「総理がぐらぐらしている」
初の“天皇中国訪問”の内幕

日中国交正常化から20年後の1992年10月。
当時天皇だった上皇さまが初めて中国を訪問された。
実現に至るまでには、紆余曲折があった。
12月20日に公開された外交文書には、当時の宮沢総理大臣が尖閣問題への対応と訪中実現の間で揺れ動く姿が記されていた。
(加藤雄一郎)

NHKプラスでも配信しています。
ニュースウオッチ9 12/20(水)放送【12/27(水) 午後10:00 まで】

初の“天皇中国訪問”

1992年10月23日、当時天皇皇后だった上皇ご夫妻が初めて中国を訪問された。

中国は鄧小平氏が来日した1978年以来、繰り返し訪問を要請していた。
特に1989年の天安門事件で国際社会から厳しい目が注がれ、西側から制裁が科される中、突破口にしたい思惑があったとされる。

天安門事件

一方、日本側も日中友好を前進させたいという思いがあり、外務省は実現に前のめりな姿勢だった。

渡辺外務大臣と銭外相 ※画像は1992年9月

1992年1月、渡辺美智雄外務大臣が訪中し、中国・銭其琛外相と会談。
訪問の時期について協議する。


当時の対外発表は「時期を含め検討中」だったが、外交文書からはこの時、渡辺大臣が「10月22日から27日、5泊6日の日程で訪中を」と、10月下旬の具体的な日程を提示し、中国側も受け入れていたことがわかった。

尖閣が障壁に

しかし、2月になると雲行きが怪しくなる。
立ちはだかった障壁の1つが、沖縄県の尖閣諸島をめぐる問題だった。

1992年2月25日、中国が、尖閣諸島を自国の領土と明記した「領海法」を制定したのだ。

PKO派遣などをめぐっても日中関係がギクシャクしていた中、自民党内からは、中国に対して厳しい目が向けられるようになる。

もともと「天皇陛下が中国に政治利用されかねない」という懸念の声もあり、中国訪問に反対論が沸き起こった。

外交文書には自民党内の空気が記されている。

▼2月25日

 鯨岡兵輔議員(※翌年 衆院副議長)
「一にも二にも慎重にして、誰からも天皇陛下を政治的に利用しているということはないよう」

▼2月27日

金丸副総裁「陛下の訪中については、中国と島の問題をちゃんと詰めて、その上でのことだ」

総理がぐらぐらしている

党内の反対論を受けて、宮沢総理大臣は慎重な姿勢に傾いていった。

「日中双方の国民の祝福を受けた形で訪中する」という条件が満たされない懸念が出てきたからだ。

宮沢内閣はPKO協力法案の国会審議や政治改革など、内政でも難しい課題を抱えていた。
公開された文書には煮え切らない態度をとる宮沢総理大臣への不満を口にする外務官僚の会話が記されている。

▼2月21日

谷野アジア局長「総理がぐらぐらし始めているらしい」
渡辺外務大臣「困ったものだ。宮沢はいざとなると度胸がない」

▼2月25日

谷野アジア局長「一番心配なのは宮沢総理の態度」
小和田事務次官「然り。責任回避的な態度あり」

この発言をした、当時の外務省アジア局長、谷野作太郎さん(87歳)が取材に応じた。

「御訪中はダメかなと思い始めた時期もありました。イライラし、私のような気の小さいものでさえも無礼なことを総理に言って、食ってかかったことも覚えています。自民党のお膝元で慎重や反対が多い中で、総理としては国内の亀裂や分断が深まる中で強行したくないという思いがあった。他方で、御訪中が実現できればいいという気持ちもあった。総理はその両方の間で揺れておられたんだと思います」

