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2019年1月 6日

第84回 安曇野へ 写真家・田淵行男と北アルプスを感じる旅

山岳写真家であり高山蝶(コウザンチョウ)※の研究者としても知られた田淵行男(1905-1989)。田淵と、彼が愛した安曇野の自然を感じに長野県に旅します。

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訪れたのは12月の初旬。北アルプスを眺める。雲の切れ目からのぞいている一番高い部分は田淵行男が206回登った常念岳。

※高山蝶……日本の高山に限ってすむ蝶の通称。本州では1500m以上、北海道では1000m以上の高地で生息するとされている。

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田淵行男は鳥取県大山の山里(鳥取県黒坂村・現日野町)に生まれ、山や昆虫に親しんでいました。13歳のときには1年間、台湾・台北市に居住、異国の地でたくさんの珍しい蝶と出会ったことで蝶への傾倒を強めていきます。蝶の絵を描き始め、その後東京高等師範学校で博物学を専攻。カメラを持ちながら登山や昆虫採集を続けました。また登山の名ガイドと呼ばれた人たちとの交流が深くなっていきました。そして1945年の7月、第二次世界大戦の戦火を逃れて東京から安曇野へ移住。そこから83歳で亡くなるまで安曇野に暮らし、その自然と深く関わり続けました。

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田淵行男。胸元には自身がデザインしたマークが見える。田淵は意匠的な部分にもこだわりが強かった。

また1951年にアサヒカメラの臨時増刊号として『田淵行男 山岳写真傑作集』が出版されたことがきっかけとなり、山岳写真や高山蝶などを題材とした写真で世間に注目される存在となっていきました。生涯を通して出版した写真集の数はなんと36冊。そのうち1959年に出版された『高山蝶』はアメリカのスミソニアン博物館にも収蔵されています。 

穂高牧と常念岳

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安曇野の穂高牧にて。田淵行男が撮影した場所から北アルプスを眺める。写真は春の様子なので、田んぼ一面にピンクのレンゲが写っている。

田淵行男が東京から移り住んだ先は、安曇野市穂高牧という、常念岳の麓にある村でした。牧は優秀な山のガイドが多く暮らす村でもありました。明治から昭和にかけて活躍した風景画家・吉田博が山に行くときのガイド役となった小林喜作の出身地でもあります。田淵が直接付き合いを持った寺島宗吉、寺島嘉多治という山のガイドふたりもこの村の住人で、彼らから誘われ、田淵はこの地を選びました。

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穂高牧で見つけた寺島宗吉の碑。山の名ガイドのひとり。

この場所に住んだからこそ、田淵は山岳写真の撮影にまい進していったとも言えるでしょう。ここは北アルプスへの直接の入り口でもありました。常念岳に入っていって、さらにそこから周囲の山へ展開することもできます。上高地なども、釜トンネルが開けるまでは常念岳経由で行くのが一般的だったようです。

ここはまた田淵が愛した蝶の宝庫でもありました。本州には9種類の高山蝶がいると言われていますが(諸説あります)、その大半に常念岳で出会えます。北アルプスの他の山でも見られますが、たとえば燕岳(つばくろだけ)や槍ヶ岳などと比べても、常念岳の方が高山蝶の種類は多いと言われています。

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田淵行男撮影の蝶ヶ岳の写真を見ながら。奥に見えるのが本物の蝶ヶ岳。

また、麓には里山の蝶もたくさんいます。常念岳の山麓にはヒメギフチョウが生息、そしてそこから遠くない白馬岳にはギフチョウがいます。
ギフチョウ、ヒメギフチョウは蝶を研究する人々の間では人気の高い希少な蝶たちです。ただ、よく似ているにもかかわらず食べている植物が違うためギフチョウとヒメギフチョウは生息地が異なっています。しかし白馬岳の山麓は両方が観察できる珍しい地域なのです。昔と比べれば数は減ったものの今でも春、桜の季節になると元気よく飛び回るさまが見られるそうです。

