【キャスター津田より】4月10日放送「福島県 富岡町」

 先週から新たにスタートした「被災地からの声 つぎの一歩」。
 今回は福島県富岡町(とみおかまち)です。人口1万2千あまりの町で、原発事故のため、4年前まで全域に避難指示が出ていました。避難先に生活基盤ができた人も多く、現在、町内に住むのは人口の13%です。すでに災害公営住宅や診療所、2次救急病院、こども園や小中学校、図書館、さらに大型スーパーやホームセンター、ビジネスホテルなどがそろい、6社が立地する産業団地の利用も始まります。

 

 はじめに、以前出会った方の“つぎの一歩”を取材しました。東北有数の桜の名所、全長2.2㎞の“夜の森(よのもり)の桜並木”は今年も満開となり、4月3日と4日には“桜まつり”も開かれました。

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会場では、私たちが6年前に取材した、町のよさこいチーム“さくらYOSAKOI天花(てんか)”の演舞もありました。6年前はまだ全町民に避難指示が出ていて、町が遠方までバスを出して広野町(ひろのまち)の体育館に町民を集め、桜の季節に“町民の集い”を開いていました。全国から集まった約570人の前でチームは踊りを披露し、避難先のいわき市に家を構えたリーダーの男性は、こう言っていました。

 「課題は心の復興ですよね。とにかく日々元気でいなくちゃ、先はないと思いますので、私は“元気を出そう”という活動をしたくて…。富岡で生きていた時のような気持ちで、富岡を愛して、富岡で暮らしてきてよかったという人生を送れたらいいですね。私は富岡の人間でよかった…ふるさとはあったかいと思います。ふるさとの人とずっとつながっていたいと、離れていても思いますね」

 今回、男性に久しぶりにお会いし、改めて映像を見てもらいました。画面を見ながら、“言っていることが若いな”とつぶやきました。男性は現在50代で、チームはいわき市などを中心に活動しています。

 「6年前は、自分らしさを取り戻そうとか、自分らしい楽しみ方とか生き方をやっていこうという意味で、“心の復興”と言ったんです。いわゆる“避難者”に見られることがあるけど、それでも“閉じこもっていてはいけない”という思いがあって…。踊りを通して、にぎやかな人のつながりが、この町に生まれていったらいいなと思います。6年前も今も、目指しているものは変わっていなくて、楽しい部分をより楽しく、豊かなつながりで盛り上げていけたらいいと思っています」

 今後もこれまでと同じ一歩を踏み出すだけ、と語る男性。張り切って踊る姿も、以前のままでした。

 

 次に、20年以上も桜並木の管理をしているという、60代の男性から話を聞きました。元役場職員で、3年前に避難先から町に戻ったそうです。桜の木をしみじみ見つめながら、こう言いました。

 「いいよね、桜は…これを見ると心が落ち着くというか、咲いてくれた安心感もあるね。木もよく頑張っている…生命力ってすごいなと思いますよ。避難中はこの時期になると、一時帰宅の時は必ずこの沿線を通って、“人がいなくても咲いてくれているんだ、頑張っているんだ”と、力づけてもらっていました。避難先で生活している方がかなり多いので、寂しい感じが強いですけど、富岡の桜は町民にとって誇りというか、思いの強いもので、この桜を町民は忘れないと思うので、復興の状況を見て、戻れる時期を判断してもらって、元に近づければいいなと思っています」

 また、町を出て楢葉町(ならはまち)にも向かい、富岡町出身の方を訪ねました。藍染め工房を開いた70代の男性は、富岡町の自宅が帰還困難区域にあります。震災後、避難者の会に参加した折に藍染めと出会い、その奥深さに魅了され、工房をつくったそうです。

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現在は、避難先の郡山市の自宅に夫婦で暮らし、工房と行き来しています。男性は、避難指示の解除後は富岡町に戻ると言いました。

 「解除になればすぐ自宅に入れるし、工房のプレハブを建ててくれた人にも、建物は移動できるように作ってもらったから…。早く帰れれば、自分の家で藍染めをできるかな。避難して10年、されど、ふるさとの家の周りに建物はなし…帰れるかな。帰ったら、桜染めをやりたいというのが願望だね。桜を煮出して染めるのは時間はかかるけど、色が出たという楽しみは何ともいえない…それが楽しみだね」

