消えるヤマ(鉱山)の記憶 刻んだ1万枚余の写真

 

残された写真 寺崎英子 細倉への思い

 

(「消えるヤマの記憶 刻んだ1万枚余のフィルム」おはよう宮城で7月27日に放送)

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細倉鉱山

宮城県栗原市にあった細倉鉱山。
昭和の終わりに閉山が決まった後、地元の女性が撮影した1万1千枚の写真があります。
7年前に女性が亡くなった後、志を継いだ人の手で日の目を見た写真には、
何が刻まれていたのでしょうか?

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寺崎英子の写真その1

2023年3月に完成した写真集『細倉を記録する寺崎英子の遺したフィルム』。
かつて日本有数の鉛や亜鉛を産出した細倉鉱山で暮らす人の姿が記録されています。

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写真集 『細倉を記録する寺崎英子の遺したフィルム』

寺崎英子(1941-2016)は、旧満州で生まれ、終戦直後から70年近く細倉で生活。
幼いころカリエスを患ったため病弱で、両親が営む商店の店番をずっとしていました。
撮影を始めたのは、1986年に細倉鉱山の閉山が決まってからのことでした。

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寺崎英子

寺崎英子から7年前に、大量のフィルムを託された写真家の小岩勉さんです。
それまで数回しか会ったことがなく、突然の申し入れに驚いたといいます。

小岩勉さん
「居間に(フィルムの入った)この缶が三つぐらい、『これで寺崎英子という名前の入った写真集を作って』と言われたんですよね。やっぱり障害があって、それでいろんな選択ができるという訳ではない状態で、ずっと写真を撮ってきたわけじゃないですか。生きてきた証みたいなものがここにあったりするわけですよね。断れないですよね」

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写真家 小岩勉さん

写真集の刊行に向けて動き出した小岩さん。
ところが、預かったフィルムは、ほとんどがプリントされておらず、
何が写っているかわからない状態でした。

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寺崎英子と小岩勉さん(2015年11月にフィルムを託されたときのもの) 

フィルムを預かった半年後、寺崎英子は突然亡くなります。
託された思いをこのまま埋もれさせたくない。
小岩さんは、協力を申し出た仲間とともに膨大な量のフィルムをデジタル化。
寺崎英子が写真に刻んだ世界が姿をあらわします。

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寺崎英子の写真その2

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寺崎英子の写真その3

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寺崎英子の写真その4 

小岩勉さん 
「大好きなんですね細倉が。好きな人たちがいたっていうふうに思わないと撮らない写真っていうのが結構あって。その写っている人がどういう空間の中で何を見ながらそこに生きていたのかというのがすごくよくわかるんですよね。こういう服を着ていたとかこういう髪型だったとか」

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大きな反響を呼んだ寺崎英子の写真(トーク・イベントの様子 2017年) 

寺崎英子の写真に魅入られた小岩さんたちはその一部を公開。
多くの共感が寄せられました。

『細倉に縁もゆかりもないですが、見ていると心がきゅっとなります。』
『なつかしい声が聞こへる、もう一度会いたかった。』

写真展でノートに書かれたメッセージ

小岩勉さん
「やっぱりその時代に生きた人たちの共有できる空間みたいなものってやっぱりあると思うんですよね。誰か知らない人が写っていると言うよりは、そこに自分が写っているような気がする」

寺崎英子は、鉱山から人の賑わいが消えた後も十年以上、丹念に記録を続けました。

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2000年撮影の寺崎英子

「建物があって生活があって…。
始めがあれば終わりがあるように追いかけたのかね。
それはちょっとわからない…」

寺崎英子(2000年)

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寺崎英子の写真 閉山後1

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寺崎英子の写真 閉山後2

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寺崎英子の写真 閉山後3

小岩勉さん
「人が去って、長屋も壊されて、やっぱりそれでは終われないというか、またそこに新しい植生が生まれて山に戻っていくようなところまで、撮っていこうとしたところは、すごいんじゃないかなって思います」

寺崎英子は何を遺したのか。
その全容に迫る展覧会が仙台メディアテークにて現在開催中です。(2024/1/22まで)

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現在開催中の写真展