歴代名護市長から見た辺野古移設の“現在地”

国と沖縄県が激しく対立するアメリカ軍普天間基地の名護市辺野古への移設問題。

埋め立て予定地で軟弱な地盤が見つかり、国が地盤の改良工事を行うため設計の変更を申請しました。しかし、沖縄県が「不承認」としたため工事は進まず、国は県の代わりに工事を承認する代執行に向けて福岡高等裁判所那覇支部に訴えを起こし、12月20日に判決が言い渡されます。

地元・名護市が受け入れを表明してから26年。名護市のトップ、歴代市長たちは、この問題にどう向き合ってきたのか。彼らの発することばから、移設問題の“現在地”を探りました。沖縄からの報告です。
(宮原啓輔)

移設受け入れ・比嘉鉄也さん

比嘉鉄也さん

比嘉鉄也さん、96歳。26年前の1997年12月24日、総理大臣官邸で当時の橋本総理大臣に普天間基地の移設を受け入れることを伝え、3期目の途中で辞職しました。
当時、移設受け入れの是非をめぐり市は二分され、比嘉さんが官邸を訪れた3日前に住民投票が行われ、結果は反対が過半数を占めました。

1997年12月24日 首相官邸

なぜ民意とは逆の決断をしたのか。
比嘉さんは「名護市を含む沖縄本島北部地域・やんばるの発展を1番に考えた」と当時の心境を振り返りました。

人口を多くして、産業を豊かにして、みんなを働かしていけるかと。私はやんばる全体の振興策を考えて賛成だった。

「やんばるは沖縄本島中南部に資源や人材を供給するばかりで発展が遅れている」と感じていたという比嘉さん。橋本総理大臣に対し、自身の決断を伝える際、古くから伝わる沖縄の歌・琉歌をその場で書いて手渡したといいます。

橋本首相に手渡した琉歌

義理んすむからん ありん捨ららん 思案てる橋の 渡りぐりしや
(義理か感情のどちらかを選ぶのは難しい)

住民投票の結果も尊重しなければいけないが、やんばるの発展が遅れる中で振興策の話もある。この歌に迷う中で思案橋(歴史上の人物などが渡ろうか渡るまいか、思案したと伝えられる橋)を渡る覚悟を決めたという意味を込めたそうです。ゆっくりとした口調で官邸でのやりとりを明らかにしました。

北部の振興、開発計画、どうぞそれは閣議決定をしてやって下さいと、お願いしますとやった。橋本総理は「テイッシュ、テイッシュ」と涙を拭いていた。

比嘉さんの後継・岸本建男さん

岸本建男さん

1998年2月、比嘉さんの後を継いで市長になったのは、故・岸本建男さん(享年62)です。
就任よくとしの1999年12月27日、住民生活への影響がないことなど7項目の条件を付けて、辺野古沖への移設受け入れを表明しました。

健康問題を理由に3期目には出馬しなかった岸本さん。退任3日前の2006年2月4日、日米が合意したキャンプシュワブ沿岸地域に移設する計画について、飛行ルートが集落に近づくとして反対の立場を示しました。
岸本さんは市役所を去る際、「普天間基地の問題は今でも解決に至っていない。力及ばず、大変残念だ」と職員たちに伝えています。それから7週間後、亡くなりました。

岸本さんの後継・島袋吉和さん

島袋吉和さん

岸本さんの後継者・島袋吉和さん、77歳です。2006年2月から市長を1期務めました。
就任2か月後の4月7日、滑走路をV字にし集落上空の飛行を回避する現在の移設計画を受け入れました。決断の背景には、比嘉さんと同じく、沖縄本島中南部に比べて停滞するやんばるの経済発展を図りたいという考えがあったといいます。

私は前々から辺野古移設なくして沖縄振興はないと、名護の振興はないと、それを受けて国と協力することによって北部が発展していくと、名護が発展していくというのが持論だったものだから。これはやるべきだと決断した。

2006年4月7日 額賀防衛庁長官(当時)との会見

島袋さんは取材のなかで、合意に向けて政府と水面下で繰り返し意見交換していたことを明かしました。

その時は防衛庁長官ですよね。これは裏で何回もお会いしていたんですよ。いきなり文書で印鑑を押したんじゃないですよ。何もかも裏で会合をやって、沖縄担当大臣ともいろんな会合をやって、ようやくこぎ着けた案ですよね。

反対訴え初当選・稲嶺進さん

稲嶺進さん

島袋さんを破り、2010年2月に市長に就任した稲嶺進さん、78歳です。
移設反対を掲げた市長の誕生は初めてでした。
「市民の命と暮らしを守りたい」と反対の声をあげ続け、2期務めます。

