ンセン病集団訴訟原告団
「最終解決へ大きな一歩」

ハンセン病患者の家族に対する「補償法案」の内容がまとまったことを受けて、集団訴訟の原告団が24日、都内で会見を開きました。

幼いころ父親が療養所に強制収容された岡山市の原田信子さん(75)は「金額については満足のいくものではないが、一律の補償制度ができたことについては喜びたい。ハンセン病のことで家族が泣くことのないような社会になってほしい」と話していました。

原告団の団長で、父親が鹿児島県の療養所に入所していた福岡市の林力さん(95)は「無知は差別の源であり、国がハンセン病を隠してきたことで、余談と偏見が増幅していったと感じる。私たち当事者が、どのような人権侵害を受け、どういう生活を強いられたのかを語っていく機会を国に作ってもらいたい」と訴えました。

弁護団の徳田靖之共同代表は補償法案について「ハンセン病への差別や偏見をなくすという最終解決に向けた大きな一歩だと思う」としたうえで、国に対して、これまで行ってきた啓発活動を見直し、偏見や差別の解消に向けた新たな対策に全力で取り組むよう求めました。

患者家族「問われるのは差別解消に向けた動き」

ハンセン病患者の家族への差別被害を認めた集団訴訟の原告で、父親が国の療養所に強制収容されていた徳島県に住む70代の兄と60代の弟は、補償額が決まったとしても全面的な解決には至っていないと考えています。

兄弟の父親は2人が小学生だった昭和34年にハンセン病と診断され、高松市の離島、大島にある療養所、「大島青松園」に強制収容されました。

このとき、自宅に白い消毒剤がまかれたことが集落中に知れ渡り、兄弟はそれまでよく遊んでいた友人からものけ者にされるようになったといいます。

2人は2年後、一家で30キロほど離れた土地へ引っ越したのを機に母親に諭されて、周囲に「父は小さいときに死んだ」と伝えるようになりました。

兄は昭和40年代に地元で刑務官の試験を受けた際、父親がハンセン病だと打ち明けたところ、とたんに面接官が互いに顔を合わせてひそひそ話を始めたということで、兄は「他の人よりも学科試験の点数がよかったにもかかわらず、不採用になった」と話しています。

2人は結婚する際、それぞれの妻にも父親の病気のことを伏せていましたが、子どもを父親に見せたいという思いから妻に父親の病気のことを打ち明けて定期的に家族で大島を訪れるようになり、昭和60年には徳島県内の兄の自宅で父親と同居を始めます。

しかし、平成8年に元患者の隔離政策が廃止されたあとも元患者がホテルで宿泊を拒まれるなど、差別や偏見の根深さをうかがわせるできごとがあったため、兄は父親の病気を周囲に知られまいと苦悩し続けました。

父親も後遺症が残る顔や手が人目につくのを嫌がって2階にこもるようになり、晩年は一緒に食事をとることもなくなったといいます。

父親はその後、大島の療養所に戻って平成17年に亡くなり、2人はともに「これでハンセン病と縁が切れる」と父の病気を隠し続ける負担感から解放される思いがしたといいます。

2人は訴えが認められた今も差別や偏見による苦しみを味わわせまいと、親族にも父親の病気のことを打ち明けられずにいます。

それだけに補償額が決まったとしても、差別や偏見が解消し、周囲に父親の病気を打ち明けられるようになるまでは全面的な解決にはならないと考えています。

弟は「お金の問題ではない。裁判で勝訴し、国が間違っていたと認めても差別はすぐにはなくならないだろうし、問われるのは差別解消に向けたこれからの動きだ」と話しています。

また兄は「これで解決ではない。これからもほかのさまざまな差別が出てくると思う。堂々と『おやじはハンセン病だった』と言える時になって初めて、裁判に勝ったと言えると思う」と話していました。