 富岡町は面積の12%が帰還困難区域で、桜並木の大部分も、藍染めの男性の自宅も、帰還困難区域の“夜の森地区”にあります。その中で、JR夜ノ森駅周辺と駅に至る道路など一部では、去年3月のJR常磐(じょうばん)線の全線再開とともに、避難指示が解除されました。桜並木も約800mで鑑賞が可能になりました。夜の森地区は、帰還困難区域の中で“特定復興再生拠点区域(通称、復興拠点)”と呼ばれ、再び人が住めるよう、国が除染してインフラを整備しています。来年春、住民が長期に寝泊まりできる“準備宿泊”の開始しようと、町も買い物環境や健康増進施設の整備、町営住宅の復旧などを計画しています。さらに国は、帰還困難区域のうち復興拠点を外れた場所でも、主要道路に沿った15㎞の区間で、道路の両側20mの除染を始める予定です。ここには約200軒の家屋が含まれます。

 

 その後、去年再開した富岡漁港に行きました。

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数は減ったものの、漁船や釣り船も戻っています。漁師の家の3代目で、17年前から釣り船も営んでいるという40代の男性は、津波で祖父と1歳の長女を亡くしました。3年前、避難先のいわき市で釣り船を再開、去年、拠点を地元に移しました。富岡町内に家を購入し、家族のいるいわき市と行き来しながら暮らしています。

 「モニタリング調査とかをして、海の安全性、魚の安全性は確認していました。この漁港は福島第一原発と第二原発に挟まれていて、仮に、ここでやらないという選択をとれば、“ここでできないということは、やっぱり福島の海って危ないんじゃないか”ってならないですか? 我々がここで普通に操業とか、釣りをやることで、福島の海の安全性を知っていただけると思うんです。震災後、資源も回復して、魚も大きくなったけど、獲るだけ獲るとか、釣るだけ釣るのを続ければ魚は減っていくし、この回復した資源をいかに次の世代、次の次の世代につなげていくかが、我々の役目だと思います」

 4月13日、菅総理大臣は、福島第一原発で増え続けるトリチウムなどの放射性物質を含む水について、希釈して海に放出する方針を正式に表明しました。福島の漁業では、9年間続けた試験操業(日数や魚の種類を限定した漁)も今年3月で終わり、大きく前進した矢先の発言です。東電では、このひと月、柏崎刈羽(かりわ)原発のセキュリティー不備、福島第一原発の地震計の故障放置など、重大事実が次々発覚し、新潟県知事は、東電が原発を動かす能力があるか再評価するよう、原子力規制庁に求めました。この状況で、風評に大きな懸念を抱く漁業者、仲買人、釣り業者、観光業者などに国がどう説明するのか、厳しく見ていかねばなりません。

 最後に、町の太陽光発電会社が出資し、去年12月にオープンしたバラ園に行きました。福島の沿岸部では、野菜などより風評のリスクが少ない、花き栽培が広まっています。

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バラ園の代表を務める60代の夫婦は、6年間、避難先のいわき市で家族5人のアパート暮らしを経験し、4年前に町に戻りました。この春に初出荷を迎え、地元の入学式にもバラを寄贈したそうです。震災前は肥料販売などの店を手広く営んでいましたが、今は顧客がゼロで、商売はたたむそうです。2人はこう言いました。

 「まず誰かが帰らないと…帰って住んでいれば、続いて帰ってくる人もいるんじゃないかという期待もありました。何しろバラをつくる経験値はゼロなので、多少不安はありましたが、1回チャレンジしてみようかと始まりました。咲いて、出荷できて、市場で全部売れたりとか、直売でお客さんから“地元でバラが買えるようになるなんて”と喜ばれたりとか、人に会う機会が増えたのは、活性化されたみたいでうれしい気持ちになりました。皆さんの人生がバラ色に輝くように、町も一緒にバラ色になっていくように、未来につなげていきたいと思っています」

 2人には、大学院の博士課程で作物学を専攻する、26歳の息子がいます。彼もいずれ町に戻る予定で、現在はバラ園の裏でビール用の麦とホップを試験栽培しています。

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彼はこう言いました。

 「一つのビジネスの形にまで進めていって、町に根づかせるのが目標です。大学で身につけた能力を使って、富岡町の農業をリードしていけるような存在になれたらと考えています」

 2019年の町のアンケートでは、農地所有者の78.2%が営農を再開しないと答えました。ただそのうち、農地を誰かに貸したい、売りたいと思っている人は66%いました。バラ園のご夫婦や息子さんが、町にとっていかに貴重な存在か分かります。町は2028年度までに280haでの営農再開を目指しています。