【キャスター津田より】3月11日放送「岩手県 沿岸北部」

東日本大震災から12年。
何よりも3月11日は、亡くなった方々の、年に1度の命日です。
ここに改めて、スタッフ一同、亡くなった方々のご冥福を心よりお祈りいたします。
番組はこの12年で500回以上放送してきましたが、今回のように放送日と3月11日が重なるのは初めてです。だからこそ、是非とも他のメディアが普段取り上げる機会が少ない被災地に行こうと、岩手県の沿岸北部にある小さな村々を回ることにしました。

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はじめに訪ねたのは、田野畑村(たのはたむら)です。人口が3000ほどで、震災では約23mの津波が押し寄せ、関連死を含めて41人が犠牲になりました(うち15人は今も行方不明)。281棟の家屋が被災し、漁港や水産施設も大きな被害を受けました。三陸鉄道の島越(しまのこし)駅も流されています。高台移転、道路や防潮堤の整備など復興事業は完了し、震災後は新たな道の駅なども誕生しています。

 ここでは、海沿いにある創業50年の民宿を訪ねました。50代のおかみと 夫、長男の3人で営んでいて、ウニやアワビの時期は、夫と長男が獲ったものをそのまま提供しています。民宿は高台にあったため津波被害を免れましたが、他の地区に住んでいたおかみの父親が亡くなり、兄は今も行方不明です。父(当時75歳)は、遠洋漁業の乗組員として働き、おかみが結婚する時は船上から泣きながら電話してきたそうです。兄(当時45歳)は漁協で働きながら、陸上選手としても活躍し、震災時は地元の駅伝チームの監督でした。おかみは震災から10年後の春まで一般客を受け入れず、復興事業関連の客だけを受け入れてきましたが、それには、観光客と笑いながら話すのがつらいという理由もあったそうです。

 「当時はかなり落ち込みましたね。言葉が出ない…。でも、知らない間に10年が過ぎて、ゆっくり考える時間ができて、今は落ち着いて思い出せるんですよね。お盆に1人で故郷の海に行って、兄に向って“いいかげんにして出てこい”と言ったんですよ。“待ってるよ”と…。兄の存在は大きかったから、お墓に入れてあげたいなと思って…。(3月2日に)十三回忌の法要をやった時、あの当時、小学3年生とか6年生とか中学2年生だった、兄の3人の子どもたちが何事もなく成長しているのを見て、あとは自分の力で生きてくれると思うから、ほっとした十三回忌でね…とても気持ちが軽くなりました」

 次に、田野畑村から北へ車で40分、野田村(のだむら)に行きました。人口が4000ほどで、震災では18mの津波が押し寄せ、37人が犠牲になり、515棟の家屋が被災しました。災害公営住宅(6ヶ所・100戸)が2016年に完成し、集団移転事業(3団地・98戸)は県内で最も早く着工しました。新たな道路や海抜14mの防潮堤なども整備されましたが、高台で家を再建した世帯と、元の土地に残った世帯に別れ、コミュニティーの分断が課題として残りました(これは田野畑村も同じです)。

 野田村ではまず、津波で夫と義父を亡くした60代の女性を訪ねました。長男夫婦と2人の孫の5人暮らしで、次男も村内に暮らしています。震災前に住んでいた場所に、7年前、自宅を再建しました。当時49歳だった夫とは高校卒業後すぐに結婚したそうで、夫は造船所で働く、祭り好きの男性でした。

 「12年、短いのか長いのか…“こういう時、 2人でいればなあ”とか、そういう感じがあるから、長いなと思いますけどね。今でも好きですよ。まだ夢も見ますしね。いつも作業着を着て帰ってくるんです。そうなったらいいなと、いつも思いますよね。やっぱり、ずっと夫と一緒に生きてきたんで、毎月11日は欠かさずお墓に行って、12年間休みなく、手を合わせている感じです。夫は子どもが好きだったんで、孫と一緒に遊べたらとか、見せてあげたかったなと思いますね。私は生かされた分、生きていきます。孫の成長とともに幸せであれば、きっと(夫も)喜んでくれると思います」

 さらに野田村では、8年前に取材した人を再び訪ねました。60代の女性とその義母で、以前会ったのは高台に家を再建した直後でした。娘夫婦や孫も含めて3世代8人暮らしでしたが、家族経営の食堂や自宅が津波で流され、女性の夫と義父、いとこが亡くなりました。当時、80代の義母はこう言いました。

