【キャスター津田より】4月17日放送「岩手県 宮古市」

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 今回は岩手県宮古(みやこ)市です。

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人口が49961(4月1日現在)と、平成の大合併以来はじめて5万を下回り、震災後の人口流出が予想以上に進んでいます。市内に2000戸ほど整備した仮設住宅も、今年2月までに全員が退去しました。災害公営住宅766戸の整備、集団移転事業、土地区画整理事業も全て完了しています。3年前には、市民交流センター、保健センター、市庁舎が一体で整備された“イーストピアみやこ”が、宮古駅南側にオープンしました。宮古市は5年前の台風10号や2年前の台風19号でも、浸水などの大きな被害を受けています。震災前は100軒ほどあった中心商店街の店も、65軒ほどに減りました。さらに新型コロナウイルスの影響もあり、産業の振興は大きな課題です。

 

 はじめに、創業90年という市内最古の銭湯を訪ねました。

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福島県から移住した初代が米問屋を起業し、その後、銭湯を始めました。2代目は建設業にも手を伸ばし、現在は3代目の40代の男性が、銭湯と建設業を守っています。かつて市内に16軒あった銭湯も現在は3軒だけで、震災で廃業した銭湯もあるそうです。この銭湯は津波のあと浴槽が泥で埋まったものの、ボイラーは奇跡的に無事でした。7日後、貯めていた雨水を沸かして再開し、建物は補助金などで補修したそうです。

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近所の高齢者が毎日訪れる憩いの場ですが、台風10号の際は再び床上浸水しました。銭湯の利益は出ないそうで、廃材など燃料の無償提供に頼って維持しています。3代目の男性は青年会議所の理事長や商店街組合の理事を歴任し、市民劇にも参加するなど、震災後は積極的に地元と関わるようになりました。

 「震災直後、脱衣所にブルーシートを敷いて、“どうぞお好きに入ってください”と無料開放したんです。すごく喜んで、“気持ちよかった”って帰ってくれて、やっぱり銭湯は必要だなと思いました。震災が起きてから価値観が変わりましたね。何となく頑張るというのはだめだと思い始めて、何か別の動きをしたほうがいいと考えるようになって、市民劇とかいろいろやっています。何十年先も、家族で仲よく、子どもが大好きなお母さんのカレーライスを食べていられるような、そんな未来にしたいです」

 男性は大切な家族を守るには、災害への備えが肝心だと考えています。子どもに危機感を伝えられるよう、市の避難訓練などでは、大人が本気でやっている姿をきちんと見せることが大事だと言います。県の復興事業のうち、津波から市中心部を守る閉伊川(へいいがわ)水門の整備完了は、2026年度にずれ込みました。今はリスク管理の面で不完全な状態で、防災意識の啓発は重要です。

 次に、創業100年以上の練り物店に行きました。風味豊かな、手焼きの“ちくわ”が人気です。

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4代目社長の60代の女性に聞くと、津波で自宅と工場が全壊しましたが、同じ場所ですぐ再建するのは困難で、7人の従業員はやむなく解雇したそうです。再建場所を探し続け、3年後にようやく店を構えました。震災前と同規模での再建には億単位の資金が必要で、再開規模を3分の1に縮小したそうです。

 「商売をやめていいのかなと迷いながら、がれきを掃除していた時に、工場で昔からずっと働いていた女性の方と出会って、“おばちゃんや母さん、みんなここで、ちくわもさつま揚げも作っていたのに、津波がみんな持っていって悔しい”って泣かれて…。それを聞いた時に、“自分がしんどいからやめていいのか、何か違うんじゃないか”と思いました。今、こんなに工場も小さくなって、前のような面影もほとんどないけど、ご先祖様も“小さくなっても、ちくわを作っているから認めてやるか”って言ってくれるんじゃないかと思います。いい日ばかり来るわけではないし、いきなり“3.11”もあったりしますけど、その日その日を元気に活動できたら、すごくいいですね」

 

 その後、市内で甚大な津波被害が出た、田老(たろう)地区にも行きました。この地区だけで犠牲者は181人、建物被害は1600棟以上です。養殖業が盛んな樫内(かしない)漁港に行くと、地元の中学生が、授業で育てたワカメの収穫作業をしていました。

