【キャスター津田より】11月11日放送「宮城県 山元町」

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今回は、宮城県山元町(やまもとちょう)です。人口は11000あまりで、震災直前の2011年2月末と比べ、31%減っています。震災では637人が犠牲になり、2200棟以上の住宅が全壊しました。
町は、インフラ等の効率化を目指し、『コンパクトシティー構想』と称した復興を進めました。町内に2つある常磐(じょうばん)線の駅は津波で壊滅しましたが、線路をゼロから敷き直して、2つとも内陸部に移転しました。そして被災者の集団移転先を、新しい山下(やました)駅周辺と坂元(さかもと)駅周辺、宮城病院周辺の3カ所に絞り、あわせて約470戸の災害公営住宅と約250区画の宅地が整備されました。特に山下駅周辺は、学校やスーパー、公園も整備され、都会の住宅団地のような街並みです。山下駅周辺だけで、ゆうに1000人を超える住民が生活しています。
また、山元町は東北有数のイチゴ産地として知られていますが、津波でイチゴ農家の9割以上が壊滅的被害を受けました。その後、大型ハウスが連なるイチゴ生産団地が整備され、2020年には生産額が震災前を上回っています。海岸から400mにあり、津波被害の痕跡を残す中浜(なかはま)小学校(=震災遺構)は、公開の翌年に来館者が1万人を超えています。2019年に坂元駅前にオープンした農水産物の直売所『やまもと夢いちごの郷(さと)』は新名所となり、今年夏に来場者250万人を達成しました。

はじめに、山下駅の向かいにあるラーメン店を訪ねました。看板メニューの『中華そば』は、老若男女に愛される地元の味です。店主の渡邊佳仁(わたなべ・よしひと)さん(52)と 眞希子(まきこ)さん(52)夫婦に聞いたところ、震災の地震で店は全壊し、自宅は津波で流されたそうです。一時は廃業も考えましたが、震災翌年に仮設団地の中にプレハブの店舗を建てて再開し、2017年に店舗を移転・新築しました。夫婦と子ども2人は仮設住宅で6年暮らした後、公営住宅に入居。現在も家族4人で暮らしながら、子ども2人も店に立ち、経営を支えています。夫婦はこう言いました。

「何十年と頑張って、建物がだめになって終わりというのも…。どこかでラーメンを食べても“違うな、自分のラーメンがいいな”って思うんです。それで店を再開したんです。お客さんが走って店に入ってきて、“やっているのを見つけて、思わず通り過ぎたのを戻ってきた”と言ってもらった時は、すごくうれしかったです。正直、家族で“どうしよう、どうしよう”って言いながら、コロナとか物価高の中で必死にやってきて、お店をやっていくって大変ですけど、震災から今まで何とかやれてます」

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次に、津波で8割の住宅が全壊した花釜(はながま)地区に行きました。震災後、3年半ほど地区の区長を務めた岩佐年明(いわさ・としあき)さん(77)は、津波で自宅が大規模半壊の判定を受け、翌年5月にリフォームを終えて戻りました。現在は妻と子ども、孫の5人暮らしで、近所の人と手芸などのサークル活動や旅行、草刈りなどを行って、親睦を深めています。

「震災で無くなったのは、派手な神輿(みこし)と祭り、地区の運動会だね。寂しいですね。散歩中に荒れた畑を見つけると、“自分の畑が終わったらやってあげます”って言って、昨日も、近所の畑のホウレンソウからサヤエンドウから、トラクターで耕してあげてね。ここ3〜4年 は、低学年の子どもがいる若い世代が引っ越してきて、小学校も児童数が増えているそうです。いいことだなぁ。隣近所の方の朝晩のあいさつを含めて、本当に仲良くしてもらっているのが感謝です。同じ苦しみ、悲しみを持ったってことでしょうね。震災後、そういう仲になったので最高だなと思います」

町は、新市街地へ集団移転では、国の補助金に加えて町独自の補助金も手厚く加える一方、独自に好きな土地を探して集団移転したい時は、国の基準(5戸)を超える50戸程度の同意を条件に課すなど、事実上、新市街地へ集団移転を誘導してきました。しかし、岩佐さんのように被災地域に住み続けることも可能で、沿岸部の災害危険区域(約1900ha)は、家の新築が許可されない区域から、一定基準を満たせば建築が可能な区域まで幅があります。さらに岩佐さんの言うように、町内には若い世帯も増えています。町は、『子育てするなら山元町』を掲げて県内最高水準の移住・定住支援制度を用意し、特に新婚・子育て世帯が移住する際には、4人家族で最大370万円が交付されます。中古住宅取得やリフォーム、賃貸住宅の家賃にも補助制度もあり、新市街地の一部は被災者以外にも分譲しました。新市街地だけでなく、最近では沿岸部の被災地域への移住も増えています。2017年には震災後初めて、転入が転出を53人上回り、2019年は80人、2021年は6人と、転入超過の年もあります。

