【キャスター津田より】6月3日放送「福島県 富岡町」

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今回は、原発事故で全町避難を経験した福島県富岡町(とみおかまち)です。人口は11000あまりで、6年前、約7割の町民が暮らしていたエリアで居住が可能になりました。震災後は、災害公営住宅や2次救急病院、大型スーパーやホームセンター、ドラッグストア、地域交流館などが新たに誕生しました。さらに、ビジネスホテルや産業団地、老人ホームにフィットネスジムやカフェを併設した複合施設『共生サポートセンター』も開業しています。2018年には、震災前の学校を統合した新たな小中学校とこども園が、町内に戻って再開しました。さらに今年4月1日からは、立ち入りが厳しく規制されてきた帰還困難区域でも、一部の地域で居住が可能になりました。以前は商店街や住宅地があり、4100人ほどが住んでいたエリアです。現在は駐在所が置かれ、町営住宅や公園、入浴をメインにした健康増進施設(日用品販売店も併設)、訪問介護と訪問看護を一体化した事業所の開業が予定されています。
一方で、現在の町内居住者は2100人あまりで、人口の2割未満です。町は移住に注力するため、『とみおかくらし情報館』という移住相談窓口や、移住体験ができる“お試し住宅”、町内見学ツアーやテレワーク用オフィスの整備なども行っています。

はじめに、今年3月にJR夜ノ森(よのもり)駅近くにオープンした、デニムの専門店を訪ねました。
店主は27歳の小林 奨(こばやし・しょう)さんで、古いデニム生地をつなぎ合わせて、コートやズボン、ランチョンマット等のインテリア小物にリメイクし、販売しています。中学3年の時に避難し、各地を転々とした後、山梨県の高校に進学しました。その後は東京の服飾専門学校に進み、卒業後は都内の百貨店でアパレル専門店の店長も務めました。富岡町に一時帰宅するたびに帰還の思いが強くなりましたが、実現のめどが立たず、3年前に親が住むいわき市へ移り住みました。

「東京は、歩けばすぐコンビニや百貨店があるのが、すごく良かったんですけど…。それって、自分が求めていたものかな?と思った時、違うなと思ったんです。5年後とか、何も動かなければ、この町は多分、消えてしまうと思うんですよ。生まれてきた町をそうやって簡単に捨てるのって、無責任な感じなんですよね。アクションを起こして、自分が先頭に立ってやらないと…。震災で崩れた町と、廃棄寸前のボロボロのデニムがちょうど重なって、デニムをもう一回よみがえらせようと思いました。“自分はデニムを再生させる取り組みをしているから、富岡町も頑張っていこうよ”って…」

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次に、7年前から町内でパッションフルーツを栽培している、髙橋雅裕(たかはし・まさひろ)さん(72)のハウスを訪ねました。本業は解体業ですが、経営は息子2人に任せ、自身はパッションフルーツに専念しています。ハウスの隣には“お休み処”を開設し、県内の洋菓子店の協力を得て開発したパッションフルーツのケーキやクッキー、サイダーなど、スイーツも提供しています。髙橋さんは町に帰還したい思いはあるものの、今も避難先の郡山(こおりやま)市から通っています。

「ホームセンターで苗を買って育てた人がいて、ごちそうになって非常においしかったの。この辺でパッションフルーツって初めて聞くんで、それなら自分もやってみようかと思って…。店に寄ってスイーツを食べたり、ハウスを見学したり、“富岡に戻ってきたいな”と思えるような、一つの手助けのためにやっているのかな。孫が一緒に町に戻るんだったら戻るけど、戻りたくないっていうから、なかなか難しいね。どうしても自分の子どもとか孫と、離れたくないんだな。今は、パッションフルーツを食べてもらって、スイーツを食べてもらって笑顔を見られればいいなと、そういう感じです」

富岡町では、少しずつですが営農も拡大しています。コメの乾燥・貯蔵を行うカントリーエレベーターも新たに完成しました。産地化を目指しているタマネギでも、乾燥庫や貯蔵庫を備えた集荷・出荷施設を整備中です。この4月まで帰還困難区域だった地域でも、コメの試験栽培が行われ、ホウレンソウやキャベツなどの葉物野菜に対する国の出荷制限は、5月に解除されました。

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その後さらに、去年4月に再開した保険会社の事務所を訪ねました。保険の外交員になって36年という福田(ふくだ)チエさん(70)は、自宅が今も帰還困難区域にあり、年に3回ほど一時帰宅する程度です。山形県にひと月ほど避難した後、息子が住む郡山市に移り、そのまま自宅を構えて定住しました。現在は母や夫、娘一家と3世代8人で暮らしています。震災前、約400人いた顧客は各地に避難しましたが、一人一人会いに行きました。今でも、1日に数百㎞は運転して、営業活動を行っているそうです。

