【キャスター津田より】8月5日放送「再訪特集」

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番組では、この12年間で5500人以上の方々に出演いただきました。2016年からは、毎回1人か2人、以前取材した方に再会して、その後の経緯や近況をうかがっています。今回は、その『再会スペシャル』です。岩手、宮城、福島の3県で、取材したスタッフの心に残っている方々を再び訪ねました。

はじめに、福島県いわき市に行きました。震災で460人あまりが犠牲になり、半壊以上の住宅やビルは5万棟を超えました。私たちはここで、8年前、市公認のご当地アイドル『アイくるガールズ』を取材しました。地元のタウン誌とライブハウスが、被災地から全国に元気を届けるというコンセプトでプロデュースし、2013年に12人のグループとして誕生しました。現在のメンバーはいわき市在住のしーたん(24)、めい(21)、あーちゃん(16)の3人です。これまで定期公演や、東京などで開かれる市のPRイベント、全国のアイドルイベント等で活躍し、曲の歌詞の大半は地元の魅力をアピールする内容です。NHKや民放キー局、大手芸能事務所が主催した、ご当地アイドルのNo.1を決める数々のコンテストでも優勝しました。8年前の取材では、当時リーダーだった“りおっち”こと、須藤理央(すどう・りお)さん(当時23)が、こう言っていました。

「震災が風化しないでほしいっていうのは一番あります。忘れてほしくない、忘れられちゃうことがいちばん寂しいので。いわき市の海水浴場が、まだ全部入れないんですよ。それが入れるようになったら、完全に復興になると思うんです。いわきから全国へ、とびっきりの笑顔を届けます」

今回、8年ぶりに活動拠点のライブハウスに行くと、現役メンバーに加え、卒業した須藤さんも集まってくれました。須藤さんは、東京といわきでダンス講師をしつつ、ダンサーとしてもステージに立っています。以前語っていた海水浴場は、震災後の人口減少で、半数以上が再開を断念しました。

「実際に震災に遭った方が見に来てくれることが結構あって、そういう方たちから“本当にきつかったんだけど、『アイくるガールズ』を見て、元気をもらって帰れる”っていう声をいただいて、うれしかったですね。私がよく遊びに行った永崎(ながさき)海岸が、今後もたぶん復興できない方向だというのは聞いているんですけど、12年たって、復興という言葉がだいぶなくなってきたのは感じています」

市の復興が一段落したこともあり、『アイくるガールズ』は来年3月で活動を休止することになっています。現在のリーダー・しーたんは、こう言いました。

「残された時間で、思いっきり笑顔と元気をたくさんの方に届けられればいいですね。まだやり足りない…もうちょっと、続けたい気持ちもあります」

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次に、岩手県宮古(みやこ)市に行きました。宮古市では、震災で約570人が犠牲になり、半壊以上の家屋は4000棟を超えています。7年前、県立宮古病院では、医師の前川裕子(まえがわ・ゆうこ)さん(当時40)から話を聞きました。震災の3か月後に被災地支援で東京から移住し、循環器科の科長を務めていました。入院患者がくれた小さな紙を肌身離さず持っていて、そこには『福の神 朝来る笑顔で ありがとう』と書いてありました。当時は、こう言いました。

「とにかく手を差し伸べたかった…その思いしかなかったです。困っている人がそこにいるのに、自分はどうして毎日普段どおりに生活ができるんだろうと、すごく耐えられなくなって…。福の神というのは私のことですか(笑)。この宮古の地で、一粒の麦として地に落ちて、根を生やして芽を出せれば、そこに実がなっていくんじゃないかと思って…。ここに来る時、一粒の麦になろうと思ったんです」

あれから7年…。再び病院を訪ねると、前川さんは今も、あの小さな紙を携帯していました。祭りやマラソン大会など地域行事に参加し、バンド活動も行うなど、すっかり宮古に溶け込んで信頼を集めていました。ただ今月、前川さんは故郷の徳島県に帰ることにしたそうです。悩んだ末の決断でした。

「故郷にいる両親を思った時、あとどれくらい親のそばにいられるか…地元で地域医療をしたいという思いも、元々持っていましたので。私にとっては、患者さんが福の神のような存在でしたね。行事に顔を出すと、町の人や患者さんも喜んでくれるんです。喜ぶ顔を見たいというのもありましたね。震災の時に比べると宮古病院の常勤医も増えて、診療を充実させる点では貢献できたかもしれないです。宮古はすごく大好きな場所、宝物と言いかえてもいいと思います。これで自分の被災地支援が終わったとは思っていませんし、心を寄せることはずっと続けていくと思います」

