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能登半島地震 雲仙普賢岳・島原の経験を被災地支援に

  • 2024年01月31日

1990年(平成2年)11月。198年ぶりに噴火活動を始めた雲仙普賢岳。多くの犠牲者を出した大火砕流に加え、土石流や火山灰で地域住民は避難生活を強いられました。その時の経験が今も全国各地の災害支援に生かされています。30年以上も前の災害で地元の人は何を経験し、今にどう生かそうとしているのでしょうか。災害支援のあり方について、当時を知る人に話を聞きました。

NHK長崎放送局アナウンサー・気象予報士 木花牧雄

雲仙普賢岳・噴火災害の教訓

訪ねたのは、雲仙・普賢岳の噴火活動でできた平成新山がよく見える南島原市。日本防災士会・長崎県支部の前支部長で、現在は顧問の旭芳郎さんです。

旭芳郎さん

旭さんは、阪神淡路大震災や新潟県中越地震、東日本大震災など、数多くの被災地で支援活動にあたってきました。

今までのボランティア経験を物語る写真の山
東日本大震災でボランティア活動をする旭さん

その活動の原点は「雲仙普賢岳の噴火災害」です。1990年11月17日。雲仙普賢岳は198年ぶりに噴火活動を始めました。

1991年(平成3年)6月3日の大火砕流

多くの犠牲者を出した火砕流に加え、土石流、火山灰によって地域住民は避難生活を強いられました。

さらに、噴火活動は約4年半にも及んだため、避難生活は長期に及ぶことになります。

1991年6月3日の大火砕流の発災後、すぐにボランティア団体を立ち上げ、支援活動にあたった旭さん。そこでは「災害そのもの」に加え、「送られてくる支援物資」にも悩まされたといいます。

日本防災士会 長崎県支部・顧問 旭芳郎さん

我が家のとにかく要らないものを「喜ぶかな?」という感じで、ありとあらゆるものをざーっと段ボールに入れて。それを今度、分けないといけないのが大変な手間なんです。

例えば賞味期限の短いもの。「菓子パン」であったりとか。もっと短いのは「生魚」があったりとか。もっと短いのは「アイスクリーム」がありました。中には「飲みかけの薬」。風邪ひいたら要るだろうと送られた分だと思うんですけど。それに「引き出物」。そういうものも大量に送られ、結局20年近く使わないまま倉庫にストックされていたんです。

「あなたの要らないものは、私もあまり使いたくない」というのが本音なんですよね。

雲仙普賢岳の噴火災害の経験をその後の被災地支援に生かすため、旭さんたちのボランティア団体は支援物資を送るうえで、ある「仕組み」を作りました。

まずは、情報収集して被災地のニーズを把握します。次にそのニーズに見合う物資を島原で集めます。

そして、集めた物資を細かく仕分けして、分かりやすいように品目ごとにラベリングします。さらに人員とともに被災地に送り、荷下ろしまで行います。

この方法は、その後の阪神淡路大震災などの被災地支援でも実践され、「島原方式」として注目されました。

日本防災士会 長崎県支部・顧問 旭芳郎さん

島原は(支援物資を)いただいた経験から、反省を込めて、こんなことやったら被災地は困るよね。困ることは自分たちはやらないでおこう、ということなんです。一切向こう(被災地)の手をわずらわせないというのも、1つの送り方かなと思いますね。

被災地支援に生かす島原の経験

旭さんは能登半島地震でも発災3日後に現地に入りました。

石川県輪島市(1月4日撮影)

初期段階で必要とされる「水」を届けるとともに、現地の状況を確認してきました。

そして、「島原方式」にも込められている、「被災地のニーズに応え」「負担をかけずに行う支援」の方法を探っています。

こうした中、旭さん主催で「チェーンソー」の講習会が行われました。日本防災士会・長崎県支部のメンバーを中心に20人ほどが参加しました。

チェーンソーの講習会(1月21日)

旭さんには、熊本地震でのボランティア活動の際、倒壊した家屋の撤去にチェーンソーを一番活用したという経験があります。

熊本地震(2016年)でボランティア活動をする旭さん

能登半島地震の支援でも、今後必要になってくる可能性があります。

刻々と変わる被災地のニーズ。その1手2手先を想像して、必要な物資や、機材を扱える人材を準備しています。

能登半島地震の今後の支援では、どんなことが重要になってくるでしょうか?

今度は「虫の目」のニーズに応えていくことです。今までは全体をつかんだ「鳥の目」だったんですけれども、今度は個々のそれぞれの困り事に備えていくことです。情報を把握しながら、そのニーズにちゃんと自分たちが応えられるか。被災地に行く時にはそれをちゃんとできるような態勢で行くということですね。

旭さんを被災地支援に動かすもの

これまで全国各地の被災地へ支援に赴き、活動してきた旭さん。私も旭さんに取材をする中で、その災害支援の熱意はどこからくるのか、いつか聞いてみたいと思っていました。今回、旭さんを動かす思いについてお聞きしました。

日本防災士会 長崎県支部・顧問 旭芳郎さん

1つは高校の時の同級生が消防団長をしていて、雲仙普賢岳の大火砕流(1991年6月3日)で亡くなってしまったことですね。37歳で、農家の跡取りでもあって、家族を残して亡くならなければならなかったという彼の無念が1つあります。

もう1つは、9月9日、なぜか救急の日に自分の次男が水の事故で亡くなってしまったことですね。何で自分なんだ。何で自分がそんな目にと。そういうこともあって、自分の子どもが少なくとも80年ぐらい生きるはずだった人生を、代わりに生きてあげないといけないのかなと。

「人が死ぬ、家族を亡くすこと」の痛みは身をもって体験させられたからこそ分かる部分もあるんです。家族を亡くしたら大変だろうなっていうのは、本人じゃないと分からないこともいっぱいある。時間が経たないと、なかなか薄まらないっていうのもありますから。そういう中で、いろいろなものが背中を押しているのかなという気はしますね。

阪神淡路大震災より前に起きた、雲仙普賢岳の災害が浮き彫りにした課題は、今にもつながる教訓を伝えています。その島原での経験と自らの経験から、今も全国各地で支援にあたる旭さん。新潟県長岡市出身の私も、高校生の時に新潟県中越地震を経験しています。その被災地にも旭さんは来ていました。旭さんたちの活動は多くの被災地で、多くの人々の支えになってきたのだと感じます。

チェーンソーの操作を教わる筆者

そして私自身、いざという時に、自らや周囲の誰かを助けられるように「できること」を増やしていきたいと改めて感じました。

  • 木花牧雄

    NHK長崎放送局アナウンサー

    木花牧雄

    新潟県長岡市出身
    「ぎゅっと!長崎」キャスター
    気象予報士
    高校生の時に新潟県中越地震を経験

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