 「“今日はいい天気だよ”とか、“今日は荒れて寒いよ”とか、遺影に話しかけて、生きて一緒に住んでいる人と同じ感じで暮らしています。あと10年は生きたいと思っています。そうすれば十三回忌も終わりますしね。13年も過ぎたら落ち着くかもしれませんけども、悲しみは一生、悔しさも一生…」

 今回、再び訪ねると、このおばあちゃんに会うことはできませんでした。2年前に入院し、コロナ禍で面会できないまま、去年秋に亡くなったそうです。女性はこう言いました。

 「看護師さんに“どうしていますか?”って聞くしかなくて、悔しいですよね…40年一緒に住んで、最後一緒にいられなかったのは。十三回忌をやるまでは死ねないって、いつも言っていました。でも、間に合わなくて…。このあいだ、娘たち夫婦が花巻温泉に連れて行ってくれて、みんなで誕生会をしてくれて、楽しかったです。落ち込んでいる私を励まそうという娘夫婦の気持ちが嬉しくて、本当に幸せだと思いました。震災は不幸だったけど、みんなの温かさを味わえたのは本当に感謝しています」

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 その後さらに、普代村(ふだいむら)に行きました。人口は2400あまりで、震災では、約15mの防潮堤や水門が機能したため、津波は中心部に到達しませんでした。村内での死者はゼロ、行方不明が1人です。一方、水産倉庫など住居以外の176棟が全壊し、村の9割以上の漁船(538隻)が被災して、水産業が大打撃を受けました。村の復興計画は2018年度に終了しています。

 ここではまず、震災翌年に取材した漁師の男性を再び訪ねました。現在は50代で、ワカメやコンブの養殖を行っています。養殖施設や加工場を津波で流され、取材当時は修理業者も手いっぱいで、大破した船を1年かけて自ら修理し、間もなく終わるところでした。

 「エンジンキーをひねる、その時に煙突から狼煙(のろし)みたいにポーンと煙が上がるわけさ。そして俺はこの船で沖に出て、狼煙みたいに湯気が出るくらいに頑張ろうかと…やっと漁師に戻れる」

 あれから11年…。男性は取材の直後に漁を再開し、修理した船は今も使われています。改めて過去のVTRを見て、“思い出して泣きたくなるね。昨日のようだ…”とつぶやきました。7年前、長男が専門学校を卒業し、父の背中を追って漁師になりました。

 「船も加工場も、やっぱり再建するには相当な借金もして、借金を返しながら子どもを学校に上げて、いま考えれば再建できたのが奇跡ですよね。いま同じことをやれと言われたら、どうかなと…。息子を船に乗せて一緒に沖に行くとかもなかったから、漁師になってびっくりしたね。今まで無我夢中でやってきました。息子も無我夢中で頑張ってほしいし、死ぬまで無我夢中じゃないですか」

 現在、三陸ではほぼ全ての魚種が不漁で、養殖も病気の発生などでふるわず、加えて資材と燃料費の高騰に見舞われています。この先、息子が漁師を続けられるのか不安も尽きず、息子のために漁業経営のリスク分散を図ろうと、沖合で漁をするための船も購入したそうです。

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 最後に、村に伝わる伝統芸能“鵜鳥神楽(うのとりかぐら)”を継承する28歳の若者に会いに行きました。村から100㎞離れた釜石(かまいし)市の出身で、家の近くまで津波が来ましたが、被災は免れました。高校卒業後、“鵜鳥神楽”を舞うために釜石市から普代村へ移住、村役場に就職しました。“鵜鳥神楽”は国の重要無形民俗文化財で、宮古(みやこ)市に伝わる黒森神楽(くろもりかぐら)とともに、岩手県沿岸北部と南部の各地を隔年で巡行し、大漁や豊作を祈願する舞を披露します。

 「初めて見た時はインパクトがありすぎて、“何だ、この集団は”と…。スーパー集団だったので、“鵜鳥神楽”と書いて“魅力”としか読めないくらいの感覚でした。震災で同級生や幼なじみも亡くしたんですけど、自分に何かできるのかなと思う時期と、どうせ何もできないという時期もあって、その中で神楽をやった後に、涙を流して“感動しました”と言う人もいたり…うれしい気持ちになりますね。みんなが集まって、酒飲んで笑っている様子は、やっていることは間違ってなかったと思う瞬間です。“鵜鳥神楽”はEXILEだと思っているので、責任を背負いながら、努力をしていきたいと思います」

 今回の3つの村は、昭和の時代は陸の孤島と言われ、村に行くのも道路より船のほうが早いくらいでした。それが今、3つの村は三陸自動車道で仙台まで直結し、村の発展に期待する声も少なくありません。震災から12年。過去を忘れないことと同時に、未来に期待することも忘れないでおきたいと思います。