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漁業への理解を深める授業だそうです。先生役は40代の漁師の男性で、代々ワカメやコンブの養殖を営み、アワビ、ウニなども獲っています。樫内漁港にも十数人の漁師がいましたが、震災後は半減しました。男性は津波で養殖施設を失いましたが、船は無事だったため、国によるがれき撤去事業が始まる前から、数人の仲間とともに港のがれき撤去や流出した船の回収に奔走しました。

 「誰かが動いていかないと物事が回っていかないから、“がれきを片付けるのは役所の仕事だべ”と先輩に怒られたけれども、やりました。将来、漁師をやろうがやるまいが、子どもたちには“私のふるさとはこうやって生業を立てているんだ”と分かってもらえればいいです」

 収穫作業に参加していた生徒の中には、この男性の長女もいました。彼女は将来、海外留学を希望していますが、“ここは忘れませんよ、生まれた所ですから”ときっぱり言いました。

 そして、田老地区の高台にある集団移転団地に行きました。住宅街の一角に5年前にオープンしたスナックがあり、70代のママが営んでいました。

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約30年間、田老地区でスナックを経営し、津波で店と自宅を流され、母親も亡くしました。夫の故郷の岩泉町(いわいずみちょう)に避難しましたが、避難先でも台風10号で1階天井まで浸水し、2度の被災を乗り越えて田老に戻りました。

 「この高台にも、1軒ぐらい夜の明かりがあってもいいかなと思って、店を出しました。夜は“本当に人が住んでいるの?”と思うくらい静かだから…。うちの地域の消防団の方が6人亡くなって、5人が常連さんだったんです。亡くなった方の大好きな曲が店内に流れると、思い出話をしたり、みんなで惜しんだりしていますね。皆さんのお役に立てるような店でありたいし、自分でありたいです。形では復興に近づいていると感じますが、公営住宅に入る方、宮古の街や盛岡方面に行った方、バラバラになっちゃったから、震災前の近所の方とお会いして、涙ぐんで手を握って、“遠くに離れてしまって寂しいね”という言葉を聞いたりすると、心の面での復興は、皆さんまだなのかなと感じます」

 田老地区では、海抜14.7mの新しい防潮堤が造られ、国道45号沿いに集中していた店や住宅は、高台に造成した団地と、土地区画整理で造成した低地に分かれました。その中間点に、新しい道の駅が整備されています。去年開業した三陸鉄道の新田老駅は、宮古市の支所と直結し、商工会議所の支所や金融機関も入った新たな拠点が生まれています。一方、震災前に4400人以上いた田老地区の住民は、被災して移住した人も多く、2800人ほどに減りました。地区を支える漁業でも、サケやサンマなどの記録的不漁に加え、単価の高いアワビも不漁です。地元漁協の水揚げは、震災前年の39tから9tほどに減少、組合員数も707人から490人に減りました。何とかして新たな活力を生むことが、今の地区の課題です。

 

 最後に、宮古市内の住宅地で、震災の12日後に取材した人を再び訪ねました。

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当時60代の夫婦で、ご主人はがれきの前で、声を詰まらせながらこんな話をしました。

 「3月14日が母の一周忌で、次の日の15日のうちに母の位牌が見つかった時は、涙が出て本当にうれしかったです。命が助かって、本当によかった…家族ともども、母が助けてくれたんだと思います」

 今回、ご夫婦の自宅を訪ねると、70代になった奥様が玄関まで出てきてくれました。大規模半壊だった自宅を修繕して暮らしているそうです。驚いたのは、以前の取材から9か月後、ご主人が亡くなっていたことです。電気工事をしていたご主人は復興関連の仕事にも携わっていましたが、作業中の不慮の事故で亡くなりました。2人に子どもはなく、突然一人になった奥様は生きる希望を失いかけました。

 「“行ってきます”と出かけて、もう帰ってこない感じで…。被災した時はどこか遠くに行きたかったんだけど、お父さんが住んていた所だから、離れられなくて…。3年ぐらいはつらかったね。気持ちが元に戻らないのかと思ったんだけど、仕事に助けられた感じがします。50年ずっと一緒に働いた仲間にいろいろ助けられて…。悲しいことを楽しくしていく、自分でそういう気持ちを持てば、少しでも若い感じになると思います。前は五木ひろしとか、氷川きよしとか、コンサートにも行ったんですよ。今はコロナでできないけど、まだまだ行きたいですね」

 私たちはこの番組に、“つぎの一歩”という新たな名前をつけました。一歩が大きくても、小さくても、一切関係ありません。それぞれの、ありのままの“10年目以降”を伝えていこうと思います。