乳で命を救いたい
政治は動くか

「母乳バンク」をご存じだろうか。
早産により低体重で生まれた赤ちゃんのため、母乳が出ない母親に代わり、ドナーから母乳を集めて提供する仕組みだ。
取り組んでいたのは、1人の医師とその妻。4畳一間から始めた活動が、ついに政治を動かした。
(清水大志)

わずか500グラムの赤ちゃん

2月25日、都内の病院で1人の男の子が生まれた。
切迫早産のため妊娠26週で生まれ、体重はわずか500グラム余り。

赤ちゃんは、生まれて12時間後、初めて母乳を口にした。
それは母親のものではなく、「母乳バンク」を通じて、ドナーから提供されたものだった。

なぜ「母乳」が必要なのか

早産などで1500グラム未満で生まれた赤ちゃんは「極低出生体重児」と呼ばれ、え死性腸炎という腸管がえ死してしまう病気にかかりやすいとされている。

え死性腸炎は死に直結するリスクもあるが、各国の研究で、生まれた直後に、粉ミルクではなく母乳を与えることでかかりにくくなることが分かってきている。これは母乳に含まれる物質が腸の粘膜を成熟させ、免疫力を高めるためだとされる。ただ、出産直後の母親は体調がすぐれず、母乳が出にくいケースも多い。特に何かしらの理由で出産が早まった母親はなおさらだ。

日本には古くから、出産直後、ほかの母親から母乳をもらう「もらい乳」という慣習があったが、近年は感染症のリスクが指摘され、徐々に姿を消しつつある。

その結果、低体重の赤ちゃんが母乳を口にできず、病気にかかるケースが出てきたのだ。

現在、日本で1年間に1500グラム未満で生まれる子どもはおよそ7000人。専門家の試算では、そのうち、およそ3000人がドナーの母乳を必要としているとみられている。

必要とされる母乳。
数年前にはインターネット上で母乳が売買されていることが明らかになった。

消費者庁が注意を促す事態になったが、「もらい乳」が減る中、感染症のリスクが高いにも関わらず、ほかの人の母乳を求める母親たちがいることが改めて浮き彫りになった。

これに応えるのが「母乳バンク」だ。
え死性腸炎のリスクを避けるために必要な母乳は、実はそれほど多くはない。
「母乳バンク」は、母親の体調が回復し、母乳が出るまでの数日間や、粉ミルクに切り替えるまでのいわばつなぎの期間を埋めるための仕組みだ。

乳児を持つ母親から余った母乳を提供してもらい、殺菌などの処理を経た後に、必要な赤ちゃんのもとへと届けられる。

増える「え死腸炎」に危機感

日本で唯一の「母乳バンク」を運営しているのが、昭和大学病院の水野克己教授だ。

15年前、留学先のオーストラリアで「母乳バンク」の取り組みを目の当たりにしたのをきっかけに研究を進め、2013年に「母乳バンク」を開設。

その後、活動を拡大しようと、2017年には「日本母乳バンク協会」を設立した。

水野教授は、「もらい乳」が減る中、日本は各国と比べ「母乳バンク」の整備が遅れていると強い危機感を抱いたという。

「ある県立大学の病院では、『もらい乳』を使っていた頃は、2、3年に1人ぐらいしか、え死性腸炎にならなかった。その後、感染症を契機に『もらい乳』が使えなくなると、1年に3、4人が、え死性腸炎になり、半分ぐらいの子が亡くなっていた。『母乳バンク』がないため、1500グラム未満で生まれた赤ちゃんに、粉ミルクをあげざるを得ないケースがあった」

4畳一間での活動

しかし、「バンク」と言っても実態はまさに家内工業だ。
昭和大学江東豊洲病院の中に設けられた、わずか4畳ほどの部屋が唯一の活動拠点で、メンバーは水野教授と助産師でもある妻の紀子さんの2人だけだ。
ヒト、モノ、カネ、どれも足りない中、講演会の参加費や寄付などで活動を続けてきた。

部屋には、講演会やインターネットを通じた呼びかけに応じた各地のドナーから送られてきた母乳が冷凍で保存されていて、低温殺菌や感染症の検査などを経て、要請があった全国の病院に無償で送っている。
去年は100人余りの赤ちゃんにドナーの母乳を届けたが、人手不足や冷凍できる母乳の量に限界があるため、年々高まる需要に追いついていないという。

水野教授は去年、施設を拡張しようと、より広い部屋を、千葉県内に月8万円で借りたが、大雨の後に訪れると配管を通じて虫がわき、母乳を保管できるような状態ではなかったという。
小児科医としての仕事のかたわら、講演活動や自費出版などを通じて「母乳バンク」への支援を呼びかけ続けたが、安定した供給体制を作るきっかけはつかめなかった。

水野教授は安定的な供給体制を作るために、国の力は欠かせないと話す。

「必要とする赤ちゃんがいるのに、『バンクの規模が小さいので対応できません』と断って、その後、亡くなったと言われるのがものすごくつらい。母乳が必要な子には、誰でも無償で提供できる体制を作らないといけない。世界的に見ると、バンクに国や公的機関が関わっているケースが多く、日本でも統一的な基盤を作るためには官の力がなくてはならない。母乳を提供してくれるドナーはいるのに、その母乳を使うことができなかったという理由で赤ちゃんの命を失うことは絶対にあってはいけない」