その後、町民ジャズバンド“ニューポップス”の代表、三門道雄(みかど・みちお)さん(71)を訪ねました。結成から55年、山下中学校吹奏楽部のOBなど、約15人で活動しています。トランペット担当の三門さんは、自宅が津波で全壊し、10年前に高台に再建しました。今は息子家族と8人暮らしです。震災の4日後に避難所から自宅に戻り、がれきに埋まった階段で愛用のトランペットを発見しました。4か月後に練習が再開し、町外の避難先から毎週通ったそうです。

「津波に遭ったので、海の見える所に家を再建するのは、家族は反対でした。でもやっぱり、海が見えるっていうのはいいですよね。練習を再開すると電話がきた時は、やっぱりうれしかったです。それこそ失意のどん底だったでしょう…でも、好きなんだね。光がさしたような気がしました。聴く人だって、震災後、そんなことやっている場合じゃないという人もいたと思う。でも、演奏して頑張っている姿を見せるのも、バンドをやっている以上は必要だったのかなと…。もう絶対、体が続くかぎり、吹けるかぎり、俺にはここしかないんだなっていう、“ニューポップス”は一生涯の宝ですね」

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そして、以前取材した方々も再び訪ねました。7年前に取材した、農家の内藤靖人(ないとう・やすひと)さん(38)は、震災後ボランティアで山元町を訪れ、長く復興に携わりたいと2013年に会社を辞めて移住し、アルバイトをしながら農業を始めました。7年前はこう言いました。

「東京とか埼玉にも、農業をやりたい若者って結構いると分かったので、自分が未経験の状態から農業を始めて独立できたら、“山元町に農業しに来いよ!”と言えるかなと…それで始めてみました」

その後、様々な作物を栽培しましたが軌道に乗らず、いま借りている被災農地に合う作物を探している中で、サツマイモに出会いました。町内の菓子店などとサツマイモの新商品を開発中で、沿岸部のにぎわい復活を目指し、芋掘り体験ツアーも行っています。“焼き芋”を軸に、生産から加工まで一貫体制を確立すべく奮闘しており、2年前には県内の女性と結婚、長女も生まれました。

「自分は農業に向いていないと思うことは、正直ありました。ただ、農業を通してここに人を集めるということを、まだ成功させていない…自分自身、どうしても遂行したかったんです。今の畑の土質が砂浜みたいな状態で、サツマイモが土質にあったのと、焼き芋に加工できるのがすごく強みだなと思って栽培を始めました。本当に紆余曲折ありますね…食べていくのが精一杯という感じで、ようやく先が見えてきたかな。震災以降、無くなってしまった人の流れを、焼き芋で作りたいと思います」

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最後に、12年前に避難所で出会った、加藤時枝(かとう・ときえ)さん(75)を再び訪ねました。加藤さんは海のすぐそばの磯(いそ)地区で暮らし、自宅を流されました。以前の取材では、がれきの中から見つかった写真を手にしながら、こう言っていました。

「これは津波で流された写真なんですけど、家のほうを見に行ったら1枚だけ大切な写真が見つかりました。友達からもいっぱい支援をいただき、ありがとうございます。みんな元気で頑張っています」

避難所を出た後、加藤さんは4年ほど仮設住宅で暮らしました。2015年から花釜地区に購入した中古住宅で、夫と長男と暮らしています。震災後に持病が悪化して今は歩くことすら大変ですが、趣味の庭仕事のほか、週に1回、知り合いに会うのを楽しみに、必ず近所のスーパーに買い物に行きます。

「今の暮らしは、まあまあじゃないかな。来た当時は、知っている人がいなかったもんね。最近は、震災後に移転した人から野菜をもらったりしてね。あれから12年だから、ずいぶん変わっているし、私も難病だから言葉がもつれて、伝わらない時もあるけど、人に会うのが嫌になったらもう終わり。そうならないように前向きにやっていきたいです」

災害公営住宅などに入った後、人との関係が薄れて孤立するほど、体や心の不調が深刻化するのは周知の事実です。“人に会うのが嫌になったらもう終わり”という一言には、気力を感じます。

 

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