっぱいになる盛況ぶりだった。
スキャンダル女王?希代の運動家?
この中で、ひときわ人気を集めたのが、地元福岡出身の女性講談師、神田紅さんによる書き下ろし講談、『伊藤野枝物語』だ。
神田さんは、40年前に民放のドキュメンタリー番組のナビゲーターとして、野枝の四女、伊藤ルイ(ルイズ)さんを取材した経験があり、そのときから、いつかは伊藤野枝を題材にした創作講談をつくりたいと思っていたのだという。
8月、台本づくりの参考にしようと、神田さんが地元の郷土史家の案内で野枝の出身地、今宿を訪ねると聞き、同行させてもらった。
まず訪れたのは、うっそうとした山の中。
未舗装の険しい山道をしばらく進むと、幅1メートル50センチ、高さ70センチほどの大きな岩が、ひっそりとたたずんでいた。
この名前すら刻まれていない、ただの岩が、伊藤野枝の「墓」なのだという。
地元の郷土史家・大内士郎さんによると、野枝の墓はもともと別のところにあり、墓標も一般的な木だったのだが、引き抜かれたり倒されたりするいたずらが絶えず、不憫に思った親族が簡単に倒されたりしないよう、近くの山から巨大な自然石をもってきて、墓標にしたのだという。
そして、場所も時代とともに転々とし、最終的に、四女のルイさんの手によって現在の場所に移されたのだという。
なぜ、歴史の教科書にも載るような人物が、地元でそのような扱いを受けているのか。
結婚や恋愛をめぐる当時の価値観をことごとく否定した野枝は、その思想を体現するかのように堂々と不倫恋愛を行うなどした。
そんな野枝について、かつては地元でも「不名誉な人物」とする見方が強かったのだという。
一方、つづいて訪れた場所では、伊藤野枝という人物の「別の側面」についても考えさせられた。
そこは、戦前から同じ場所にあるという、交番(建物自体は新しくなっている)。
大内さんによると、この交番はもともと、野枝の死後、弔問に訪れる人たちを監視するために、わざわざ別の場所から移設されたのだという。
パートナーである無政府主義者の大物、大杉栄とともに、社会主義思想の持ち主として当局から危険視され、監視対象となっていた野枝。
1923年9月16日。関東大震災後の混乱のさなか、陸軍憲兵隊に捕らえられ、拷問の末、殺害された。
言論の力で社会の因習に立ち向かった野枝の命は、暴力によって無残に奪われたのだ。
そして、異論を暴力によって封殺する社会の動きはその後加速し、日本は戦争への道を突き進んでいくことになる。
奔放に生きた、スキャンダラスな女性。
言論の力で権力に立ち向かい、暴力によって命を落とした運動家。
さまざまな評価が入り交じる伊藤野枝という人物を、講談の中でどのように表現するか。
この日、神田さんは考え続けていた。
講談師 神田紅さん
「野枝をどういう女性に描いたらいいのか、まだ悩みの中にあります。スキャンダラスなところがどうしても表にたっちゃうので。
でもやっぱり、彼女の生き様をそのままやることによって、現代の人たちが、それを聞いて、どういう女性だとか、どういう風に感じるのかっていうのを、皆さんに預けた方がいいのかなと、いまちょっと思っています」
野枝のことばが、今に問うもの
そして迎えた当日。
神田さんは、野枝自身がのこした「ことば」を、ありのまま講談にちりばめた。
終盤に向かうにつれて口調も熱を帯び、張扇が勢いよく演台を打つ。
まるで伊藤野枝が憑依したようだった。
「あぁ、習俗打破!習俗打破!それよりほかには私たちの救われる道はない。呪い封じ込まれたるいたましい婦人の生活よ!私たちはいつまでもじっと耐えてはいられない」
「世間では破滅というのだろうが、破滅を恐れた沈滞の中にいるよりは、あえて破滅することにより、大きく脱皮していきたい。吹けよ、あれよ、風よ、あらしよ!」
没後100年のことし、創作を通して伊藤野枝のことばと向き合った神田さん。
講談を披露し終えた後、聴衆とともに考えたのは、「100年後のいま、私たちはどう生きるか」だった。
観客の男性
「何かいま、生きづらい社会というか、おかしいことをおかしいって言わなくなっちゃっている感じもある」
観客の女性
「これだけの人がこの会場に来て、伊藤野枝を評価するというか、ある意味おおっぴらに評価できるような状況になってきた。この時代の変化というか、人々の意識の変化というのは、どういうところに起因してるのだろうと、考えているんです」
2日間にわたった催し。
神田さんは次のことばで締めくくった。
講談師 神田紅さん
「100年前、当たり前のことが許されなかった時代があった。そして、そんな中で、女性の権利を訴え、『自分らしく生きてください』と言った人がいた。そのことを、やっと語り継いでいける時代になった。それがやれる時代に生きる私たちの使命というのは、その野枝のことばを、語り継いでいくことではないか」