親せきでもない、全くの赤の他人のため、自分の全てと引き換えにして汗水垂らして働いてくれる支援者が、この12年で本当にたくさんいました。宮古の人たちも前川さんには感謝しかないと思います。

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そして、宮城県岩沼(いわぬま)市では、震災の翌年にがれき撤去の現場で出会った女性を再び訪ねました。岩沼市では、震災で180人が亡くなり、半壊以上の家屋は2300棟を超えています。斎藤綾(さいとう・あや)さん(当時23)は、津波で自宅を流されましたが、体育教師になる夢を持ち、アルバイトをしながら2度目の採用試験に挑戦していました。当時はこう言いました。

「目標は、体育教師になる、家を建てる、です。父も震災で仕事を解雇になって職が無くて、妹も東京に行ってしまうので、家族を支えるのは自分しかいないかなと思って…。今年、試験がダメだったら就職して、家族を支えていきたいと思います」

彼女は奥歯にぐっと力を入れ、涙をこらえながら言葉を絞り出していました。あれから11年…。電話で聞いた、集団移転先の玉浦西(たまうらにし)団地にある住所に行ってみると、そこには立派な2世帯住宅が建っていました。斉藤さんは笑顔で迎えてくれ、取材後は競争率の高い教員試験への挑戦は諦め、製菓会社に就職したそうです。おかげで父と2人で返済する共同ローンを組むことができ、今から9年前に家を新築しました。今は祖母と両親と4人暮らしで、新居には斉藤さんの要望でシアタールームもつくりました。東京に住む妹の子どもたちとは大の仲良しで、毎日のテレビ電話を欠かしません。

「自分の夢と家族を天秤にかけたら、やっぱり家族が大事だと思いました。周りを見渡せば、震災で家族を亡くしたとか、友達も2人くらい亡くなっているので、いま家族がいるのは当たり前じゃないな、いつどうなるか分からないって思ったので…。人生の選択は間違いではなかったと思います」

近くにいたお母さんに “一安心ですね”と話しかけると、お母さんは、“でも、夢を諦めた上に成り立っている家というのは、私はずっと忘れちゃいけないと思っています”と言いました。天災とはいえ、娘が進路の修正を余儀なくされたのは、親として一生の悔いなのかもしれません。

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最後に、福島県桑折町(こおりまち)の桃農家、相原豊治(あいはら・とよじ)さん(78)と、妻の京子(きょうこ)さん(75)を再び訪ねました。桑折町は、約30年間、皇室に桃を献上し続けている名産地です。私たちは10年前、当時60代だった2人を取材していて、桑折町には避難指示は出なかったものの、風評被害に苦しんでいました。桃の売り上げは3割ほど減り、京子さんはこう言っていました。

「息子も将来は農業を継いで、私たちと嫁さんと4人でこの仕事をすれば、ものすごく将来は明るかったんですけど、それが吹っ飛びました。桃の値段と販売が確立されて、収入が得られない限りは、息子たちに“ここに来て子育てせよ”とは言えないですね。別な仕事でやっていけるなら、それでやってくれと言う以外にない…くやしいですよ、すごく。涙がでるくらいくやしい」

あれから10年…。桃の栽培には、新たに長女夫婦が加わっていました。長女は、9年前に父に誘われて看護師から桃農家に転身し、東京からUターンしてきました。夫も転職して桃農家となり、4歳の息子も桃が大好きです。生産規模も拡大して出荷量も増え、今回、京子さんはこう言いました。

「いろんな検査結果を見ても、放射性物質が木に吸われて桃の実に入ることはないと証明されたので、その点では一安心しています。でも、今も怒っていますよ。原発はもう安全だ、安心だと言う学者さんもいらっしゃるし、政治家も“もう大丈夫じゃないか”とおっしゃいますけども、まだ廃炉も確実にできていないのに、そういうことで本当にいいのかって思います」

今も廃炉作業は終わらず、その過程で処理水を海に流す作業が間もなく始まる予定です。“いつになろうと自分の商売に真の安心は訪れない”という感覚は、一度、苛烈な風評被害にあった福島の方々なら等しく共感できるのではないでしょうか。

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