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【社会保障70年の歩み】エピローグ「ウサギとカメ」

2015年08月17日(月)

「イソップ物語」に「ウサギとカメ」の競争の話がある。ウサギは途中で居眠りをして、その間にカメは懸命に歩いて勝利する。
「油断大敵」の教訓だが、現実にはカメが勝てるわけもない。
しかし、「陸上ではなく、水上ならどうでしょうか」と言われて、目から鱗(うろこ)の思いになった。
 

そう教えてくれたのは近藤原理(げんり)さんで、1970年代の初め、地方勤務の記者時代に知り会った。長崎県北松浦郡佐々町の自宅で知的障害者10人前後と一緒に暮らす当時は障害児学級担当の小学校教諭だった。カメにも似た障害者らの暮らしと自立を支え、能力や個性を生かす環境・条件が余りにも乏しい現実への告発だった。
原理さんは、炭鉱の閉山で寂れた丘陵地に建つ自宅を「なずな園」と名付けた。「よく見ればなずな花咲く垣根かな」(芭蕉)。その、ひっそり咲く白い小さな花にちなむ。
養護学校を卒業後、行き場がない主に青年たちを預かった。親からの仕送りはわずかで、規格外の共同生活には行政の補助もない。米、麦、サツマ芋、野菜、茶と、山の頂上まで耕した。豚や鶏を飼い、柿、梅、栗、ミカンの木も植えた。簡単な作業のできる園生は近くの町工場へ働きに出た。牧歌的にも見えるが、妻の美佐子さんを始め親族総動員の24時間格闘の日々だった。
「何か自分でできることをして、お互いに認め合い生きていく」。
一切の寄付を断り、自立し、地域に溶け込むために、園生たちは幼稚園の草むしりにも出かけた。
園生たちの表情は明るく、「水を得たカメさん」とは、このことか、と納得した。

 

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20150818_miyatake002.jpgETV8「ともに生きるために -3つの障害者福祉施設からの報告-」(1989年12月放送)より


「なずな園」の誕生は1962(昭和37)年秋、最初の日本型「グループホーム」と言える。デンマーク生まれの知的障害者の「グループホーム」も、米国における障害者の「自立生活運動」も、ちょうど同じ頃に始まった。共通するのは、普通に暮らす「ノーマライゼーション」の理念と実践である。


異なったのは、その後の社会の歩みだ。グループホームは欧州全域へ広まり、自立生活運動はやがて「全米障害者法」を生み出すが、「なずな園」は孤高を保つほかなかった。日本では、まるで逆のコースをたどったからだ。
家族・友人らが訪ねにくい不便な場所に大規模収容型の障害児・者施設が次々に建設された。身体障害者の福祉ホームや知的障害者のグループホームの制度化は80年代までずれ込んだ。
それでも、原理さんは長崎純心大学の教授も務め、列島の西の端から発信を続けた。主宰する「なずな合宿研」(なずな障害者教育福祉合宿研究会)は、長崎で被曝死した原理さんの兄をしのび、毎年8月9日をめどに全国各地で開かれる。
「やっと見つけた兄の遺体はぶよぶよに腐れ、どす黒。泣きながら薪を積み、火葬にした。一日かかって焼いた。あれをバネに、この50年を生きてきたように思う。平和なくして福祉なし、そんな思いで」(「地域で障害者と共生50年」太郎次郎社刊)。
「なずな園」は、次第に「共に老いる」時代へ入った。
「座ったままの排便。気づいたときはズボンの外まで便がしみ、畳や椅子を汚している。これを毎日繰り返すサチコさんにタケシ君。手足が不自由で急いでも間に合わず、漏らしてしまうカズオ君やタクジ君」~(同書)。
サチコさんも亡くなった。「葬式で弔辞を読んだユキオ君は『サチコさん、ジゴクで安らかに』と言ってしまった。極楽にふりがなまでつけておいたのに」と、原理さんは苦笑しながら、近所から大勢が悔やみに来てくれたのを何より喜んでいた。
すでに「なずな園」は閉ざされ、原理さんは82歳、伴侶の美佐子さんは先に逝った。しかし、「なずな合宿研」は長崎市、山口県宇部市、那覇市等でいまも続けられ、参加者は延べ6000人を超えた。
原理さんは「全国に無数のなずな園を」とよく語った。「無数の原理さんがいなければ無理でしょう」と反論したが、障害者の福祉も、高齢者の福祉も、在宅が重視され、施設もできるだけ家庭的な規模と環境が大事にされるようになった。
「スモールイズビューティフル」が福祉には似合う。

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ETV8「ともに生きるために -3つの障害者福祉施設からの報告-」(1989年12月放送)より


戦後70年。
社会保障の諸制度を軸に、住宅、雇用、教育施策等も加えた「広義の社会福祉」の70年の歩みは、新「憲法」の存在の大きさ、大事さを改めて教えてくれる。
「国民主権」(第1条)により成人は等しく参政権を得た。史上初めて選挙権・被選挙権を得た女性の主張はもちろん、障害者ら社会的弱者の声に政治や行政が耳を傾けるようになった。「戦争放棄」(第9条)は、軍需に頼らない経済や社会福祉へ財源を振り向ける環境を整えた。「基本的人権の享有」(第11条)は、社会福祉のまさに基盤である。
社会保障給付費は、最新統計のある2012年度で約108兆円となった。全国民と全企業・団体が1年間に稼いだ国内総生産(GDP)の約23%にあたる。しかし、障害児・者の福祉や子育て支援はまだ発展途上である。先の大戦の戦争犠牲者に対しては6388億円が給付された。70年の歳月を数えても、なお戦争の傷跡は残っている。


執筆:宮武 剛

    元新聞記者。
    30年以上福祉の現場を歩きまわって取材を続けているジャーナリスト。
    社会保障、高齢者福祉の専門家。

連載【社会保障70年の歩み】
プロローグ「首相への挑発状」
第2回・生活保護「1年パンツ1枚」
第3回・生活保護「水と番茶の違い」
第4回・医療「無保険者3000万人から」
第5回・医療「日本型の長所・短所」
第6回・医療「皆保険という"岩盤"」
第7回・介護「措置という古い上着」
第8回・介護「選べる福祉へ」
第9回・年金「開戦時に産声」
第10回・年金「お神輿の担ぎ方」
第11回・雇用保険「育児も支える」
第12回・労災保険「過労死もサリン事件も」
第13回・子育て支援 「スターティング・ストロング」
 

 

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