大臣に「直訴」したら…

そうした中、「母乳バンク」の取り組みに、当時の根本匠厚生労働大臣が興味を持っていることを知った水野教授。去年夏に、知り合いの紹介によって、大臣室で直接説明を行うことになった。

根本前大臣は、当時の様子を次のように振り返った。

「身近な知り合いから『一度、話を聞いてもらいたい人がいる』と紹介を受けて、大臣室に来てもらった。話を聞くと、科学的な裏付けもあるし、ドナーの母乳もきちんと管理されていた。水野教授は論文を書いたりしていたが、取り組みが政策テーマとしては注目されてこなかったのだと感じた」

実は、水野教授らによる「母乳バンク」の取り組みは、過去に厚生労働省の研究の対象となり、支援を受けたこともあった。ただ、あくまで研究中心の支援にとどまっていた。
ある厚生労働省の担当者は「必要性は認識していたものの、水野教授らによる自主的な取り組みを見守る姿勢だった」と話す。

大臣室で、水野教授は、みずからの経験を語った。
妊娠24週目に子宮けいがんが見つかった母親の治療を優先し、帝王切開で赤ちゃんを取り出したものの、母親は亡くなり、ドナーの母乳がなかった当時、赤ちゃんも、え死性腸炎にかかり重い障害が残ったことがあったのだ。後悔の思いや残された父親の言葉を根本大臣に伝えたという。

根本氏は、「話を聞いて『母乳バンク』は必要だと思ったし、水野教授の努力だけでなく、全国的に対応できるようにする必要があると感じた。すぐに省内で議論を始めた」と話す。

しかし、面会直後の2019年9月。

水野教授が目にしたのは内閣改造のニュースだった。
根本大臣が交代することになり、国の力は借りられなくなると考えた水野教授。自分たちの力で「母乳バンク」を運営していこうと決意したという。

ところが去年12月、根本前大臣から、もう一度話を聞きたいと連絡があった。

関心のある国会議員が集まって、勉強会が開かれたのだ。会場には、厚生労働省の担当者も呼ばれていた。

水野教授は、母乳バンクに必要な支援を訴え、勉強会の参加者は熱心に耳を傾けた。勉強会の参加者はことし1月には母乳バンクを視察し、国の支援が必要だという思いをいっそう深めた。

水野教授は、それまでも研究成果を厚生労働省に報告していたが、バンクの制度化や支援に向けた動きにはつながらなかったと話す。それが根本大臣が関心を示したことをきっかけに、厚生労働省が制度設計を検討し始め、大臣を退任した後も取り組みが続いていたことに驚いたという。

実は、根本前大臣は知り合いから「内閣改造で水野教授ががっかりしていた」と耳にし、退任後も厚生労働省との調整を続けていたのだ。

そして、2月12日の衆議院予算委員会。

厚生労働省の担当者は、自民党議員から「母乳バンク」の必要性を問われたのに対し、2020年度から3年間にわたり財政的な支援を行うことを明らかにした。
順調にいけば、2023年度には全国的な展開につながる見通しだ。

公的支援決まる 課題も

厚生労働省は、毎年800万円から1000万円程度の予算をかけ、「母乳バンク」の効果の検証や設備の運営などを支援するとしている。

水野教授は、全国からの需要に応えるため新たな拠点の整備を検討している。一方で、単に拠点や提供数が増えればいいとは考えていない。指導が行き渡らず、殺菌などが不十分なドナーの母乳で問題が発生した場合、せっかく認知され始めた「母乳バンク」の信頼が失われてしまうと警鐘を鳴らしている。

安全性を確保し、必要な量の母乳を提供できる仕組みをいかに作るか。
そして、厚生労働省の支援が終わった後も仕組みを維持するため、運営費をどのように確保していくか、今後、検討しなければいけない大きな課題だ。

診察のかたわら、日々、関係者との調整に奔走する水野教授。改めて「母乳バンク」への思いを聞いた。
「え死性腸炎で子どもが亡くなる場合は、すぐに亡くなるわけではない。腸が破れ、その後、いろいろな病気を引き起こして1週間、2週間と苦しみ、亡くなっていく姿を親は見ていく。母乳が足りなかったから、この子は腸が破れて死んでしまったと後悔する母親をなくしたい」

「子どもは宝だ。必要なすべての赤ちゃんにドナーの母乳を提供できる体制を作りたい。医師として見てきた1つ1つの物語が私たちや政治を動かしてくれた。日本でこれから生まれる小さな子どもたちにこの恩を返していきたい」

どう育つか、母乳バンク

冒頭紹介した赤ちゃんは、3日間にわたってドナーから提供された母乳を飲んだあと、今は母親の母乳で順調に育っているという。

政治の動きを追い風に、広がりつつある「母乳バンク」。

新型コロナウイルスの感染拡大で、6月に予定していた新たな「母乳バンク」の開設が8月以降に遅れるなど、影響はあるという。
小さな命を救う取り組みが、今後どのように育っていくのか、見つめていきたい。

政治部記者
清水 大志
2011年入局。徳島局を経て政治部。現在は自民党・岸田派を担当。