「お客さんがどこに行ったのか、避難先が分からなくて電話で探したり、皆さんも避難したからといって、そこに永住するわけじゃない…次のアパート、次の土地という形で、見つけるのがなかなか大変な部分もありましたね。58歳で避難して、どうやって他の土地に行って仕事していくのか、不安がいっぱいでしたけど、病気をしている人の手続き、家を建てたら火災保険と、いろんな形で仕事できたということは、本当にお客さまがいたから…全てお客さまに感謝です」

その後、富岡町民の4割以上が暮らす、いわき市に行きました。市内には富岡町が運営する町民の交流サロンがあり、ここで9年前に取材した70代の男性に再びお会いしました。9年前、男性の地区は避難指示が出ていたものの、日中だけ立ち入りが許可されていて、一時帰宅中の男性はこう言いました。

「初めて作った家ですし、子どもの身長が伸びてくると線を引いてあったんですけど、家を壊すってことは、それも無くなっちゃいますよね。子どもの思い出や買ったものを全部廃棄します。アルバムは捨てられないですけど…。人間、どこかで何かを捨てないと前進していかないと思いますから」

その後、帰還を諦めた男性は自宅を解体。いわき市に家を建てて、夫婦で暮らしています。息子らの職場も避難指示で閉鎖され、茨城や埼玉に転勤となり、息子らと孫はそこに住むことを決めました。

「富岡に毎月墓参りに行ったついでに、あちこち行きます。自宅のあった場所とか、友達の所に行ったりして、いろんなことを思い出しますね。富岡のゴルフ仲間と酒飲み仲間は、今もずっと続いていて、過去のことをいろいろ話します。こういった事故がなければ、子どもたちと一緒にいたんです。子どもが結婚したら、私の家の近くに家を建てて、スープの冷めない仲になりたい…そんな大きい夢があったんですけど、崩れちゃいました。自宅の解体の時も立ち会っていません。悲しくて見られない…中の家具から全部含めて、より分けしないでボンボン壊すだけ。そういったのは見たくないですね」

過去の幸せは、やはり忘れたくても忘れることはできないのだと、話をして改めて分かりました。

最後に、富岡町に移住した、青木淑子(あおき・よしこ)さん(75)を訪ねました。震災の3年前まで町内にある富岡高校の校長で、退職後は自らの地元・郡山市に住んでいましたが、6年前に避難指示が解除されるとすぐ、富岡町に移住しました。青木さんが着任した当時の富岡高校は、普通科を廃止して“国際・スポーツ科”に改変したばかりで、新しい体育館も完成し、グラウンドも人工芝になりました(男子バトミントンのエース、日本代表の桃田賢斗(ももた・けんと)選手も当時在籍)。青木さんは休日も町のイベントに参加するなど、町民に優しく受け入れてもらい、知り合いもたくさん増えました。

「“学校を変える”と飛び込んだ時に、“(県立だけど)町立の高校だと思え”と言われました。富岡高校がよくなるために、ものすごく町の人たちが力になってくれた4年間だったので、人生の中で富岡町は、ものすごいつながりがあったんです。富岡の人たちは、原発事故の4日後に郡山に避難してきたんですけど、それを聞いた時に真っ先に体育館に駆けつけて…いろんな人の顔が思い浮かぶわけですよ。あの人はどこかな、あの人は…って。私は富岡から離れられないんだって、その時、実感しましたね」

青木さんは今、震災と原発事故の伝承に取り組む『富岡町3・11を語る会』の会長を務めながら、2015年から毎月1回、富岡高校に集まって校歌を歌う活動も続けています。

「2011年3月11日に富岡高校に在籍していた生徒たちが、4年経って、自分たちの私物を取りに
校舎に入ったんです。200人ぐらいだと思うんですが、帰る時に、誰からともなく校歌を歌い始めたんです。校舎の中に響く校歌を聞いた時、すごく感じるものがあって、38年間の教員生活でいっぱい校歌を聞いてきたけど、あの日の校歌ぐらい“ものすごく大切なもの”と感じたことはなかったんです。校舎に生徒がいて、笑い声がしたり、歌声が響いたり、すごく当たり前なのに奪われてしまった…だけど校舎はちゃんと建っていると思った時に、“ここで毎月、校歌を歌おう”って思ったんですね」

富岡高校は今、休校という扱いです。校歌を歌う会には、県外の避難先から参加する人もいて、毎月の活動が途切れたことは一度もありません。青木さんはいつか、校舎に生徒が戻る日を信じています。

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