尖閣を過大視せず

3月下旬、外務省の小和田事務次官は宮沢総理大臣と面会し、尖閣問題を過大視しないよう進言したことが文書からわかった。

外務省 小和田事務次官

中国訪問を実現したい外務省の姿勢がうかがえる。

▼3月25日

小和田事務次官「尖閣問題、賠償問題等の雑音が生じているが、これらを過大視すべきではあるまい。今後、中国は日本につらくあたってくるのではないかと見る向きもあるが、外務省としては必ずしもそうは受け取っていない。江沢民訪日の際には決定的な方向性を示さずにおくべきものと考えている(総理うなずく)」

4月、来日した江沢民総書記と、宮沢総理大臣

4月6日、来日した江沢民総書記は、宮沢総理大臣に訪中を決断するようプレッシャーをかけた。

江沢民総書記「こうしてやって来た以上、両陛下の御訪中について大まかな結果がでるよう期待している。高きに立って遠くを見るとの見地から、この問題を検討していただきたい」

しかし、宮沢総理大臣は従来の態度を変えず、明確な回答を避けた。

宮沢総理大臣「本件は我が国国内において極めて機微な問題となっており、我が方において現在慎重に事を進めているところである。今暫く時間を頂きたい」

秘密会談

その翌日(4月7日)。

急きょ、東京・飯倉公館で、日中外相会談が秘密裏に行われていたことが文書から明らかになった。

渡辺外務大臣「尖閣問題によって我が国の国民感情が大きく傷つけられ、陛下の御訪中の問題についても水を差される格好となった。日中関係がギクシャクしないことが是非とも必要である。最終結論を得るまでに今暫く時間をもらいたい」

銭其琛外相「本件はしばらく冷却期間をおき、検討していくこととし、この間に両国関係を推進できるような条件を作っていくこととしたい」

自民党内の反対論を沈静化させるため決定を先送りし、訪問の環境を整えていくことで一致した。
「急がば回れ」が実現につながると考えた。

左)渡辺外務大臣 右)銭外相

このときの対応について、日中の外交関係に詳しい専門家は次のように指摘する。

北海道大学大学院 城山英巳教授
「中国に対する抗議よりも、訪中が潰れてしまいかねないという危惧のほうが強かったと読み取れる。領海法に対して強く出ていないという印象がある。当時は弱腰だったとも言えるが、訪中に向けた環境づくりを優先した結果だったと解釈できる」

大使への極秘指令

その冷却期間中、水面下で奔走したのが外務官僚たちだった。
キーマンだったのが橋本恕中国大使。中国訪問実現の立役者の1人と言われる人物だ。

▼4月1日
橋本中国大使「中国には合計半年間は尖閣、民間賠償等日本の国民感情を刺激するような問題を休眠させるよう全力をあげておさえ込むよう求める。早急に総理のご決断を願う」

宮沢総理大臣「党内や国民の間に亀裂が生ずるような形で実施したくない。大使の対中工作は是非やってほしい」

これを受けて橋本大使は、中国政府と共産党に対し、中国国内で尖閣問題などが表面化しないよう働きかけた。
そして、中国国内が収まっていくと、たびたび帰国し、それを材料に自民党議員の説得にあたった。

自民大物の説得

公開された文書には議員の名前が記された「根回しリスト」もあった。

そこには福田元総理、中曽根元総理、竹下元総理、金丸副総裁、三塚元外務大臣といった重鎮が並んでいた。

▼6月29日(中曽根元総理ー橋本大使)

中曽根元総理「近く、自分が竹下、金丸とこの問題をじっくり話し、3人で党内をまとめるべく努めるつもりだ」

▼6月30日(金丸副総裁ー橋本大使)

金丸副総裁「過日、中曽根、竹下、田村元と飯を食った。中曽根は賛成といった。党内をまとめる努力をするので、橋本大使から中国の要人に伝えて欲しい」

当時アジア局長だった谷野さんも、中曽根氏らの説得にあたった1人だ。

外務省アジア局長だった谷野作太郎さん

「議員からどなられたりするわけですが、もう慣れていました。宮沢総理は私のような一局長にも『中曽根さんどうだったか』と聞いてきた。これは総理、あなたのお仕事じゃないかと思ったけれども、政治の要路の方々やメディアも回りました。難しいのは日本の中なんですよ。私は『対中外交』は対中ではなくて『日日外交』と言っていました」