移設を受け入れることは市民の生命財産を守るという、1番の長としての役割を放り出しているということになる。安全保障は国の専管事項だから物が言えないなんていうのは、これはおかしな話です。

2010年1月24日 名護市

就任後、在日アメリカ軍の再編に伴う国からの再編交付金は停止されました。
それに対し、ほかの省庁の補助を活用するなどして、まちづくりを進めたといいます。

日本全国には自衛隊も米軍基地もないところがいっぱいある。沖縄県内でもある。じゃあそこの地域では、どのような行政がなされているのか。全国でどこでもちゃんとできる。なぜ北部だけが、これがないとできないのか。これは絶対におかしい。

受け入れ表明から26年 続く工事

辺野古沖(手前が大浦湾側)

受け入れを表明してから26年。
キャンプシュワブの南側は9月末時点で、計画の99.5%まで埋め立てられました。
一方、埋め立て区域全体のおよそ7割の面積を占める、北側の大浦湾側の工事は進んでいません。

渡具知武豊 市長

2018年2月の市長選で稲嶺さんを破り、現在2期目を務める渡具知武豊 市長(62)。
これまで移設計画への賛否は明言していません。
渡具知市長は、今後の裁判の推移を注視していくとともに、市側の対応を決めていきたいとしています。

辺野古の現状に元市長は?

長い間、移設の問題をめぐり翻弄されてきた地元・名護市。
その時々に大きな決断をしてきた元市長たちは、今何を思うのか。

比嘉さんにそのことを問うと、穏やかだった表情が一変し、重い語り口で次のように語りました。

国と国で決着すべき問題をですよ、それを小さないち市長に押しつけたということは大変なことです。この貧しいやんばるを政治家として、どのように助けていくかといった時にですよ、自分の身をかけてでも豊かにするようなことを考えなきゃいけないじゃないですか。

現在の移設計画を受け入れた島袋さん。まっすぐ前を見据え、国や県は対立をやめて連携して地域振興を進めてほしいと話しました。

地域の皆さんがですね。今後、効果があってよかったと、基地を受け入れたんだけどね、よかったと思うような物を作ったりですね。移設先の振興策になるようなね、協議会を作って国、県、名護市でですね、いろんな議論をしてほしい。

反対の立場の稲嶺さん。振興策に頼らない街づくりこそが名護市の持続的な発展につながると、はっきりとした口調で述べました。

カネをもらうということは、移設を認めるということなんですよね。それはやっぱり市民を危険にさらすことと同じなんですよ。一時的にニンジンをぶら下げられて今がよければいい。あとのことは分かりませんということでまちづくりであったり、子どもたちの未来を語るというのは、これはもう浅はかとしか言いようがない。

これからも続く工事

移設工事は、いったいいつまで続くのでしょうか。
国は、地盤の改良工事にはおよそ7万本のくいを海中などに打ち込む必要があり、設計の変更後の計画に基づく工事が完了し施設を提供するまで、およそ12年かかるとしています。

取材後記

沖縄本島北部の中心市である名護市ですが、人口はおよそ6万5000人足らずで、那覇市の20%ほどです。決して大きいとは言えない自治体に暮らす人々は、移設先として浮上してから27年間、この問題に翻弄され続けてきました。

国と県の対立が続くなか、移設問題とどう向き合えばいいのか。市民を代表する元市長のことばに耳を傾けることで、ヒントが得られるのではないかと、取材を進めました。

受け入れの決断をした比嘉鉄也さん、現在の計画に同意した島袋吉和さん、そして、唯一反対を訴えて当選した稲嶺進さん。立場や考え方が違えど、それぞれの話から“安全保障”という国の政策を背負わされることの意味を、かいま見ることができました。特に印象に残ったのが、稲嶺さんの次のことばです。

「安全保障は国の専管事項とか言うけれども。こんな小さな街がね。もう何十年もそのことに翻弄されていく、これはもうやっぱり異常というか、異様というか」

そう語り、沈黙した稲嶺さんの姿をみて、名護市、そして沖縄の置かれた状況を、より多くの人たちに伝えていかなければならないと改めて思いました。

【リンク】沖縄県内の夕方のニュース番組「おきなわHOTeye」放送(放送は9月29日など)

沖縄放送局 記者
宮原 啓輔
2019年入局。沖縄が初任地。
警察取材を経て2022年から中部支局。基地問題を中心に担当。