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北アルプス。五龍岳、唐松岳、天狗岳、白馬乗鞍が見える。

人生を通じて田淵は常念岳に206回も登りました。「一つの山に二百六回登るという記録を作ってしまったが〜中略〜決して同じ常念ではなかった。必ず新しい未知との出会いがあった」(田淵行男『山の手帖』より)。その尽きせぬ山の魅力をたとえて「一山百楽」(いちざんひゃくらく/ひとつの山に百の楽しみを見つける)という言葉を残しています。

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豊科町にある田淵行男のお墓にて。墓碑を裏に回ると「一山百楽」の文字が彫られているのがわかる。

現在も常念岳は日本百名山のひとつとして、登山客に人気の高い山です。実際、いろんな楽しみ方があります。燕岳は、北アルプス初心者が最初に登ることが多い山として知られていますが、その燕岳や蝶ヶ岳からも縦走できます。また常念岳の峠、「常念乗越」まで到達するとそこから槍ヶ岳、北穂高岳など周りの北アルプスの山もきれいに見渡せます。

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真ん中に見える黒い高い山が有明山。信濃富士とも呼ばれる。

田淵行男は牧の自宅から常念岳まで、すべて徒歩で登りました。今回案内をしてくれた方は、田淵と近所づきあいがあった方で、農作業をしていると畑の横の道を歩いて山に向かう田淵をよく見かけたと言います。

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現在、常念岳に登るなら車で登山口まで行くか、大糸線の穂高駅や豊科駅から、タクシーで一の沢登山口まで向かう。写真は穂高駅。

現在、常念岳に登るには、「一の沢登山口」まで車かタクシーで行き、そこから登山するのが一般的です。標高2857m、大人の足で4時間半〜5時間といったところでしょうか。冬は初心者にはおすすめできませんが、良い季節にぜひお楽しみください。

田淵行男記念館

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安曇野市豊科南穂高にある田淵行男記念館。

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記念館のすぐ横からも山々が一望。ちょうど雲が切れて常念岳が見えてきた(写真左手。一番高く見えている部分が常念岳の山頂)。

田淵は牧に16年間住んだ後、1961年、56歳のときに安曇野市豊科南穂高見岳町に引っ越し、亡くなるまでこの町で暮らしました。現在、田淵行男記念館やお墓があるのも安曇野市豊科。約73000点に及ぶ田淵行男の写真原版や蝶の細密画、愛用の品々などが収蔵され、定期的に展示が入れ替えられています。

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記念館の展示の様子。田淵が北海道で撮った初公開の写真の展覧会が催されていた。

ちょうど記念館では田淵行男が北海道の山を撮った山岳写真の展示が行われているところでした。田淵は60歳代半ばから70歳代始めにかけて、高齢にもかかわらず北海道までフィールドワークに出かけ『大雪の蝶』という写真集にまとめました。今回の展示は、その時期に撮った山岳写真とのことです。ちなみに、北海道の山に生息する高山蝶の種類は、本州のそれと1種類を除いてすべて違うとのこと。

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田淵行男が描いた蝶の細密画。

館内には蝶の細密画や、田淵による高山蝶の標本なども展示されていました。訪れたときは、1階で田淵行男の展示、地階で田淵行男に師事した写真家・水越武の写真展が行われていました。最も来館者が多い夏の時期は、地階は田淵行男の蝶の絵、1階は北アルプスの山岳写真というように、その世界をより堪能してもらえるよう展示に力を入れているとのことです。

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田淵行男による高山蝶の標本。

田淵行男記念館では年に1回イベントが行われています。たとえば、これまでに冬が春に移り変わり、雪がちょうど溶けかける頃に「雪形観察ツアー」というイベントなども行われていたとのこと。“雪形”とは山に残る雪の模様が特定のモチーフに見えるというもので、ここ信州など雪山が身近な地域では普通に町の人は知っています。たとえば北アルプスの山のひとつ、爺ヶ岳(じいがたけ)では種をまく爺さんの形をした雪形が見え、これが出たら田んぼに種をまく頃合いだと言い伝えられてきました。田淵行男は雪形をテーマにした『山の紋章』という写真集も刊行しています。

