【キャスター津田より】7月1日放送「岩手県 大槌町」

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 今回は、岩手県大槌町(おおつちちょう)です。人口1万あまりの町で、震災では高さ10mを超える津波とその後の火災で、1200人以上が犠牲になりました。町民の10数人に1人の割合で、当時の現職町長も亡くなっています。全壊はじめ被災家屋は4300棟を超え、全世帯の7割近くに上ります。
 復興事業で町は一変し、中心部には、ホールや図書館などを備えた、3階建ての文化交流センター『おしゃっち』が建てられました。三陸鉄道の大槌駅や、駅と一体的に整備された観光交流施設が新たに完成し、駅前には9つの飲食店からなる屋台村もオープンしました。消防署や各地区の公民館、県立大槌病院が新しくなり、4つの小学校と1つの中学校を統合した小中一貫校『大槌学園』も開校しました。
最近は、養殖したギンザケやトラウトサーモンのブランド化や、害獣駆除を利用した鹿肉加工(ジビエ)による町おこしも始まりました。浪板(なみいた)海水浴場が、去年、12年ぶりに海開きしたほか、震災犠牲者を追悼する『鎮魂の森』の整備も進行中です。

 まず、町を流れる小鎚(こづち)川に行くと、地元・大槌高校の『はま研究会』のメンバーが、川に棲む生物の調査をしていました。ふるさとの自然の価値を再認識しようと多彩な活動をしており、定置網にかかったウミガメの個体調査も行っています。3年生のメンバー、小澤優宇(おざわ・ゆう)さんは、5歳のとき被災して自宅は全壊し、6年前、再建した家に引っ越したそうです。幼少期から釣りを通して海や川に親しみ、進学先は水産学部のある大学を希望しています。将来の夢は水族館の職員です。

「ウミガメの世話とか調査もできるって聞いて、“もう自分にはこれしかないな”と思って、研究会に入りました。もともと海が好きだったんですけど、もっと好きになりましたね。津波もあったし、親とか周りの人から、“実は海って、ちょっと怖い所なんだよ”って言われるけど、“みんなが思っているより、海は怖い所じゃないんだよ”っていうのを、大学や水族館で学んだことを生かして、伝えていければいいなと思っています。こうやって、みんなとワイワイやっていられるのも今だけですし、友達を大切にして、学校生活を送っていければいいなと思っています」

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 次に、5年前に仮設住宅で会った、小林徹平(こばやし・てっぺい)くん(13)、優斗(ゆうと)くん(12)の兄弟を再び訪ねました。当時、震災から7年経っても、町内最大の仮設住宅には80人が生活しており、2人は生まれてから仮設住宅の生活しか知りませんでした。小学生だった2人は、新居の絵とともに、“あたらしいいえにはいることがたのしみです”とスケッチブックに書いてくれました。
あれから5年…。2人は町が大好きな中学生になり、高台からよく町の姿を眺めているそうです。日頃から自転車に乗って、町の隅々を探検していると言いました。

「家の住み心地は最高ですね。この辺に友達がいっぱいいるので、遊ぶのが楽しいです。大槌がこんなに復興して、自然が豊かだし、車も走って賑やかで、大槌も良い所だなって思います。(大槌町内で)
行きたい所は様々なんですけど、いろんな所を知りたい感じです。」

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 そして、中心部にある御社地(おしゃち)公園で、住民グループ『おおつち遊び場プロジェクト』の代表、髙木正基(たかぎ・まさき)さん(61)にお会いしました。電力設備の保守管理を担う会社を経営し、津波で自宅は流されましたが、妻と子ども5人は全員無事でした。大槌町では、生活基盤の復興を優先して進めたのち、町内30ヶ所あまりに公園も整備しました。しかし、都市計画の制約や財政事情等により遊具は設置できず、中心部の町方(まちかた)地区では、500㎡前後の小規模な公園が点在しています。ボール遊びをするのも窮屈で、髙木さんは震災後の町内に思いきり遊べる場がないことに危機感を抱き、2018年、町の有志と活動を始めました。体育館や広場などを借り、遊び道具を持ち込んで子どもたちをのびのびと遊ばせます。大工遊びやフラフープ、竹馬、焼き芋作りなど、体験型の遊びを通して、生きる知恵を学んでほしいと願っています。

「“命さえあれば何とかなる”という思いで、ひたすら働いてきましたね。末っ子は震災当時2歳だったので、一番遊ぶ時期に全く遊ぶ環境が無い時代を過ごして、中学3年生になりました。ちょっとかわいそうだな、というのはあります。意外と子どもたちが喜ぶのが、大工遊びなんです。木っ端を並べて、釘と金づちを置いているだけで、みんなトントン叩きだして、すごく喜んで…。子どもたちが大槌町で元気に遊んで育って、旅に出て、また帰ってきたくなる町を我々は作っていきたいです」

