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60年前の台本 「岡崎三郎信康」

音声テープも残されていない「幻のラジオドラマ」に迫る
  • 2023年06月29日

大河ドラマ「どうする家康」で、いよいよ放送迫る「信康事件」。徳川家の悲劇はどのように描かれるのか…。

実はこの事件を描いたドラマが、60年前のNHK浜松放送局(当時)でも制作されていたんです。

その名も「岡崎三郎信康」。録音テープも残されていない「幻のドラマ」ですが、なんと今回の取材で台本を発見!さらに役者として出演していたという人にもお話を聞くことができました。

60年前に放送!ラジオドラマの台本

永田修一さん(81)

浜松市天竜区に住む永田修一さん・81歳。

60年前に放送されたラジオドラマ「岡崎三郎信康」で服部半蔵役を演じました。
今も、当時の台本を大切に保管しています。

永田さんの自宅の押し入れに大切に保管されていた

このラジオドラマは1963年にNHK浜松放送局(当時)で制作されました。

なんと脚本から役者まですべて浜松の人たちだけで作り上げたのです。

主人公は徳川家康の長男、岡崎三郎信康。
信康は織田信長から、武田家と内通していると疑いをかけられました。

そして、徳川家康から切腹を命じられ非業の死を遂げます。

信康が切腹した二俣城址

浜松市天竜区にある二俣城は信康最期の地。
このラジオドラマでは二俣城での最期が描かれています。

ラジオドラマのあらすじ

織田信長は家康の妻・築山御前と信康が武田家と内通しているという噂をわざと立て、家康が切腹の命令をするよう追い込みます。

家康は武力ではかなわないため、信長の言いなりになるしかありませんでした。

そして服部半蔵に信康の介錯をするよう命じます。

服部半蔵と天方山城守は一度は信康たちの助命を願いますが、家康の胸中を察し信康の待つ二俣城へ出向くのでした・・・。

迫真のラストシーン

台本のページ

信康「天にツバすれば必ず我が身にかかる。人を殺せば必ず自分も殺される。織田殿も今こそ意気揚々としていても、やがてホゾを噛む日が来るであろう。三郎信康のことを思い出して後悔なさるときがあるであろう。そして世の中の空しい事を覚えられる日が来るであろう。」

半蔵「殿!大殿は?(大殿=家康)」

信康「父上の気持ちもよく分かる。しかし半蔵、それ程まで我慢しなければ生きてゆけない世の中なら信康には何の未練もないわ。今度生まれてくるならばそんな我慢をせんでよい世の中に生まれて来ようぞ。」

半蔵「殿!御免!」

信康の最期


省略(腹を切り苦しむ信康を前に泣き崩れる半蔵。やむなく天方山城守が介錯をした。)

ナレーション 
かくて信康の首は落とされた。時に天正七年九月十五日。二俣城にはコウコウたる名月がひときわ冴え渡っていた。

信康の云い当てた通り、本能寺で信長が明智光秀の手によって討たれたのはそれから三年目、天正十年六月二日。未だ夜の明けざる時のことである。

                         終

介錯を命じられた服部半蔵役を務めた永田修一さんは・・・

「当時、信康のことなんか知らないから、なかなか台詞が言えなくて、(怒られすぎて)最後泣ける思いで言った"殿御免”って台詞が採用されてね・・・」

当時、劇団の最年少だった永田さん。
難しい演技に苦労するも未だに当時のことを鮮明に覚えていました。

人生の半分以上を信康ゆかりの地で暮らしており当時のラジオドラマに不思議な縁を感じているのだそうです。

天竜に眠る信康

信康の胴塚

信康は、浜松市の天竜区にある清瀧寺に眠っています。

命日には、地元の人たちが作った「信康の会」が信康を供養するイベントなどを実施しています。

6月に行われた浜松まつりでも信康の武者行列に参加するなど、信康のことを後世に伝えていく活動を続けています。

信康の会・大村邦夫会長

「自分たちの地元が信康ゆかりの地であることは何かの縁。大切にしていきたい」

実は、信康の死については資料がほとんど残っておらず真相はよく分かっていません。

それでも大村会長は、それも歴史の魅力のひとつと言います。

天竜の地で眠る信康。400年たった今でも地域の人に思われ伝えられていました。

こちらもご覧ください!

静岡県内で放送される「たっぷり静岡プラス 加藤諒の家康ゆかり旅 第2弾」(6月30日金曜19:30~19:55)でもご紹介します。

「たっぷり静岡プラス 加藤諒の家康ゆかり旅 第2弾」

  • 西田 強平

    静岡放送局ディレクター

    西田 強平

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