【キャスター津田より】11月25日放送「宮城県 名取市」

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今回は、宮城県名取(なとり)市です。仙台に隣接する人口79,000あまりの自治体で、仙台空港が立地しています。震災では関連死も含めて960人以上が犠牲になり、約14,000棟の住宅が被害を受けました。特に、閖上(ゆりあげ)地区では海から1㎞以内の木造住宅がほぼ全て流失し、市の犠牲者の約8割(753人)は閖上地区の住民です(地区住民の約10人に1人)。
閖上地区では、かさ上げで土地を整備して町を現地再建する市の方針に対し、内陸部に集団移転すれば安全な上、つらい記憶のある海も見なくて済むという住民意見もかなり強く、紛糾しました。名取市の出した計画が、県の都市計画審議会で2回も継続審議となるなど異例づくめで、結局、現地再建の起工式は震災の3年後に行われ、その間、復興に現実味を持てず、閖上への帰還を諦める人も増えました。
その後、住まいやインフラ、公共施設の整備がほぼ終わり、2020年3月、名取市は『復興達成宣言』を出しました。閖上地区には約460戸の災害公営住宅が完成し、公民館、体育館、郵便局、保育所、児童センターが再建され、小中一体の義務教育学校『閖上小中学校』も開校しました。大型スーパー、ドラックストア、100円ショップなどが一体となった商業施設が開業し、観光面でも20以上の店舗が集まった『かわまちテラス閖上』や温泉付きのサイクルスポーツセンター、ヨットハーバーなどがそろっています。閖上東地区では集団移転跡地を市が買い上げ、約20ヘクタールの産業用地を造成しました。ここに集まった企業は40社以上にのぼり、漁業では震災後、新たにシラス漁が始まっています。

今回はまず、2015年に取材した、閖上地区の平塚(ひらつか)みさ子さん(85)を再び訪ねました。自宅は全壊し、震災の5か月後に仮設住宅に入りましたが、まもなく夫が亡くなり、通夜も仮設で行いました。取材時、仮設暮らしが5年目を迎えても再建の見通しが立たず、こう言っていました。

「早く住まいを決めたいです。仮設で一緒に暮らした人がみんな出て行って、いなくなって…。“取り残される”っていう、そういう気持ちです。なんかこの頃、寂しいです」

今回、改めて聞いたところ、平塚さんは結局7年間、仮設住宅で暮らしました。2018年に家を新築して閖上に戻り、現在は息子家族との5人暮らしです。

「お父さんは体がどこも悪くなかったんだけど、仮設の4畳半の部屋が狭くて嫌だ、嫌だって、毎日愚痴をこぼしてたの。庭も無いし、隣の音は聞こえるし…。そうしているうちに、突然亡くなったの。仏壇には必ず自分で育てた花をあげて、毎日お線香を上げて、手を合わせて“ありがとう”って言っています。集会所で月に2回あるお茶会が楽しみで、必ず行きますね。仮設にいた人たちも、みんなあちこちから来るからね。なんとかお父さんの分まで、余計に長生きしようと思っています」

次に、9年前に取材した旧閖上小学校の子どもたちを再び訪ねました。少年野球チーム“閖上ヤンキース”の6年生のピッチャー・針生藍斗(はりゅう・あいと)さん(現在20歳)と、5年生のキャッチャー・橋浦優大(はしうら・ゆうだい)さん(現在20歳)で、以前の取材では、“いろいろあったけど、練習や試合ができるのでよかったです。大会で優勝したい!”と元気よく話してくれました。この時すでに閖上小学校の児童数は半減しており、2017年には閖上ヤンキースも活動を休止しました。進学した中学校が別々だったため、今回が8年ぶりの再会だそうです。橋浦さんは高校まで野球を続け、県内の体育系大学に進学しました。現在2年生で、アメリカンフットボール部に所属しています。一家は自宅が全壊し、仮設住宅から災害公営住宅に移って、橋浦さんも閖上から通学しています。夢は消防士です。

「最近の日本では災害が増えているので、震災に遭ったことはいい経験になったと思うし、消防士になって、自分が経験したことをどんどん生かして、人助けして役に立ちたいと思います」

一方で針生さんの自宅は被害がなく、高校まで野球を続け、現在は仙台市内に一人で暮らしています。老人ホームに勤務しながら、草野球チームで野球を続けているそうです。

「今でも小学校のあった場所の道路を通ると、まだ校舎があるんじゃないかと思って、そっちのほうを見ちゃいますね。見ると“そうか、無いんだなあ”って…。これからは閖上に何らかの形で貢献できたらいいと思うので、縦のつながりも横のつながりも大事にしていきたいです」