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田淵行男が手がけた書籍の数々。図鑑のように大きくボリュームのあるものが多い。

他にも、田淵行男が少年の頃そうだったように、自然に触れて愛する心を現代の子どもたちも育んでほしいと、「こども自然観察教室 むしの会」も毎年開催されています。

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田淵行男がデザインした手ぬぐい。今でも槍ヶ岳の山小屋に行けば購入することが可能。

その他、旅のスポット

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記念館の帰り、田淵行男の行きつけだったという安曇野市豊科の蕎麦(そば)屋にて信州のそばをいただいた。

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蕎麦屋の中に飾られている田淵行男の写真。本人から譲り受けたという。

その他、安曇野観光で巡るスポットといえば、例えばわさび田があります。春先になればわさび田の清流の中に梅花藻(ばいかも)と呼ばれる、梅に似た白い水中花が咲き誇ります。安曇野のわさび田は、田淵行男も写真に収めています。

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穂高駅から車で10分の大王わさび農場。

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田淵行男が撮影した安曇野のわさび田。

それから安曇野出身で、日本近代彫刻の代表格として知られる荻原守衛(碌山)(おぎはらもりえ/ろくざん)の作品が満喫できる碌山美術館もあります。彫刻はもちろん、美術館の建物は長崎の「日本二十六聖人殉教記念館」など手がけた今井兼次によるもので、ロマネスクの教会のような美しい空間の中で彫刻群を見る心地よさが何とも言えません。

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荻原守衛(碌山)の作品と資料を展示している碌山美術館。レンガにつたが絡む。

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美術館内部。日本ではないような異国的な風情。

そして忘れてはならないのがJR大糸線。いわさきちひろの旅でも登場しましたが、車窓から見る山々の景色が大変綺麗です。昔から、北アルプスへ向かう大勢の登山客たちにとっての大動脈的存在でした。

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北アルプスの登山をする人には切っても切り離せない存在のJR大糸線。

人生を通じて、安曇野の山と自然の生き物を愛し大切にした田淵行男。春や夏になって陽気が良くなったら、常念岳などに登って自然を満喫、田淵の世界を追体験するのも楽しいでしょう。もちろん、山に登る際は装備と事前のトレーニングをしっかりとした上で出かけてください。

今回の「出かけよう、日美旅」は田淵行男記念館友の会会長、日本山岳会会員の古幡開太郎さんにご協力いただきました。

インフォメーション

◎田淵行男記念館
長野県安曇野市豊科南穂高5078-2
開館時間 午前9時~午後5時
休館日 月曜 (祝日の場合はその翌日)、祝日の翌日、12月28日から1月4日
アクセス 長野自動車道安曇野ICから車で約5分/JR大糸線柏矢町(はくやちょう)駅から徒歩約20分、タクシーで約5分

◎碌山美術館
長野県安曇野市穂高5095-1
開館時間 11〜2月/午前9時〜午後4時10分、3〜10月/午前9時〜午後5時10分(入館は閉館の30分前まで)
休館日 月曜と祝祭日の翌日、ただし5〜10月は無休 年末休館12月21日〜31日 *元旦から営業
アクセス 長野自動車道・安曇野インターから15分/JR大糸線・穂高駅下車徒歩7分

展覧会情報

◎長野県立歴史館で「自然を見つめた田淵行男展」が2月17日まで開催中です。山岳写真、雪形の写真、蝶の細密画などが多く出品されます。
長野県立歴史館
長野県千曲市屋代260-6
開館時間 12~2月:9時~16時 3~11月:9時~17時(入館は閉館30分前まで)
休館日 月曜(祝日の場合はその翌日)
アクセス 長野道更埴ICより車5分/しなの鉄道屋代駅または屋代高校前駅より徒歩25分/高速道路バス停「上信越道屋代」より徒歩5分

◎田淵行男記念館では「田淵行男写真展 北の山」が開催中。1月20日まで。また同館で1月22日から5月26日には「田淵行男写真展 日本アルプス」が開催されます。