こうした水面下の働きかけが奏功して、党内の反対論は徐々に収まり、中国訪問は8月25日に閣議決定された。

8月25日

「おことば」めぐる神経戦

今回、外交文書で明らかになるか注目されたのが、訪問した際の「おことば」だった。
外交文書には、中国側から事前調整を持ちかけるようなやりとりが記録されていた。

▼2月20日 中国外務省 武大偉 日本担当課長ー槙田邦彦参事官

中国外務省 武大偉 日本担当課長「過去の歴史の問題について、中国側は大きな関心を有している。事前におことばを見せて頂き、話をするということを行ってはどうか」

槙田邦彦参事官「だれの責任と明確に述べることについては慎重に臨まなければならない」

黒塗り

しかし今回、おことばの原案は公開されなかった
公文書管理法では、外交交渉に支障がある部分や個人情報に関わる部分は、公開を控えることが認められているためだ。

原案の内容やどのような変遷をたどったのか、外交文書からは明らかにならなかったが、当時、実際に中国側とやりとりをしていた元中国大使館公使の槙田邦彦さん(79歳)が、その一端を証言してくれた。

元中国大使館公使 槙田邦彦さん
「おことばができあがったということで僕のところに送られてきた。それは外務省が起案したものとはちょっと違っていた。天皇陛下がみずから手を入れられたところがあると聞きました。過去の戦争、それによって中国の人たちに与えた被害、そういうことを、かえりみて天皇陛下が自分のことばで手を入れられたということです」

一方で、中国側と文言の調整があったかどうか尋ねると、槙田さん自身はそうした場面は見聞きしていないと話した。

槙田邦彦さん
「ハイレベル、つまり政治家どうしで何かやったのかは分からないが、少なくとも僕に関する限りでは、(中国側が)『こういうふうにしてほしい』とは言わなかった。天皇陛下のことばなので、その内容を中国側が注文をつけるということは受け入れられないわけですよ」

おことばに込めた思い

そして迎えた10月23日。

北京での晩さん会で、おことばを述べられた。

「両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」

会場で聞いていた楊尚昆国家主席は「温かいおことばに感謝します」と謝意を示した。

おことばは、テレビや新聞を通じて中国全土に伝えられた。
最後の訪問地、上海では多くの市民が沿道に詰めかけ、歓迎ムードに包まれた。

今への教訓

あれから30年。

いま日本と中国は「戦略的互恵関係」を推進し、意思疎通を重ねていくことで一致。
懸案となっている日本産水産物の輸入停止措置の撤廃などに向け進展を図れるかが焦点となっている。
日中関係はどうあるべきか2人に聞いた。

元中国大使館公使 槙田邦彦さん
「あの時に描いていた将来の日中関係、イメージどおりには進んでいないかもしれない。天皇の中国訪問や国交正常化に携わったものとしては誠に残念だが、感情論の波に乗るのではなくて、どのようにして難しい日中関係を安定的に運営していくのかが双方の責任だ」

北海道大学大学院 城山英巳教授
「当時の中国は改革開放路線。天安門事件を受けて国際的な孤立から脱却するために天皇の中国訪問を突破口にしたかった。1992年が弱い中国であるならば、今の中国は尖閣諸島や南シナ海でわが物顔でふるまう野心的で強い中国に変化した。対話を通じた懸案の解決というのは当時も今も変わらないが、やはり言うべきことは言う、主張すべきことは主張するという姿勢は今の日中関係にとって必要だと思う」

今もなお難しい日中関係をどう改善させていくか。30年前と変わらぬ外交努力が求められている。
(肩書は当時)
(12月20日放送)

政治部記者
加藤 雄一郎
2006年入局。鳥取、広島局を経て政治部。政治部では与野党や官邸などを取材。現在は外務省サブキャップ。