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その後、閖上地区で行われていた震災の語り部ツアーに同行しました。友達に誘われて語り部になったという渡部牧(わたべ・まき)さんは、閖上出身の夫と結婚して仙台から嫁ぎ、3人の子どもを育てました。自宅は全壊し、借家を経て、6年前に家を再建して閖上に戻ったそうです。震災当時、長男と次男が通っていた閖上中学校では14人の生徒が亡くなり、彼らの友達も含まれていました。

「誰かが話さないといけないじゃないですか。“つらくなるから話すのは無理”という人も多いですから、自分ができるのなら続けていけたらいいと思って…。私、学生さんを担当することが多くて、亡くなった子どもたちと同年代だと、“中学生で亡くなった子もいるんだよ”ってことをどうしても伝えたいんです。だから頑張って、何とか生きてほしい、諦めないでほしいというのを伝えたいんです」

また、渡部さんは、最近の閖上が抱える不安についても話してくれました。仙台近郊の新興住宅地として人気が高まり、元々の住民ではない世帯が土地を買ってマイホームを建てるケースも増えました。かさ上げ工事が行われた新市街地の計画人口は2,100で、市の見通しは過大だという見方もありましたが、10月末時点の新市街地の住民は1,862人で、計画の88%にまで達しています。

「昔であれば、閖上は隣同士でいつも交流があって、“何々さんの家の子どもが帰ってたよ”とか、互いの目で見守るような所だったので、そういうのは防災にもつながるんですよね。今って、個人情報とか言われて情報をシャットアウトされているけど、町を守るにはそういう情報も必要なんです」

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さらに今回は、2人のご遺族からも話を聞きました。仙台市在住の大友(おおとも)さおりさんは、閖上にあった実家が津波で流されました。両親と祖母、そして家に預けていた生後8か月の雅人(まさと)ちゃんが亡くなり、母と雅人ちゃんは今も見つかっていません。実家の跡地は区画整理の用地に入りましたが、市と交渉して一角だけを大友さんが所有し、花壇と畑にして残しました。息子のベッドがあった場所です。悲しみから立ち直れず、体調の悪化を心配した友達が、心身が落ち着くようアロマオイルを勧めてくれたそうで、以降、体の不調が軽減され、心にも変化が表れたと言います。

「去年ぐらいまで、悲しみに暮れていることが愛していること、それだけが息子を思う手段だとかたくなに思っていて、明るく生きちゃいけない、髪の毛も染めちゃいけない、黒い服しか着ちゃいけないとか思い込んでいて、気づいたら何年も黒い服ばかり着ていましたね。でも今は、飲食店を開業しようと思っていて、場所も決まって、来春にオープンする予定で準備しています。店の名前は『まさとくんちのごはん』っていう、雅人の名前を使おうと思っています。8か月しか生きられなかったと思っていたんですが、今はたった8か月のために私のところに来てくれたんだと思えて、悲しみが無くなったわけではないんですが、今あるものに目を向けて“自分の人生を生きよう”と思えようになりました。やっとここまで来た…本当にやっとなんだと思いました」

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また、閖上を拠点に複数の町で子育て支援に取り組む、大宮真由美(おおみや・まゆみ)さんにも話を伺いました。ヨガやマッサージの資格を生かして親子教室を主催するほか、医療的ケアが必要な子どもを支援する教室も開いています。結婚して閖上で暮らしていた妹とその夫を津波で亡くして以降、しばらく閖上には近寄れず、3月11日が近づくと体調不良になりました。5年前の3月11日、閖上での追悼イベントで、妹をしのんでハトの形をした風船を飛ばした瞬間が、大きな転機になったそうです。

「空に風船を上げた時、ものすごくきれいだったんですよ。その後は閖上に行かなきゃいけない、閖上で何かしなきゃいけないという気持ちにガラッと変わりました。妹が後押ししたような、本当に不思議な感覚で、たくさん泣いたのは覚えています。妊娠を望んでいた妹の気持ちと、妹の家の近くで何かしたいと思った時、親子教室をやろうと始めました。教室に来てくれる方、いろんな方に、優しい心、思いやる心をプレゼントしたいです。今の私を見たら、妹は“やるじゃん”って言うと思いますね」

ご遺族は本当に様々で、2人の他にも、例えば津波で家族を失ったあと再婚された方など、悲しみを抱えつつ前に向かって歩む方はたくさんいます。逆に、生活の全てが悲しみで、泣くほどに亡き人への愛情をかみしめ、心を保っている方々もいます。私たちにできるのは、どんな生き方であっても、人知れず応援することだけです。お2人の話を聞いて、つくづくそう思いました。

 

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