 さらに、73人が通う『おおつちこども園』も訪ねました。 津波で園舎は全壊し、2013年に同じ場所に再建されました。 園長の八木澤弓美子(やぎさわ・ゆみこ)さん(57)によれば、震災直後、保護者に引き渡した園児のうち9人が亡くなったそうで、八木澤さんは、保護者も含めて全員で高台に逃げれば助かったはずと、深く後悔しました。

「“子どもの命はちゃんと守るんだよ”って言ってきた自分が、助けられなかった…生きていてもしょうがないと思いました。そうしたら長女に“そうやってる場合じゃないでしょう”って、めちゃくちゃ怒られたんです。5年くらいして娘から、“あの時、お母(かあ)が本当にどこかに行ってしまいそうで怖かった”と言われて…。あの時、後悔した思いは、自分の人生の中で大ダメージなんですね。だから、いま目の前にいる子どもたちは、信頼して預けていただいた大事な命なので、絶対守ります。絶対…」

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 園では震災後、予告なしの避難訓練を毎月行っています。園児を職員の車に分乗させ、避難場所の老人福祉施設にすぐ向かえるよう、駐車場にある職員の車は、すべて同じ方向を向けて停めてあります。 
 
 その後、安渡(あんど)地区に行きました。海沿いの雁舞道(がんまいどう)集落で生まれ育った、渡邊裕人(わたなべ・ひろひと)さん(47)は、伝統の『雁舞道七福神』という踊りに40年以上携わってきました。踊り手は七福神に扮した子どもたちで、大人がお囃子を担当します。津波では渡邊さんの幼なじみが犠牲になり、道具や練習場所も失いました。その上、雁舞道は災害危険区域に指定されて居住が禁止となり、集落も消えました。震災の2か月後、住民の声に応えて踊りを再開したそうです。

「幼なじみの家は隣で、年も近くて兄弟のように育ってきたんで…。毎年、集落に住んでいた人の家を回って七福神を披露するんですけど、幼なじみの家には今も行けないですよ。七福神は自分から切り離せないし、震災でなくなるのはどうしても嫌なんで…。自分は雁舞道が大好きなんで、雁舞道という言葉をなくさないようにしたいです。せめて地名だけは残していきたいです」

 最後に、大槌町を離れて別の町に移り住んだ人を訪ね、町から車で1時間半の紫波町(しわちょう)に行きました。岩手県では、沿岸部で被災した後、離れて住む親族を頼って内陸の市町村に避難し、そのまま定住した人が相当数に上ります。大槌町出身の小川(おがわ)せつ子さん(64)は、地震の後、米穀店を営む夫や障害がある30代の次男と避難中に、津波にのまれました。小学校の校舎に流れ着き、小川さんは2階の一部につかまって助かり、校庭に浮いていた次男も先生たちに救出してもらったそうです。夫が行方不明のまま避難所に移り、やがて盛岡に住む長男が迎えに来て、長男のもとに身を寄せました。夫は帰らぬ人となり、小川さんは盛岡市の隣・紫波町に家を建てて移り住みました。家には大槌町ゆかりの物がたくさん飾られ、今も本籍は大槌町で、美容院も大槌町まで通っているそうです。

「自分が育った町だし、子どもを大事に育ててきた町だから、やっぱり町を離れるか悩みましたね。そしたら長男から“これからまた地震とか津波があって、警報が出るたびに心配する俺たちの気持ちにもなってくれ”って言われたんです。ボランティアの人たちが、紫波町に来ている被災者のために、お茶っこの会とか開いて交流してくれたり、それでやっていけると思いましたね。12年過ぎて、いろんなことに感謝だな…これからも感謝しながら生きていこうかなって思います」

 大槌町では、住民の流出により、人口が震災前から約3割減少しています。災害公営住宅(876戸)の整備も集団移転先の宅地造成(496区画)も、土地取得に時間がかかり、資材不足や人手不足も重なって、完了は震災の8年後でした(県内で一番遅い)。4つの地区で行われた土地区画整理事業では、中心部の町方(まちかた)地区が震災の2年後に着工して、工事完了はその4年後。事業全体では、最後の宅地完成は震災の8年後です。その間、被災者は次々と地元を離れ、町は一時期、100万円の補助金まで用意して新しいかさ上げ地での自宅再建を促しましたが、公共施設や道路を除く民間の宅地利用では、今なお空き地も点在しています。これが、厳しい被災地の現実です。