【詳しく】内閣不信任決議案
与野党攻防のヤマ場

そもそも「内閣不信任決議案」とは

内閣不信任決議案は内閣が信任できないとする衆議院の意思を表明する議案です。
衆議院議員51人以上の賛同があれば提出できます。

決議案が、衆議院本会議で出席議員の過半数で可決されると、内閣は10日以内に衆議院を解散するか、総辞職しなければならないと憲法で規定されています。

与野党攻防のヤマ場

内閣不信任決議案は、その時の政治情勢に応じて主に野党側が、その時の内閣に政策や対応を任せられないとして提出します。

国会会期末の直前に出されることが多く、終盤国会の与野党攻防のヤマ場となっています。
特に選挙前には対立が激しくなります。

一方で、国会議員からは「可決の見込みがない中、国会の会期末に年中行事のように内閣不信任案を提出するのは国民の理解が得られない」という指摘も出ています。

内閣不信任決議案が否決されたケース

2021年は10月に衆議院選挙が行われましたが、その前の国会会期末の前日、6月15日に立憲民主党など野党4党が、菅内閣は新型コロナウイルス対応で失策を重ねているなどとして、内閣不信任決議案を提出しました。

これを受けて、衆議院本会議で審議が行われました。

立憲民主党の枝野代表は、およそ1時間半にわたって趣旨弁明を行い「補正予算など、国会が果たさなければならない案件は山積しており、戦後最大の危機の下で、会期延長を拒否し国会を閉じようとしているのは到底容認できない。菅総理大臣は有事のリーダーとして失格で、即刻その地位を去るよう強く求める」と述べました。

これに対し、自民党の柴山・幹事長代理は「菅内閣は総力をあげて新型コロナウイルスの1日も早い収束と、国民が安心できる日常を取り戻すことを最優先に取り組んできた。このコロナ禍で内閣不信任決議案を出すこと自体、国民の政治に対する信頼を損なわせるという理解はないのか」と反論しました。

このあと、記名投票による採決が行われた結果、内閣不信任決議案は、自民・公明両党と日本維新の会などの反対多数で否決されました。

内閣不信任決議が可決されたケース

戦後、内閣不信任決議が可決されたのは4回あります。

1948年(昭和23年)の第2次吉田内閣、1953年(昭和28年)の第4次吉田内閣、1980年(昭和55年)の第2次大平内閣、1993年(平成5年)の宮沢内閣です。

いずれも不信任決議を受けて、衆議院が解散されました。

1993年6月に宮沢内閣に対して野党側が提出した不信任決議案は、衆議院に小選挙区制を導入することなどを柱とした政治改革をめぐる自民党内の対立などから、当時の羽田派など自民党の39人が賛成して可決されました。
この時は、羽田派に所属していた2人の閣僚も不信任決議案に賛成しました。

宮沢総理大臣は、これを受けて、衆議院の解散・総選挙に踏み切りましたが、羽田派などが離党して新党を結成したことから、自民党は過半数を割り込みました。
そして、非自民、非共産の7党・1会派が連立を組む細川内閣が誕生し、自民党は結党から38年目で初めて野党に転じる事態となりました。

一方、参議院で、内閣が信任できないなどとして総理大臣に対する問責決議案が提出されることがありますが、仮に可決されても衆議院での内閣不信任決議のような法的拘束力はありません。
(肩書きは当時)